第16話-【をとこのすなること、げに】
「へっ?!」
「いやだめだろそれ。だめだ」
愕然とするのはカイトもで、しかしこれはいわば、がくぽの返答に因るものだった。
なんだかんだでろくな進展もないまま、もやもやだけは腹に溜められて幾歳月のひと月半、ようやく機会が巡り来たったと乗じたなら、その機会を振った相手からのまさかの返答。
これが愕然とせずにいられるものか。
あまりのことに醸していた色香もすっかりすっ飛ばし、カイトは湖面の瞳をまん丸にして、伸し掛かる男を見上げる。
ところで伸し掛かる男、がくぽは、非常に厳密に、正確さを期して言うならば、正気に返ったわけではなかった。
原因と理由が不明ながら、なにかしらのパニックに陥っていたというのが、近い。
パニックに陥ったらしく、がくぽはカイトからの非難含みの視線にも気がつかなかった。ただひたすら愕然としつつ、「だめだ」をくり返して体を起こす。
そう、体を起こしてしまった。
せっかく据え膳なねこにゃんこをベッドにころりん転がすことに成功したところだったというのに、この大型わんこときたら身を引いてしまったのだ。ぬこぱんち百連弾をその美貌に喰らわされたとしても、抗議する権利などない。
という程度のことをパニックに陥ったままやらかしたがくぽだが、もちろんそれで終わる男でもないのだった。
自分から体を起こして身を引いたのは確かだが、呆然とベッドに転がるカイトの体も起こした。
相変わらずの意味不明な小器用さというもので、多少の違い程度しかない、同程度の体格の成人男性体なのだが、まるで相手に負担も思わせず、がくぽにも負担があるようでもなく、軽々と。
起こして自分と正対する形で座らせたがくぽは、自分が乱したカイトの服についても甲斐甲斐しく直してやった。そんな甲斐甲斐しさは不要なのである。しかし甲斐甲斐しく直してやった。
「がくぽ」
「前々から思っていたんだが、カイト。もっといのちをだいじに!あ、違った、自分を大事に!!」
「にゃ゛っ?!」
――そして始まるお説教である。しかも混乱しながらの。
カイトの毛が、耳からしっぽからすべて逆立った。幻想で幻視というものだが、どういうわけだかよく見える。
逆鱗の竜もしくはねこにゃんこ、もといなカイトの様子にも構わず、がくぽはひたすら真剣だった。花色の瞳はなぜかぐるぐるとしていたが、とにかく真剣だった。
「カイトが鷹揚なのはよく知っているが、意外に強靭で、少々のことではへこたれないとか、やわく見えて実は打たれ強くて堅いとか天使の笑顔で頑固一徹星一徹だったりそこがまたかわいというか逆にえろくてそそられるんだけど結局天然天使で結構油断があってヤられるままに流される傾向とか思うつぼなんだけどなんだか気がついたらどこにイってるのかわからなくなっていたり」
「に゛っ……」
情報量が多い。それもおそらく、無為かつ無駄に。
すでにカイトはがくぽがなにを言っているのか、一言一句を理解しようという処理は放り出していた。
ので、感覚としては『音が流れているような気がする』だ。
そう、『流れている』という確信すら、放り出している。
がくぽは声帯を用いて声に出して話しているのだから、せめても『音が流れている』と断定していいはずだが、そこの感覚処理すら、カイトは放り出した。
余程のことであればきちんと一言一句を聞き漏らさず受け、分析にかけて理解しようとはするが、カイトは今の状況を余程のことだとまでは――否、反対の意味で、余程のことだと考えていた。
『反対』に、『余程の』ことだ。
雰囲気だけは掴んでいた。
なんだか、がくぽがろくでもない思考に嵌まった挙句にろくでもないことを言い出し、それはおそらく理解はできないしする気もないが、自分に関する、ろくでもない評価であると。
これをとても簡潔にまとめるなら、『わるぐちいわれてる!』だ。
あながち間違ってもいない。言葉など、一言一句を細大漏らさず聞いて理解する必要などないのだ。そういうこともある。
そして今はつまり、そういうことだった。
「がくぽっっ!!」
だからカイトは滅多になく大きな声で、相手の言葉を遮った。たとえ『音が流れている気がする』程度にしか認識してやっていなくても、ろくでもないとわかりきっていることを延々続けさせてやる義理はない。
びくりと竦んで口を噤んだ相手に、カイトはぷんすかぷんとしたまま、命じた。
「けつろんッ!!」
「けつろん……結論、結論?否だから、自分を大事に、だ。カイト。………うん、カイト。うん」
予想もし得ない相手からの軍隊的な、つまりは非常に厳しい雰囲気に鞭打たれ、今度こそがくぽは正気に返った。
瞳をぱちぱちと瞬かせ、いったい自分はなにをしていたのかと探る様子はあるが、少なくとも先よりは正気に近い。正気である。
正気に返るともはや、パニックに陥ったまま自分がやらかしていたことを続ける意味もない気がしたが、しかしがくぽはそもそも機微に敏い、情報処理能力に優れた機体だった。
自分がなんだって肝心の場面で怖気てやらかしたのか、その原因、つまずきの理由にも、すぐに思い至った。
ネックはここだ。
咽喉に刺さった小骨、指先に立った棘、ずっとずっと気になって、今ひとつ振るわなかった。
いかに慎重さを要するとはいえ、不慣れなそれをやろうとして、不慣れなまま続けてしまった原因で、理由――
「確かに俺が強請った。強請って強要していた俺が言うのも難だが、カイト。いくらやさしいにしても、ほどがある。自分を粗末にするも甚だしいぞ。俺はカイトを傷つけたいでもないし、玩具にしたいわけでもない。否だから、ここまでずるずるとだらしなくやらかした俺には言いにくいことこのうえないが……」
「にゃにっ?!」
ぷんすかぷんけと、ちーぱっぱ式な鞭を振り回すカイトに、がくぽはまたも首を竦めた。
鞭はいわばちーぱっぱ式で、こわさのレベルとしては低い。だからといって油断すれば、ぬこぱんちではなくぐーぱんちもとい、漢の拳を喰らう。
ねこにゃんこの怒りではなく、買うのは『カイトの』怒りだ。
それは避けたい。
マスター同士が夫婦で、否応なしに同居し続ける必要があるといった切迫事情以上に、だからあまり気まずい関係にはなりたくないといった怯懦もあれ、しかしそれ以上に――
「好きでもない相手と――そういった意味で好きでもない相手に、強請られたからと、自分を赦すな、カイト。俺はカイトがそれを理由に、そういった意味では見られないからと断られても気を悪くしたりしないし、拗ねもしない。当然のことだと思う。その程度の分別はある」
「………がく、」
怒りを霧消させ、カイトは驚いたように丸くした瞳でがくぽを見つめた。驚いたようでも、その瞳の強さは健在だ。まっすぐと、清明で、揺らぎながらも揺るがない。
見返すことは勇気がいる以上に命がけといった感があったが、がくぽはこれまで自分が仕出かして来たことの始末として、きっぱりと湖面の瞳を見返した。
湖面の中に、揺らぐ自分がいる。気弱なふうではない。頑是ない、どこか稚気じみた。
これで『拗ねない』などと言っても真実味は薄いなと冷徹に分析しつつ、がくぽは続けた。
「カイトの俺に対する好意に、疑いはない。カイトが俺のことを嫌いだと言っているわけでは、ないんだ。好いてくれていることは知っている。ただ、ならばこういったことを赦してもいいような愛情かどうか、自分の体を与えても、赦してもいい種類のものであるのか………そうでないなら、カイト、」
そこでがくぽが言葉を切ったのは、つまり、カイトだ。カイトの様子だ。
変わった。どう変わったといって、喩えるなら、きらきらさんだ。
つい先ほどまでは、おかんむりだった。ぷんすかぷんけの、ちーぱっぱだ。
それががくぽが諭す最中に唐突に、ぱっと煌いた。その輝きたるや、超新星爆発かくや、いくらがくぽでも口を噤まざるを得ないような。
警戒心を剥き出しに口を噤んだがくぽに、しかしその様子に構うことなく、カイトはぱんと手を打った。
「そっ、か?!いえばいいんだ?!俺から、俺が!そっか、なんだ、それだけ?!」