「がんばって、ダブル・ベッドを買おう」

とてもつごうよいぼくら

さよならだけが人生でもない。

なにも敷かない床に、じかに正座した八船-やつふね-、<マスター>が、とても真剣な顔で提案したのを、カイト、そのロイドといえば、うろんに見返した。

「ダブル・ベッド…を、買ってどこに置くんだ?」

「がんばって!」

さわやかな朝の空気にふさわしい、さわやかな笑みとともに返された八船の、すがすがしい答えに、カイトはなるほどと納得した。

たしかに自分たちの収入からすれば、ダブル・ベッドを買うということ自体に対しては、そう、『がんばって』という表現はいらない。

しかしてそれが、では買ったものをどこへ置くのか、どこなら置けるのかという話になると――

「マスター、カイト」

そうやってあれこれ、ずれずれにずれたところでふんふんふんと納得したカイトのうしろから、もっさりした声が上がった。感情もうすく、抑揚もないのに加えて、今は掠れがつよい。なぜかといえば、

「どこなら置けるかという、配置問題もそうですが、この住宅の構造上、ダブル・ベッドはまず、この居室まで運びこむことができませんが」

「ん?」

腑に落ちたとたん、跳ね飛ばされた。

カイトの感覚を説明するならそういうことなのだが、この、ロイドからの冷徹な事実の指摘に対しても、かれらの<マスター>、八船がめげることはなかった。

なんだかとても力強く、うなずいた。

がんばってっ!

――八船の力強さは、すべてに及んでいた。声も力強かったし、ぐっと握ったこぶしも力強かったし、あとは、力強さのあまり、正座から腰が浮いていた。

そういうわけで、カイトの背後のがくぽはこくり、うなずいた。

「承知しました、マスター。『がんばり』ます」

――つまりロイドにとって、<マスター>の力強さとは、どういった意味を持つかということだ。<マスター>が力強く示した方向、意志とは、どういった意味、ちからを持つか。

相変わらず、感情もうすく、抑揚もないが、掠れは落ち着いた声を耳元に受けつつ、カイトは視線だけ、天を仰がせた。

天、まどの外だ。朝日がいい感じに昇り、そらも明るくなった。

朝だ。

さわやかな――

「よし起きよう。そんでカオ洗って」

「壁をいくつか、壊すことは必須です。まずは運び入れるために、それから、廊下を通すため」

「おはようさん、がくぽっ!!」

カイトは勢いよく、背後を振り返った。背後、シングル・ベッドで抱きあったままともに寝て、<マスター>に起こされたところで、構わず抱きあって転がったままの相手、がくぽ、人形に戻ったロイドを。

人形に戻ったがために、ときとして、『ばかすなお』なロイド。

勢いをもって、せまいシングル・ベッド上から落ちることなく、かつ、がくぽの腕の囲いもものともせず、全身を振り返らせたカイトの瞳は、朝とは思えないほど炯々としていた。炯々として、がくぽと見合った。

対して、受けて立ったがくぽだ。より正確には、こう至近距離にあっては受けて立たざるを得ない、がくぽだ。

うっそり、見返した。いや、単に、感情が刷かれないだけのことなのだが。

ややして、ほんのわずかのあいだだけ噤まれたくちびるは、やはりうっそり、開いた。

「わかりました。計画を修正します。ベッドのマットレスを、二から三に分割」

「すぷりんくらー!」

――なにがいいたいのか、おそらくきっと、正しくは『スプリング』だろうとは思われるが、しかしKAITOだ。まったく定かでない。

そのカイトに、がくぽはまた、わずかのあいだだけくちを噤んだ。

いや、すこし、長かった。おかげで万事、おっとりしているといわれるKAITO、カイトであっても、くちを挟めた。

つまりだ。

「逃げるな、がくぽ」

真顔で、諭す。

それで、再度、くちを開くことなく、ただじっと見つめたがくぽを、カイトは揺らぐ湖面の瞳を、そらおそろしいほど澄ませ、見返した。

「なにも壊さない。カベも、マドも、ベッドもだ。なにも。なにも」

いい聞かせたカイトを、がくぽもまた、そらおそろしいほど澄んで、うつろに、なにもない瞳で見返した。

「ですが、カイト。この家の構造上」

「ベッドを探せばいーんだよ、がくぽ。このベッドとおんなじくらいのサイズの、ダブル・ベッド」

このベッドといって、カイトは今、自分たちが寝転ぶベッドをたんたんと、叩いてみせた。

『このベッド』は二段ベッドなので、二段に重ねられたベッドの上段と下段とに分かれれば、成人男性ふたりであろうと、こんな、きつきつきゅうきゅうにならず、眠ることが可能だ。

ただし、上段と下段、各それぞれのベッドの広さ自体は、どうかという。一般的なサイズ表記は、どうなっているかという。

がくぽの瞳にも、表情にも、感情が浮かぶことはなかった。ほんのあえかな動揺が走った形跡すら、ない。

けれど、次に開いたくちびるからもれた声は、どこか、非常に慎重に響いた。

「『このベッド』と、――おなじサイズの、ダブル・ベッド、ですか」

声に感情はうすく、抑揚もない。

であるのに、隠しようもない戸惑いが伝わる。

いや、伝わらなかった。すくなくとも、カイトには。

「そ。このベッドと、おんなじくらいのサイズの、ダブル・ベッド。だってこれ運ぶとき、カベもマドも壊してないじゃんベッドは…まあ、枠組みと、マットレスには、分割したけど。マットレス自体は、分割しないで運んでるし。じゃ、このサイズのダブル・ベッド探したら、万事解決って、ことだろ」

「この、サイズの、ダブル・ベッド、……」

自明の理とばかりに述べ立てるカイトに、がくぽはおなじことばをくり返した。おそらく、くり返すしか、できないのだ。

芳しくないがくぽの反応に構うこともなく、カイトはにっこり、笑った。

「こっちのほうが、がんばりがいあるってもんだろ、がくぽ?」

そのカイトの問いかけは、わかっていて、いっているようにも聞こえた。『このサイズのダブル・ベッド』がどういうことであるか、きちんとわかったうえで。

ただし、カイトはKAITOだった。いつでもそこがネックだ。カイトはKAITO、KAITOなのだ――

がくぽはようやく、わずかにからだを起こした。なぜ、わずかかといえば、すぐうえの真上には二段ベッドの天板が迫っていて、うかつな起き方をすると、あたまを打ちつけるのだ。

で、とにかくわずかにからだを起こしたがくぽは、もう一度、自信満々に笑うカイトを見て、どこか途方に暮れたような視線を、その先、敷きものもない床に、直に正座しているマスター、八船へ流した。

受けて、察して、八船はにっこりこっくり、うなずいた。

「がんばってっ!」

「わかったぞ、マスター!」

マスターからの、短い返しにすらかぶるほどの勢いと反応速度で、カイトはエウレーカを叫んだ。がくぽの腕の拘束が解けていたのも幸いと、がばり、ベッドから飛びだす。

飛びだし、行き過ぎて、振り返り、先からループな八船を、きっとして見た。

「ハラへりだろ!」

びしりと、――びしりと、告げる。

八船の表情は、変わらない。そう、『変わらない』。

がくぽとはまた違う意味で、方向性で、これもまた、感情がないといえた。感情がなく、たとえ笑っていても、表情がない。

その理由といえば、だからだ。

「ハラへって、へりすぎて、まともに考えるのもできないくらい、ハラへってるだろ、マスター道理でヘンなこと、いい出すしてか、そういうヘンなこというなら、先にひと言、オナカすいたって、いってもいいと思うんだよな?!」

これに、八船はにっこり、もはや能面もおなじにっこり笑顔で、こっくん、うなずいた。

「がんばったっ!」

「よしっ、がんばったのは、えらいっ!」

きっぱり、なんのうらもなく容れて認め、カイトはくるりとターン、扉口へとからだを向けた。

「じゃ、カオ洗って、とにかく、朝ごはんだなしたら、マスターも再起動、かかるだろうし………んで、食べ終わったら、今日は」

元気よく予定を述べ立てながら、カイトはさっさと、部屋から出ていく。

その背を見送り、見送った目を落として、がくぽは『このベッド』をもう一度、再度の再度、確認した。

物議を醸した元凶の、『このベッド』と『おなじサイズ』のダブル・ベッド――

ほんの数秒、眺め、がくぽは未練を断ち切ろうとするかのような動きで、ベッドから視線を外した。ごそもそ、背を屈めたまま這い進んで、床に足を下ろす。

床に足を下ろし、ふと、未だ、にっこりにこにこ、正座のまま微動だにしないマスター:八船へ、視線を投げた。無感動な瞳が、過る感想もなく、上から下、八船をざっと、たしかめる。

紅を塗らずとも朱に濡れるくちびるが、もそりと開いた。

「足が痺れて動けないのですね、マスター………がくぽが抱えて運びましょうか」

このロイドの申し出に、八船はへたくそな操り師が繰るマリオネットのようにぎごちなく、首を振った。横に。

「ありがとう、がくぽ。でも、じびじびしているから」

いずれ解かなければならないにしても、今、圧迫を解くと、それはそれで悶絶する羽目に陥る。そしてその悶絶級の『じびじび』に耐える覚悟をまだ、八船はかためられていなかった。

――いわくの『じびじび』に追い詰められながらも、そういった機微をなんとか伝えようとした八船だが、そもそもがくぽには感情がなく、つまり情けや、情けから生じる容赦というものがなかった。

「いずれ、どのみち、解かねばならない圧迫です、マスター。そうでしょう?」

「え、いや、ま、が…っ」

「『がんばって』」

手を伸ばし、かるがる、八船を抱え上げるがくぽの告げたそれは、ことばこそ応援だったが、やはり感情がうすく、抑揚もなかった。大根役者のせりふ、あるいは、意味も理解しないまま借りたことば。

当然、八船が力を得るにはすこしばかり、あれこれ不足だったことは、いうまでもない。

ただし力を得られたところで、耐えられるようなものだったかどうかもまた、定かではないわけだが。