ネムメマ-2/3-

始まりは、カイトからだった。そして迷うことなく日付も言える。

『初日』からだ。

それは『がくぽ』が起動し、マスターに連れられてラボから『家』に来た、まさにその夜のことだった。

一般家庭だからささやかなものだけれどと、謙遜されはした。が、起動したばかりで世間を知らないがくぽにとっては、十分に賑々しく豪華に、自分の歓迎会を催してもらい――

さあもう時間だから寝ようとなって、引き上げた『自分の部屋』。

マスターの趣味を反映した一戸建て二階屋のこの家は、和を基調としながら、いわゆる畳敷きの純和室がないという、少々不思議なつくりだ。

しかしがくぽはデフォルトの感覚では『和風』のみならず、『畳』を好む。そのためマスターは、用意した個室に琉球畳を入れておいてくれた。

床面すべてではなく、布団が敷けるスペース程度だが、がくぽは十分だと思った。

しかしいざ布団を敷いたところで、途方に暮れることとなったのだ。

敷いてみたら布団のカバーの柄があまりに個性的というか、独創的で斬新なものだったとか、布団はあったが枕は欠けていたとか、なにかしらの問題が『布団』にあったわけではない。

途方に暮れていた原因は用意された布団ではなく、布団を前にした自分の状態だった。

眠くない。

もちろん、ロイドだ。いくら起動したてであっても、がくぽも理解している。人間とは睡眠のありようが違うから、いわゆる『眠気』というものが存在しないことくらいは。

しかしもっともわかりやすく表現するなら、そうと言うしかない。

眠くない――もしくは、眠れない。

理由を掘り下げていくとあまりに子供じみているので、がくぽは認めたくなかった。

つまり、先までの歓迎会での興奮と、起動したてでなにもかもが初めての経験だという緊張と、――相俟って過ぎ、かえって眠気を追いやってしまうまでになった、重苦しい疲労と。

認めようとも認めまいとも、眠れないことは確かだ。

であってもロイドで、規定の休眠時間というものがあり、寝る時間が遅れれば遅れるだけ、起きる時間も遅くなる。

いくら新型でスペックが高くなろうとも、それとこれとは別だ。人間とはやはり、あからさまに違う部分がある。遅く寝てもいつもと同じ時間に――睡眠時間を削って早く起きることは、できない。

だから寝なければならないが、寝なければと焦り、重圧を掛ければ掛けるだけ、眠気が遠のく。

この感覚は、無為なまでに人間と同じだ。いっそ関係なく、時間だからと半強制的に寝落ちればいいものを――

「………糞」

思わず口汚く罵り、がくぽは入ることも出来ずにいる布団を睨みつけた。

そう。気が立って、布団に入ることも出来ない。布団を前にして座り、眺めているだけが精いっぱいだ。

実のところ、座っているだけでも苦痛だ。苛々と波立つ感情まま、無闇と歩き回りたい。動き回りたい。

いっそそうしようかと、検討候補のひとつには上げた。

だが、夜も遅い。ロイドは一度寝に入れば多少の物音など気にしないが、人間であるマスターは、そうはいかない。

気がつかれた挙句に様子を見に来られ、どうしたのかと問われたら――

「………言えるものか」

初めての場所に緊張して、眠れません、など。

ずいぶん気さくで暢気なマスターだったが、この場合、人柄はどうでもいい。がくぽの矜持だ。

鏡音シリーズを始めとする子供系ロイドならともかく、起動したてであれ、成人として設定されている自分がそんなことを口にするなど、いっそ舌を咬みたい。

果てしなくマスターに迷惑が掛かるだけだとわかっているし、実際にはやらない。だとしても、言わなければならないかもしれないと考えただけで、ちょっぴり涙目になる。

それくらい、厭だ。

――から、苛々と募る思いままに歩き回ることは堪えているが、それにしても。

「どう………、っ」

屈辱と敗北感に塗れ、がくぽが頭を抱えたときだ。

苛立ちのまま、髪を掻き毟ろうとする間際に、扉がこここんと、軽くノックされた。

はっとして顔を上げたものの、がくぽは驚きと狼狽で咄嗟に声が出ない。

張りついて自由にならない舌と、思い浮かばない応えの言葉。

ために、なにも口に出せない数瞬――

「はいるよー、がくぽ」

「………かい、……」

のんびりとした声が上がり、応えも待たず、扉が開かれた。

入って来たのが、カイトだ。個々の部屋に別れる前はまだ、普段着だったが、今はよくあるタイプの男物のパジャマに着替えている。色こそ青系だが、無地のものだ。アイス柄でもなく、かえって意外に、大人しい。

布団を前に座ったまま、凝然と見つめるだけのがくぽに、カイトは上げた片手をにぎにぎと振った。

「おっはー、がくぽ」

「『おは』………?」

――がくぽは思わず胡乱な顔になり、壁に掛けられた時計に目をやった。次いで、カーテンを閉めたままの窓へ。

時計の針はそろそろ日付変更線を超えるところまで来ており、そして窓の外から差しこむ光はない。

布団を前にしたまま一睡もせず、うっかり完徹して夜が明けたということもなく、真実きちんと夜だ。夜も夜の、深夜だ。

挨拶するにしても、『おはよう』はない。

それともなにか、芸能特化型である自分たちはいついかなるときも、出会ったときの挨拶は『おはよう』であるという決まりでも――

「っと、おい、カイト?!」

「ぅいぅいー」

起動したてで不慣れだということが主な原因で、がくぽが反応しきれないまま思考を転がしている間に、カイトはさっさと傍にやって来た。

いや、傍に来たというのは、正確ではない。

カイトはがくぽに断りもなく、勝手に布団に潜りこんだ。

カイトの部屋もあるし、カイトの布団――板間で問題なく落ち着くカイトはベッド使用だが――もある。

のに、がくぽの布団に潜りこんだ。断りもなく、がくぽがそもそもまだ、一度も使ったことのない布団に。

「なにをやって……っ」

「ん。おいでおいでー。だきまくさん、してあげるから」

「は……?」

勝手に潜りこんだカイトは、端に寄ると布団をめくり、座ったままのがくぽをちょいちょいと手招いた。

マスターのことも、ずいぶんと気さくで暢気な人柄だと思った。その先住のロイドであるカイトに対しても、同じだ。

ロイドはマスターを映す鏡とはよく言ったもので、非常に気さくで暢気だと。もうひとり先住でメイコもいたが、あれはあれで反面教師と――

しかしマスターは気さくで暢気なだけだが、カイトの言動は、加えて不思議で、読めない。

旧型に類されるカイトと新型のがくぽなら、がくぽのほうが機微に敏く、より多くの情報を読み取る能力に優れる。

が、カイトの言動は読めない。起動したてで不慣れだということもあるが、感性の違いが大きい。

おそらく長く付き合っても読めるようにはならないだろうという、薄々とした予感がある。

「カイト?」

なんとはなしに推測は可能なものの、確信が持ちきれず――というより、確信したくなくて呼んだがくぽに、カイトは布団をめくったまま、へらりと笑った。

「ん。眠れないでしょでも俺のことだっこして、………抱き枕にしたら、すぐ眠れるから」

「……っっ」

衝撃がいくつか重なり過ぎて、がくぽはびしりと固まった。そのまま動けずに、カイトを見つめるだけになる。

どこまでもマイペースに進むカイトは、がくぽの衝撃や矜持や繊細な機微といったものに、構ってはくれなかった。布団をめくるために上げっぱなしだった腕も、疲れたのだろう。

一度ぱたりと腕を落とすともそもそと起き上がり、がくぽにずずいと顔を寄せる。

「あのねめーちゃんに頼むわけにいかないの、わかるよね、さすがにそれともどうしても、めーちゃんがいい俺じゃイヤだとぬかしますか?」

「否!」

ほとんど反射だけで、がくぽはぷるぷると首を横に振った。だからといって、カイトの無きに等しい迫力に圧されたわけではない。

『そういう』嗜好でもないのに、出会ったばかりの男同士で、ひとつ布団に抱き合って眠るのは抵抗があると――確かに衝撃のひとつはそれで、否定はしない。

だがカイトが言ったように、メイコに抱き枕になれと要望を出すことには、もっと激しい抵抗がある。

いや、抵抗というレベルではない。拒絶だ。

あくまでも『抱き枕』で、それ以上を求めるわけではないが、違う。

彼女の人柄にも因らない。これはがくぽの倫理観の問題だ。

それに『嗜好』云々に因らず、カイトと同衾することが嫌なわけでもない。

ない、が――

「しかし」

「しかしもかかしも、お菓子も駄菓子もないの。もう夜遅いんだから、いくらロイドだって肌荒れるよ、こんな時間におやつ食べたら」

「は?」

カイトの文脈は、起動したてのがくぽには難解も過ぎる。頻繁についていけなくなり、花色の瞳をきょとんと見張るしかなくなる。

くり返すが、カイトはどこまでもマイペースだった。がくぽの繊細な機微になど、一切構ってくれない。

反応の鈍い新型の首に腕を回すと半ば強引に、布団への引きずり込みにかかった。

「これ、かい……っ、ちょ、待てっ、……っ」

「ほら、ぎゅー遠慮しなくていーよ。俺って見た目より全然頑丈だし、がくぽがちょっと力いっぱいぎゅーってしても、ふっつーに眠れるし」

「いや、ではなくカイ……っ、……っ、…………」

――がくぽは結局、反論も抵抗も途中で諦めた。

そうでなくとも起動したてで、諸々に関する経験不足は否めない。そこに持ってきてカイトとは初見で、人となりがまだ、掴み切れていない。

おいおい馴れたなら、自分の意見や主張を通す方法を探そうと決め、とりあえず今は諦めた。そして半ば自棄や八つ当たりを含めて、言われるがままにカイトを力いっぱい、ぎゅーっと抱き――

起きたら朝だった。

一瞬で寝落ちたらしい。

疲れていたのだから、気が緩めばそういうこともあるだろうが、それにしてもまさかの。

残る疲れもなく気持ちよく目覚めたがくぽだが、呆然として、未だ起きる気配のないカイトを抱きしめていた。