店先に目をやり、目的のものを見つけたカイトの表情が、ぱっと輝いた。
「がくぽさま、がくぽさま、これ…………っ」
「っきゃっはははははは!!!」
「あ………」
輝く表情で振り仰いだカイトに答えたのは、不在の空白とかん高い爆笑。
カイトの頬にさっと朱が散り、慌てて手で口元を覆い隠したが、もう遅い。
「………………およめさま……」
「ぅうう………っ」
いつもなら絶対の味方である少女にまで呆れたように呼ばれ、カイトは口元を押さえたまま、俯いた。
はなばなのあだしなせば
お出かけ日和と言える快晴の日、カイトはがくぽの妹たち、グミとリリィと『女三人』で、市へと出かけた。
そう、今日に限っては、夫であるがくぽは屋敷で、留守番だ。
そもそもは、カイトから義妹たちに相談して、頼んだことだった――夫に内緒の買い物をしたいから、どうにか出来ないか、と。
カイトがどこに行くのでも、ついて来るがくぽだ。もちろんカイトだとて、普段はそれを疎むようなことはない。むしろ歓ぶ。
けれど、どうしてもがくぽには内緒で買いたいものがあり――そのおよめさまのかわいらしい要望を聞き入れてくれて、義妹たちが画策し、協力してくれて、がくぽを留守居に『女三人』での買い物と相成った。
の、だが。
「ろっかいめ!!これで六回目よ、ねねさま!!きゃっはははははは!!」
「………リリィ、もう少し控えよ…………」
「ぅ………ぐすっ」
いつもなら、下の妹の不行儀には厳しいグミの声にも、今は力がない。
そう、六回目だ。
なにか目新しいものや、心惹かれるものを見つけたカイトが、きらきらと顔を輝かせて、不在の夫を振り返るのは。
だから、カイトが頼んで画策して、がくぽは屋敷に置いてきたのだ。だというのに、カイトは瞬間的にがくぽの名を呼んで、振り返る。
一度目は苦笑で済んだが、それも二度三度…と重なると。
「…………これください……」
「ああ、ようよう目的のものを見つけたか」
真っ赤な顔で俯きながら、店先の商品をつまむカイトに、グミはほっとしたようにつぶやく。
普段は商人を屋敷に呼びつけるのが、大家老家として威勢を振るう、印胤家の娘であるグミにとっての『買い物』だ。
だからといってこういった、歩き回っての買い物も、嫌いではない。
およめさまと出かけるのも、いやではない――が、なにしろ、隙あらば夫を求めるおよめさまだ。決して愚かでもないおよめさまだというのに、どうしてか、これだけは学習しない。
そこまで兄を慕ってくれているのかと思うと不思議な気もするし、それ以上にうれしい。
が。
疲れる。
振り返って、背後の不在に気がついた瞬間のカイトの、この世の終わりにも似た、悲愴な表情――こちらの胸まで、きりきりと痛むではないか。
情など捨て去る以前に、生まれたときから存在しないと言われる、印胤家の娘でありながら。
「ああ、きれいな薄色ね」
カイトが手に取った端布を見て、ようやく爆笑を治めたリリィが瞳を細める。
「おにぃちゃんの色だわ」
「………ぇへ」
悄然としていたカイトが、少しだけ笑う。
小銭を払って手に入れた布を、大切そうに胸に抱いた。
カイトが作りたいのは、お守り袋だ。もちろん、がくぽに渡すための。
悪家老として名を轟かせる印胤家の当主であり、常に恨みつらみの怨讐まつわりつくがくぽだ。命を狙われることも日常で、危険と隣り合わせの生活だ。
だがそれ以上に、がくぽ自身がひどく、危険を好む。わざわざ自分から、火中の栗を拾いに行ったり、虎穴に虎児を獲りに行ったりする癖がある。
カイトの願いなら大抵のことを聞いてくれるがくぽだが、危ないことをしないでください、という、その嘆願だけは聞き入れて貰えない。
なにしろカイトにとっての『危ない』と、がくぽにとっての『危ない』の認識に、大きな隔たりがある。
がくぽにとってはちょっとねこをつついたような気持ちのことでも、カイトから見れば――世間一般から見れば、蒼白になって卒倒しそうなほどに危険なことだというのが、理解出来ないのだ。
がくぽのことは愛しているし、生活にもなんら不足はないが、そこのところの聞き分けだけがどうしても容れられないのが不満だ。
がくぽが今日はどんな『おいた』をして、今日こそは無事に帰って来ないのではないかと思うと、寿命が縮まりそうな気がするのに――
どんなにそんなに言い聞かせても、こればかりはどうにもならない。
仕方がないので、カイトは自分の考えを変えた。
危ないことをされるのがいやだと訴えるのではなく、危ないところにいても、必ず自分の存在を感じていてもらおうと思ったのだ。
そのための、お守り袋だ。
カイトが屋敷にいて、無事の帰りを待っている。
がくぽの無事を、いつでも祈っている。
そう、感じていてもらうための、ちょっとした贈り物――
出来ればがくぽには内緒で作って、突然贈って、驚かせたかった。
そのために、屋敷にある端切れという端切れを探したのだが、これ、と思うものがなかった。そこで思い余っての、がくぽを置いてのお出かけだ。
「それに、瑠璃色……………なるほど。秘色か」
「おにぃちゃんとねねさまの色だわ。うふふふふふふふふふ」
「ぁは………」
義妹たちにも、カイトの思惑がわかったらしい。
グミは微笑ましそうに、リリィはあからさまに怪しく笑い、カイトは赤くなって俯いた。胸に、大事にだいじに布を抱く。
「さて、それでは帰ろうかの、およめさま………」
「え、グミちゃん、もう?」
グミが言い差したところで、リリィが目を丸くする。
妹の言いたいことはわかっても、グミは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「………これ以上、およめさまをあにさまなしで連れ回すと、どうにもそのうち、幻と会話でも始めそうな懸念があるのじゃ」
「それはそれでオモシロイじゃない」
「うつけが」
「った!」
グミは素直過ぎる妹の額を指で弾いたが、彼女自身も結構なことを言っている。
引きつり笑うカイトに、グミは柔らかに笑った。
「次からは、どうでもあにさまも伴なおう。秘密であれなんであれ、およめさまのお傍には、あにさまが必要じゃ」
***
屋敷から出るときより、帰るときのほうがあからさまに足が弾んで、カイトは最後にはほとんど小走りのようになった。
一応断ってから、義妹たちを置いて屋敷へと走りこむ。
「がくぽさま、がくぽさま!只今帰りました、がくぽさま……」
はしたないと言われようとなんだろうと、大声で呼びながら広い屋敷の中を走る。
けれど、応える声はなかった。
「がくぽさま……?」
いつもカイトと過ごす座敷に入っても、がくぽの応える声もなければ、どころか姿もない。
カイトは立ち尽くして、不在の座敷に力ない視線を投げた。
風のように、自由気ままな性質の夫だ。じっとしていることが苦手で、気がつくとふらりと出て行ってしまう。
そしてどこかでやんちゃをしてきて、しらっと戻ってくる。
義妹たちが押しつけた留守居に飽けば、好きに出掛けもするだろう。後で散々に責められようと、そんなものに構いはしない。
そういう、風のような夫を愛しているけれど――
「……」
悄然と庭へ目をやって、カイトはびくりと震えた。
「が、くぽ、さまっ?!」
ひっくり返った声で叫び、転げそうになりながら、慌てて縁側へと走る。
縁側の陽だまりに、がくぽが大の字で伸びていた。
気配にうるさい性質だ。これだけ騒がしくして、起きないのはおかしい。
カイトはがくぽの傍らにしゃがみ込むと、胸に耳を当てた。次いで、鼻に手をやって、息を確認する。
「……っ」
緊張に身を強張らせていたカイトだが、しばらくして、へたりと縁側に座り込んだ。
「ねてる……………!」
どこかしら呆然として、つぶやく。
ひとりきりの留守居に飽いたがくぽは、縁側での昼寝と決め込んだらしい――なんという平和な選択だ。夫とも思えない。
しばらく呆然と座り込んで、眠りこむがくぽを眺め、カイトは自分の胸に手を当てた。
激しく波打っている。
その理由は、不安でも、不快でもなく――
「……………がくぽさまー………」
そっと、小さく、呼びかける。吐息のように、あえかに。
がくぽはぴくりともせず、眠りこんだまま。
「…………帰りましたよー…………」
ゆっくりと身を屈めてささやき、カイトは晒された耳にくちびるを落とした。そろそろと舌を伸ばすと耳朶を舐め、やわらかなそこを口に含んで、軽く牙を立てる。
「……ん……」
「……」
小さく呻いたものの、それだけだ。がくぽに起きる気配はない。
カイトは身を起こすと、そんな夫をじっと眺めた。
気まぐれで、自由な、風のような夫――
今日はこうして屋敷で待っていてくれたけれど、次はわからない。
いつ、どんなふうに思い立って、危ない場所へと『おいた』に出掛けてしまうやら。
どんなにいやでも、それを止めることは、カイトには出来なくて。
だから、せめて。
「………」
瞳を細めると、カイトはがくぽの胸元へと手を伸ばした。ゆるりと撫でて、そっと袷を開く。
「がくぽさま………お守り、ね……」
ささやきながら身を屈め、晒された首に口づけた。そのまま肌を辿り、浮いた鎖骨に触れる。
「んく……」
ちゅ、と肌を吸って、牙を立てた。ちろりと咬み痕を舐めて体を起こし、微笑む。
そうまでしても起きないがくぽの肌に、鮮やかに咲いた、花痣ひとつ。
もちろん、お守り袋だとて早速作って渡すけれど、危険を好む夫を守るものなど、いくつあったところで、いいのだ。
「ぁは」
こみ上げるうれしさに小さく声をこぼして笑い、カイトは痣を撫でた。
いくつもいくつも散らしたい、カイトのものだという証。
けれどそれ以上は触れることなく、カイトは乱したがくぽの着物を直し、いいこに膝を揃えた。そっと頭を持ち上げて、自分の膝に乗せる。
「♪」
安心しきって眠りこけるがくぽの顔を眺め、カイトははなうたをこぼした。
気配にうるさい夫。
なのに、こうまでしても、起きることなく、安心しきって眠っている。
カイトの気配が傍にいて、こんなふうな悪戯をしてすら――
その意味がわからない、カイトではない。
言葉よりなにより雄弁に、その態度が、がくぽのカイトへの絶大な信頼と愛情を語っている。
カイトは飽きることもなく、安らかな寝顔を眺め続け。
「………あ、がくぽさま」
ふ、と眉をひそめてから、うっすらと開いた瞳に、満面の笑みとなった。
「おはようございます。よくお眠りでしたね?」