「女同士のお出かけなんだから、おにぃちゃんは付いて来ちゃだめよ」
ふんぞり返って言ったリリィに、がくぽは微妙な表情で首を傾げた。
「………おんなどうし……………?」
異論があるような、ないような。
くさぐさのもののおもへば
絶好のお出かけ日和と言えるだろう、よく晴れた日だった。
そんな日に、印胤家の姉妹たちは、新当主として立ったばかりの兄が迎えたおよめさま、カイトとともに、市に行きたいと言いだした。
より正確に言うなら、行きたいという希望ではなく、行くから!という、強制だったのだが。
屋敷に篭もってばかりでは、息も詰まる。そもそもが、働き者の町娘だったカイトだ。ひとつところにじっとしているだけでも、苦痛だろう。
気晴らしに行くのもいいだろうと思ってがくぽが了承すると、姉妹たちはその兄への礼として、留守居を言いつけた。
印胤家らしい、礼になっていない礼だ。
その留守居を言いつける理由というのが、『女同士のお出かけだから』という――
「ぇへ」
「………」
『女同士』で括られた、がくぽのおよめさま、カイトのほうは、困ったように笑って首を傾げる。
身を包むのは、確かに女物の着物で、短い髪もかわいらしく飾られている。そしてなにより、がくぽの 『およめさま』だ。
だが。
「……………まあいい。なににしろ、そなたは俺のただひとりの『女』だしな」
「………がくぽさま………っ」
なにかしら納得してしまったがくぽに、カイトは目元を染めて睨んで来た。
印胤家に輿入れしたばかりのかわいらしいおよめさまは、しかし、紛れもなく、男だ。
そこらの女より、磨きに磨かれる姫より、どれほどきれいで愛らしくても、れっきとした男なのだ。
それがどうしておよめさまに、といえば、愛ゆえに、としか。
そんなこんなな一幕もありつつ、カイトは義妹たちともに市へと出かけた。
がくぽとしては正直、カイトだけで出歩かせたくはない。どこに行くにも、付いて回りたい。
そうとはいえ、馴れない環境に嫁いだカイトにも息抜きが必要なことはわかるし、妹たちと親睦を深める時間も必要だ。
たまには、手を離さなければいけないこともある。
「……………まったく面白くないな」
かりりと首を掻き、座敷の真中に座したがくぽは、不貞腐れた顔でつぶやく。
望みのままに振る舞うことが赦されるなら、カイトは座敷に繋いで、自分ひとりに愛でられる鳥にしてしまいたい。
誰の目にも触れさせず、誰の手も触れさせず、その声はがくぽの名前だけをさえずる。
それが理想だが、反面、どこまでも自由にしておいてやりたくもある。
あの足で、軽やかに地を駆け、跳ね回り、そして幸福に笑ってがくぽを映す。
そのカイトがいいと思う。
「…………市、か」
まだふたりして身を偽って市井にいたころ、一度、いっしょに市に行ったことがあった。
江戸に居るというのに、カイトが一度も市へ行ったことがないと言うから、物見遊山の意味も込めて。
人でごった返す通りに、カイトはひどく苦労して、ひとりでは歩けなかった。
見かねたがくぽが腰を抱いて支えてやると、その体は縋るようにやわらかく解けて凭れて来て――
その瞬間に自分の胸に湧き上がった、言葉にもならない、愛おしさ。
そのころの自分たちの関係といえば、脅迫者と被害者で、決して縋られるような間柄ではなかった。
それなのに、カイトはがくぽを頼りにしてくれて、信じて体を預けてくれた。
溢れる愛おしさに堪えが利かず、咄嗟に物陰に連れ込み、無防備なくちびるに吸い付いた。
――ぁ…………がくぽ、さま………っ。
抵抗しない体は、素直にがくぽの舌を受け止める。
――こんな、ところじゃ、だめ………。
甘く詰られて、だったら今すぐ長屋に帰ろうと心が逸った。
帰って、その体の隅々まで暴き、味わいたいと。
思い逸るのを堪えたのは、カイトに市を経験させてやりたかったからだ。
買う買わないは別として、この活気を愉しませてやりたかった。
潤んで見つめる瞳を振り切ることは難しかったが、がくぽはなんとか思いとどまって、カイトとともに市を堪能した。
そして帰ってからは、待ち望んだカイトを。
「…………いかんな。催した」
つぶやいて、がくぽはかりりと頭を掻いた。
カイトが傍にいればもちろん、こうして思い返してさえ、体に火が灯る。
「…………やれやれ」
座敷は広く、屋敷は静かだ。
カイトがいない、ただそれだけで、すべてが空虚に沈んでしまう。
「ろくなことを考えんな」
ぼやくと、がくぽは立ち上がって縁側へと行った。日の当たってあたたかいそこに、ごろりと横になる。
気が変わった、と言ってカイトを追いかけても、おそらく妹たちは追い返しはするまい。兄の気まぐれも、およめさまへの耽溺ぶりも、よく理解しているふたりだ。
罵りはするだろうが、どうしても追い返す、までではないだろう。
カイトにしたところで、笑って受け入れてくれるだろうことは、わかっている。
それでも。
今日は、カイトを待とうと思った。
いつもいつもこの屋敷で、自分の帰りを待ってくれるカイトを――今日は、自分が。
待って、おかえりと出迎えてやろう。
それが、めおとになったという、なによりの証左だから。
がくぽは陽だまりの中で瞳を閉じた。
その顔が浮かべる笑みは穏やかで、闇に名を轟かせる印胤家の当主とも思えないほどに、やさしかった。
***
ふ、と意識が戻って、がくぽは眉をひそめた。
「あ、がくぽさま」
見上げた先に、カイトの笑顔がある。うれしそうに微笑む彼は、額に掛かるがくぽの髪を、やさしく梳いた。
「おはようございます。よくお眠りでしたね?」
「ああ」
悪戯っぽく笑いながら訊かれ、頷く。
確かに、よくお眠りだったのだろう。愛しい妻の帰宅にも気がつかず、それどころか。
「何時、帰った」
覗きこむ頬を撫でて訊くと、カイトは気持ちよさそうに瞳を細めた。
「半刻あまり前です」
「そんなにか」
思わず渋面になって、つぶやく。
愛しい妻の帰宅に気がつかないどころか――その妻に、いつの間にか膝枕をされていて、それでなお、半刻あまりも目を覚まさなかったなど。
溺愛する妻が帰って来たことに気がつかなかったのも業腹だが、頭を抱え上げられても気がつかずに熟睡していたとなると、自分の危機管理意識を疑う。
相手がカイトだったから良かったようなものの――
「そんなに、じゃないです。がくぽさまのおかわいらしい寝顔を見てたら、あっという間でした」
「………そなたな」
浮かれた様子で、カイトは笑う。
髪を梳かれて、がくぽは瞳を細めた。
むしろカイトだったからこそ、目を覚まさなかったのだろう。
カイトになら、寝首を掻かれることも厭わない。
カイトが自分を要らないと言うのなら、この世に存在する意味などない。
なにをされようとも構わないと心底思えばこそ、警戒心もなく、カイトが傍に来ても無様に寝こけているのだ。
わずかに困ったとは思うものの、同時に、ひどく幸福でもある。
まさか自分に、そんな相手が出来るとは思いもしなかった。疑心と猜疑に苛まれて、信じるものもなく孤独に欺かれて、生きていくものだと思っていたのに。
「俺も丸くなるものだ」
「がくぽさま?」
がくぽは笑うと、きょとんと首を傾げるカイトを引き寄せ、くちびるを合わせた。頭の下で、膝がもぞつくのがわかる。
存分に感覚を刺激してやって、がくぽは手を離した。
「ん………………」
カイトはほんのりと目元を染め、身を起こす。とろりと蕩けた瞳に、咽喉が鳴った。
その体を開こうと手を伸ばしかけて、がくぽはふと思いついた。
にんまりと性の悪い笑みを浮かべて、蕩けているカイトを見上げる。
「そなた、俺が寝ている間に、なんぞ『いたずら』をせなんだか?」
「っっ」
問いに、カイトはきょとんと瞳を見張り、それから真っ赤に染まり上がった。
「し、してません!!」
したと白状したも同じな裏返った叫びに、がくぽはカイトの膝に懐いたまま、声高く笑った。