「おはようございます、カイト」
二段ベッドの上段、カイトが眠るそこへ、がくぽは顔だけ、顔のうちでも目だけ、覗かせた。朝がはやくとも冴え冴えと澄む花色、まさに目のさめるような冷たさを湛えた双眸を。
とてもつごうのよいぼくらは、
春の朝に、布団を剥いで、
かけた声も感情がうすく、抑揚のない冷たいものだったが、双眸はそれをはるかに凌ぐ。
そうだとしても、カイトを起こすには、まるでちから不足だった。
声をかけられて、たっぷり、三秒。
「………はょ、ぅさ、……くぽ」
今にも眠りこみそうな声で、目つきで、ようやく、カイトは応えた。
とにかく覚束ないが、応えた以上、このがくぽの放つ『冷たさ』をなんらか、いくばくかは認識したはずで、だとしても、カイトがはっきり、しゃっきり、目を覚ますことはなかった。
それで、そういうねぼけたあたまで、カイトは考えた。
そう、実際のところ、ロイド――プログラムの身だが、KAITOはねぼける。より正確にいうと休眠状態から起動までの、移行時間が長いということなのだが、とにかく『ねぼける』。
それで、ねぼけたまま、カイトは考えはじめた。
そして、ようやくきちんと目が覚めた、つまり起動操作が正常終了したころに、考え終えた。
この間、そう長いことではないが、瞬間というほど、短いわけでもない。
短いわけでもないそのあいだ、がくぽといえば、微動だにしなかった。冴え冴え澄む花色の瞳、過ぎてかたく深く凍りついたそれで、ひたすらじっと、カイトを見つめていた。
そういうわけで、カイトのようやくぱっちり開いた目は、まず、がくぽの花色と見合うことになった。
見合って、『見合った』、相手を認識したと察知して、第一声。
「おはようございます、カイト」
もう一度、ただあいさつをくり返したがくぽへ、ようやく返されたカイトの第一声。
「うん、がくぽ、おまえ、今日?今夜?から、こっちな。上段。おれ下段」
という。
「いちお、シーツ洗って、あたらしいのに掛け替えとくから…あ、下はいーぞ、なんもしないでも。このあいだ、洗ったばっかだし。で、掛け布団は…、うん。マクラともども、入れ替えるだけで、いーよな?あー、ハラへった。よし、カオ洗おっ!」
――以上が、カイトの第一声、返しの全文だった。補記しておくと、KAITOとは思えない勢いの、けっこうな早口で。
併せて動きも、早かった。『ハラへった』でがばりと身を起こし、『カオ洗お』で、二段ベッドの転落防止柵に手をかけ、半身を乗り出す。そしてことばが終わるとほぼ同時、柵を完全に乗り越え、飛び降りて、床に着地。
はしごの存在など、天から無視だ。VOCALOIDとしての機能、つまり、アクロバティックなダンスもこなすための、通常ロイドより高く設定されている運動性能をいかんなく発揮し、美事な着地を極める。
あとづけで、両腕を天へ向かって伸ばし、のびのび、宣言。
「ななてんはち!」
――美事さとくらべ、なかなかからい点数を己に課し、カイトはがくぽの横をすり抜ける。
いや、すり抜けて行こうとして、できなかった。さらにすばやい動きで、首ねっこ、パジャマのえりもとを掴まれたからだ。
「ぐゅむゅう゛っ!!」
勢いがある。つかんだ側の力加減も。進むからだと、引き留められたパジャマのえりとが、互いに譲らず、激しく戦った。
結果、手酷くのどを締め上げられたかっこうとなったカイトは、なかなか表記し難い声を上げ、たたらを踏み、振り返った。
「がくぽ!」
一瞬でなみだめとなったカイトの非難の声を受けても、がくぽの表情はまるで変わることはなかった。感情を刷くことがなく、花色の瞳はかたく、深く凍りついて、わずかにも揺らぐことがない。
紅を塗らずとも朱に濡れるくちびるも、引き留めた由縁である自分の問いだけをこぼした。淡々と、罪悪感のかけらもなく、うろんさもなく。
「カイト、着点は理解しました。発点が不明です」
「ちゃ……?は、ツ?」
なにかがわからない。
と、問われたことは理解した。が、カイトこそ、がくぽがなにを訊いているものかわからず、揺らぐ湖面の瞳をさらにゆらゆら、揺らがせた。
過ぎて鷹揚、些事ならず、大事すらもだだ流すと評されるKAITOらしく、もはや、クビシメに遭ったことへの感想は、どこにも見当たらない。
そのカイトの首ねっこ、パジャマのえりもとをつかんだままのがくぽもまた、なんの感想もないようすで淡々と、小枝でも折るようにぱきぽきと説明を足した。
「話の着点、結着として、寝る場所をカイトとがくぽで交換するということは、理解しました。二段ベッドの、がくぽは下段から上段へ、カイトは上段から下段へ。今日のうちに準備し、今夜から実行」
「コンセツテイネイな説明で、イタミイルな…」
鼻白むを通り越し、完全にひるんだ顔で、カイトはつぶやいた。表情のみならず、首もひょっと、かめのようにすくめる。
全体を見れば、おやねこに首ねっこを咥えられ、運ばれるこねこのようすにも似ていた。運ばれることにまるで納得していない、とてもびみょうな表情なのだが、手足が硬直し、まともに動けないからという。
がくぽはまったく器用に、そんなカイトのからだを反した。くるりと反転させ、自分と向きあわせる。
ごく単純な話、KAITOより【がくぽ】のほうが、設定身長がわずかに高い。併せて今、カイトは背をまるめ、首をひょっとすくめて、なおさら、身丈が縮んでいた。
おかげでごく自然、かつ当然と、がくぽの目線は見下ろすものとなる。
そういった理由の上から目線で、がくぽはカイトへ、懇切丁寧に問いも砕いた。
「しかし発点、カイトがそう提案した理由、思いついた動機、発想の出発点が不明です。なぜ、カイトとがくぽの寝る場所を交換しようと考えつきましたか」
「え、なんで?」
これにカイトは、ひどく驚いた顔を上げた。それで、一寸も逸らすことなく、ひたすらますぐと見つめていたがくぽとはっきり、目があう。
冴え冴え、通り越してかたく、深く、あまりに深くふかく凍りつき、刷かれない感情のために、酷薄を宿す花色。
カイトがひるむことも、臆することも、ましてや遠慮することもなかった。
「だっておまえ、がくぽ。うちに来てから、二日?三日?まあ、なんでもいいけど、そろそろ『いっぱい』な?いっぱい、ずっと、まともに寝られてないでしょうが」
むしろきょとんと、ひどく無防備に、それでいてきっぱり、突きつける。
突きつけられてもがくぽの表情は、そよとも変わらなかった。微動だにしなかった。かけひきの成果として、動かさなかったのではない。ただ、動かないから動かないというだけの。
なぜ動かないのかといえば、感じることがないからというだけの。
なにも感じないから、なにも感じなければ、なにも――
がくぽは片手を上げ、自分の頬をなでた。なにも浮かんでいない、なにも浮かぶはずのない顔、表情、それらをたしかめるかのように。
紅を塗らずとも朱に濡れるくちびるが、もったりと、開く。
「カイト、がくぽはロイドなので」
「もち、知ってるけど」
こくんと頷いたカイトの、湖面のように揺らぐ瞳がふと、揺らぎを止めた。
それだけのこと、ただ、湖面が静まり返ったというだけの、それだけで、みずうみは底が知れないほど、深みを増した。
深く、ふかく、立つさざなみも喰らって差すひかりを呑み、静寂にただ静寂だけを返す、ゆえに底が知れないことを知る、目もくらむほどの。
『ロイドなので』――
いくら人間を模しても、やはり、ロイドは人間ではない。
二日、三日の寝不足の影響が、表に出ることはない。たとえば、目の下のくまであるとか、むくんで腫れぼったい顔、あるいは、肌荒れ。
それでももしも、がくぽの感情や感覚が正常に働いていれば、それなりにだるそうな態にはなったはずだ。
けれどがくぽの感情も感覚も正常な働きとはいえず、だから、今、表に出ているものはなにもない。なにより『正常に働いていない』がために、当の本人ですら――
「知ってるけど、知らないのか、おまえ?ロイドだってネブソクで、ぐあいが悪くなるんだぞ。過ぎると安全装置働いて、かってに電源、落ちるしさ。てか、『安全』装置っていうけど、どこでどう、オチるかって、そこの『安全』はけっこう、ムシなんだよな。場合によっちゃ、あれ、ふっつーに、しぬだろ」
カイトの口調はかるく、いうなら無邪気に、的のまんなか、おうしのめだまを、容赦なく、抉る。
抉られたところで、がくぽの表情がそよとも動くことはない。かけひきの成果ではない。ただ、動かないから、動かない。動かせない。
頬に当てていたがくぽの手が、そろりと動いた。さわるまでもなく、さわったところで、まるで動いていない顔を、表情を、たしかめるように。
自分の頬、目尻から、目元、――片目を覆ったところで、がくぽはもう一度、固まった。
ぴしりと、ちいさなひびが。
ちいさな、ちいさなちいさなちいさなちいさなちいさなちいさなちいさなちいさなひびが、入ったような、走ったような、できたような――ような、気が。
けれど、そこに浮かぶものは、なにもない。
――ないはずだ。
ロイドだからという以上に、以前で、がくぽはなにも浮かばせられないのだから。
カイトががくぽの反応に、ましてや、起こったかどうかさえさだかでないほどの微小な波紋に、構うことはなかった。
「たぶん、おまえ、すぐうえ?一階と二階とかの、床to床じゃなくて、二段ベッドくらいの近さの、『すっっっぐまうえ』に『だれか』っての、だめなんだろ。知らないけど」
告げて、カイトの瞳はゆらゆら、揺らぎを取り戻した。ゆらゆら、立つさざなみに差すひかりを弾き、ゆらゆら、揺らぎにきらめいて、みずうみの奥底、深みをゆらゆる隠す、――
「あ゛っ!」
はたと気がついた顔で、カイトは揺らぐ瞳を見張った。おおきく、こぼれそうなほど張って、愕然とがくぽを見る。ほとんど反射のように、くちびるが動いた。
「おはよっ、がくぽ!」
――考えごとに耽ったあまり、忘れて置き去りにしたあいさつを、どうやら今、このタイミングで今、まさに今、思い出したらしい。
時間差攻撃にもほどがあるこの、時間軸か次元かが食い違ったのではないかと疑うほどの間を置いてからのカイトの所業に、がくぽは冷たい瞳を向けた。いや、ただ、感情が刷かれないからというだけだ。いつも以上に温度が下がったということではない。
紅を塗らずとも朱に濡れるくちびるが、もったり、開いた。
「おはようございます、カイト」
とてもすなおに、律儀に応え、片目を覆っていたがくぽの手が下りた。両目でしっかり、カイトを映す。
揺らぐカイトの瞳に映る、ゆらゆら揺らぐ瞳のなかの、揺らがない、揺らげない、自分。
「――わかりました、カイト。カイトとがくぽの寝場所の交換を、了承します」
「うん。よしじゃあ、ゴハンだ!のまえに、カオ洗って…」
カイトにとって、がくぽの『了承』は当然の結果でしかなかった。たいした感興もなく、くるりと踵を返す。
その足が一歩を踏みだす、ほんのわずか、寸前。
「………カイトは、高いところが好きなのだと、思っていました」
ちいさく吐きだされたがくぽの声は、やはり感情がうすく、抑揚もなく、ためにひどく冷たく、そっけなく響いた。
カイトは、そのみかけの冷たさや、そっけなさに惑わされることはなかった。全般に鷹揚で、反応がにぶいといわれるKAITOでありながら、ほとんど即座に返した。
「がくぽ、おまえな、おれのこと、ばかだと思ってたな?」
――つまり一般に、高いところを好むもののたとえだ。内実どうあれ、成句として、一般に流布している表現。
対して、がくぽだ。相変わらず感情のうすい、抑揚のない声で、そっけなく、返した。
「がくぽは、はさみは上手に使えます。でもカイトのことは、これまでのところ、まったくうまくいったことはありませんので」
――これもまたつまり、一般に流布する表現、使いようをたとえた成句からだ。内実はどうであれ。
興味もないとばかりの、つまらなそうな、実は単に感情がうすいだけで、なにを思っているわけでもないがくぽの返しに、カイトはうろんな顔となった。まるで感情を映すことのない花色を、わずかに首を傾げ、背も撓めて、下から覗きこむ。
「おまえそれ、わかってるか?認めてるぞ?おれのこと、ばかだと思ってたんだって…それも、とんでもなく手のつけようのない、手の施せないほどのって、思ってたって」
怒りはない。不満もだ。ただ、道理の不明な幼い子を相手にいい聞かせるような、カイトの口調で、態度だった。
がくぽは応えて口を開き、途中で止まり、噤んで、もう一度開きかけ、閉じて、ことりと、首を傾げた。
「『ごめんなさい』?」
「うん、対象がなにか、まったくわからん!けど、謝れるのはえらいから、ぜんぶ、水に流した!」
にっこり笑って宣言したカイトは、KAITOだ。過ぎて鷹揚なために、些事ならず、大事すらだだ流すという。
今の話題が些事か大事かは置くとしても、とにかく評判に違わずあっさり流したカイトへ、がくぽは傾いでいた首を戻した。真正面から、ますぐと、身長差ゆえの上から目線で、カイトを眺める。
「カイトは」
つぶやき、つぶやいたことに当惑したように――けれど、いっさい、感情がおもてに現れることはないまま、だというのにもつれるように、がくぽはこぼした。
「KAITO――ですよね?」
いくつも、いくつも、それこそ気が遠くなるほどいくつも、いくつもの意味が含まれた、問い。
質問の裏読みなどしないKAITOらしく、カイトはますぐと返した。
「そだな」
魔球レベルの変化球を苦もなくストレートでがっ飛ばし、かなたへやって、カイトは手を伸ばした。
どこか呆然と立ち尽くすがくぽのあたまを、まだ、起き抜けで整えていないのをいいことに、わしゃくしゃ、撫でる。結われることもなく垂れている髪を、わしゃくしゃ、ひと掻き、わしゃくしゃ、なでまわして、カイトの手はがくぽの手、その手首に伸びた。
つかんで、引く。
「そんでおまえは【がくぽ】だな、がくぽ?知ってるぞ。だからあんまり、シンパイすんな」
いったい、なにを、どう?
けれどがくぽがカイトへそう問い直すことはなく、つかまれた手首を振りほどくこともなかった。カイトに引かれるまま、一歩、踏みだす。
つかまれているのは手首でも、まるでおやねこに首ねっこを咥えられたこねこのようにおとなしく、一歩、一歩、また、一歩――