盃を片手にしたがくぽは、カイトが持つ徳利へと差し出すこともなく、非常に愛らしく首を傾げてみせた。

「花見よな?」

「ええ。………お屋敷ですけれども」

夫が愛らしい素振りを見せるときというのは、大抵油断ならない。ろくでもないことを考えているときだ。

どうして考えていることがろくでもないのに、こうも愛らしく振る舞うのか、カイトには未だにわからない。さすがはお江戸を裏で牛耳る、悪家老印胤家当主、と感心すればいいのか――いや、それもおそらく違うような気がするが。

とりあえず、用心しいしい答えたカイトに、がくぽは盃を持った手の人差し指を伸ばした。ひょいと下に向けて、示す。

「屋敷で、水入らずで、花見の宴よな。……………特別製の盃で呑めれば、これ以上ないと思っていたのだが………」

「とくべつ…………の、さか………」

がくぽの指差す方向を目で辿り、カイトはしばらく沈黙した。しぱしぱしぱと瞳を瞬かせ、謎かけめいてもいる言葉の意味を考える。

がくぽは急かすでもなく、無邪気にして無垢なおよめさまの様子を眺めていた。これはこれで彼には、十分に愉しいのだ。

うっすらと笑みを刷いて眺めるがくぽの前で、しばらくはきょとんとしていたカイトが、徐々に徐々に、肌を赤く染めていく。

頬から耳からうなじから、果てには徳利を持った手までを赤く染めて、カイトはきっとした顔を上げた。瞳を羞恥の涙に潤ませて、がくぽを睨む。

「んな、んなっ、なにを………っお、俺は、こんな形はしてますけど、女の人じゃないんですからねっ腿に肉がないんですから、できませんっ!!隙間があるんですから、こぼれますっっ!!」

「ああ、ああ。わかっておる。わかっておるから、そう喚くな」

「だ、だって、がくぽさま………っっ!!!」

真っ赤になって喘ぐカイトは、今日も愛らしい『およめさま』姿だ。着物も女物なら、頭を飾るのも、髷ではなく、かんざし。

――かんざしを挿してはいても、カイトは髪を伸ばしていない。短いままで、多少違和感はあるのだが、文句なしに愛らしいおよめさまには違いない。

因業一家、悪家老として名を馳せる印胤家の、さらにその中ですら一族郎党から『鬼子』と呼ばれ恐れられる現当主、がくぽのおよめさまとは、とても思えない。

無邪気にして無垢な、天女のようなおよめさまだと言われている。

いるが、実際のところ、カイトは男だ。身分を偽り、だけでなく性別すらも偽っておよめさまなどをしているが、体も心も紛うことなく、男だ。

もちろん、がくぽは重々承知している。

いや、そもそもカイトに身分も性別も偽らせ、およめさまになれと迫ったのが、がくぽだ。

偽られた身分のことを知って、脅迫していたこともある――すべては、カイトに岡惚れしていればこそ、だが。

「まあ、気にするな、カイト。それが出来ぬからと言って、そなたのそこの価値が落ちるでもなし」

「ぅあ、あ、あったりまえですっっ!!!こんなことで価値を量られて堪りますかっっ!!!」

「っははは!」

いつもは夫に従順で、大人しく穏やかなおよめさまだが、今のは腹に据えかねたらしい。

徳利を置くと、愉しげに笑っているがくぽの膝をぽこぽこと叩く。

大して痛いわけでもない攻撃に、がくぽは明るく笑って反省する様子もない。

空のままの盃を指で弄びながら、傍らに立つ桜の木を見上げた。

印胤家の庭には四季折々にさまざまな花が楽しめるよう、趣向が凝らされている。

それはもちろん、家人の趣味ということもあるが、客人をもてなす、もしくは印胤家というものの威容を見せつけるためでもある。

俸禄だけでは食うに困っているのが、武士階級の現状だ。庭の手入れはおろか、屋敷の手入れすら、満足に出来ていないものも多い。

屋敷のみならず、庭にまで手を掛けられるということがとりもなおさず、印胤家が持てる力を、なによりも雄弁に語っている。

その一環として、庭には見事な枝ぶりの桜の木も、あった。

ここ最近、あたたかい日が続いたかと思えばあっという間に蕾が綻び、花が開いた。

数日観察したが、そろそろ満開と言ってもいいだろうという状態になり、がくぽはカイトと二人で花見をすべく、庭に膳を用意させたのだ。

使用人もきょうだいも屋敷にいることはいるが、当主がおよめさまと二人で過ごしたいと言えば、ひっそりと形を潜める。

溺愛し、江戸中にその盲愛ぶりを広めているおよめさまとの時間を邪魔したあとの、自分たちの末路は想像することも拒むものだ。

なので、本当にここには、がくぽとカイトの二人きり――

がくぽが企んだような、カイトに下半身を露出させ、その体を盃とさせるような淫猥なお遊びも、誰憚ることなく。

「も、もうっ、がくぽさまはっきょ、今日はお花見なんですから、大人しく、お花を愛でてくださいっ!」

「だが、なにも漫然と花を見るだけが、花見ではないだろう風情やら、風流やらというものが」

「『その』盃でお酒を召し上がることの、どこが風情で風流ですかっ!!」

「やれやれ」

真っ赤になったまま叫ぶカイトに、がくぽは肩を竦めた。

相当なことをして、カイトの体を仕込んで来たはずだ。恥ずかしいと泣いたことは数知れず、赦してくださいと嘆願されたことも、数知れず。

それでも、未だにこういったことで心底から恥じらうから、敵わないと思う。

おかげで、ついつい、遊びが過ぎる。

「しかし、意外だな」

大人しく、徳利から盃に酒を享け、口へと運びながらがくぽはつぶやく。徳利を捧げ持つカイトを横目に見て、くちびるを歪めた。

「意味がわかるのか」

「………」

きょとんとして、言われたことの意味を考えたカイトは、再び羞恥に顔を歪めた。くしゃくしゃくしゃと、かわいい顔を盛大に歪め、徳利を両手で握りしめると、膝の上に置いて俯く。

「が、がくぽさま、が…………っこれで少し、勉強しておけと………っ見せた春画にっ、…………っっ」

「……………………………………………………………………………ああ」

恥じらうあまりに掠れる声で吐き出された言葉を、わずかに考えて、がくぽは頷いた。

カイトにはいろいろさせているから、今さら逐一、これがどう、あれがどうと、咄嗟に考えない。

やさしく蕩かしてやりたいのが本音で、しあわせにすると約束して、身分も性別も偽らせた相手だ。

しかし因業一家の印胤家嫡男として、その中にどっぷり浸かって生きてきたのが、がくぽの真実でもある。愛おしい相手であればあるだけ、苛みたい心に駆られることもある。

そうでないときでも、やさしく蕩かすの意味が多少、一般とはずれるのも、残念な事実だ。

どう汚し、どう痛めつけても無邪気で無垢なままのカイトが愛しくてかわいくて、募る想いゆえに――

「…………そういえば、猥本の朗読をさせたことがあったな」

「だ、だけじゃない、です………………っ。春画を見せて、これの体位がどうなって、どう感じているか、想像してみて言葉にしろと……………っ」

「……………………………………………………………………………ああ」

――そういった遊戯の初めの記憶なら、がくぽにも鮮明だ。この体位ならこうだから、カイトがこう言えばおもしろい、などと。

しかし途中からは、春画の中身がこうで、というところはすっ飛ばし、『カイトがどう反応しているか』だけに、意識が行ってしまう。

結果として後半に行けば行くだけ、がくぽの頭からは春画の内容が漏れる。

「そういえば、そんなこともあったな」

「………っ」

すっ呆けたがくぽの応えに、カイトはきゅむっとくちびるを噛み、涙目を上げる。

恨みがましいのではない。ひたすらに、恥ずかしいだけだ。睨んでいても瞳は甘く熱に蕩け、がくぽを愛しんでいる。

がくぽは酒を啜ると、誇らかに花を咲かせる桜を眺める。

美しいと思う。

思えることが、驚異だ。

花を美しいと思い、――いや、自分の屋敷に咲く花を、美しいと思い、愛でられる。

今年も咲いてくれたかと、季節の訪れを、言祝ぐことが出来る。

自分が、そんな心持ちになれる日が来るなど、想像したこともなかった。

たまさか、気まぐれで棲み処と決めた、長屋のひとつ。

そこに、やはり田舎から出てきたカイトがいて、かわいい娘だと仄かに思っていたら、その秘密を知って。

「………」

「ぁ………」

微笑みを浮かべたがくぽに腰を抱かれて招かれ、カイトは素直に膝を崩した。

身を寄せて、がくぽの胸に顔を埋める。

ねこのように、すりり、と擦りついてから上げた顔には、さっきまでの憤りの欠片もない。

ひたすらに慕う色と、思いやる心がある。

がくぽはさらに腕に力を込めて、カイトの腰を抱き寄せた。

「――旨い酒があり、そなたの作った肴がある。花は目に美しく、鼻に芳しい」

「はい」

「傍らにはそなたがいて、俺に寄り添っていてくれる」

「………はい」

頷いて、カイトもまた、微笑んだ。がくぽの着物をきゅむっと掴んで、頭を擦りつける。

「ずっと、お傍におります。がくぽさまのお傍に、ずっとずっと。ずっと、心よりお仕え申し上げます」

言葉の裏にある、感情を考える必要がない。

カイトの言葉は、どう吐き出されてもがくぽに対して誠実で、常に真摯だ。

がくぽもまた、胸に擦りつくカイトの頭に顔を寄せた。つむじにくちびるを落として、軽く頬を擦りつける。

疑いようもなく、愛おしい存在――

「目も鼻も、口も満たされた。これであとは、耳に心地よい音があれば、言うこと無しだ」

「………………がくぽ、さま?」

ねこのように瞳を細めて擦りついていたカイトだが、その言葉にはぴくんと体を強張らせた。

些細な口調の変化を読み取れなければ、この夫とはやっていけない。それは、愛があるかないかというのとは、まったく別次元の問題だ。

きゅむむっと、さらにきつく着物を掴んだカイトの頭に顔を擦り寄せたまま、がくぽは笑った。

「花見の間、そなたが少しばかり乱れて、啼き続いておれば――」

「が、がくぽさまっっ!!」

案の定の中身に、カイトはがばりと体を起こしてがくぽを睨んだ。

瞳が羞恥に潤み、尖りながらも熱を持って甘い。

カイトは掴んだままのがくぽの着物を、きゅいきゅいと引っ張った。

「お、俺だって、お花見したいです!!そ、そんなっ、ずっと啼いてる状態だったら………お花見、出来ないじゃないですか!!」

抗議するおよめさまに、がくぽは軽く眉を上げてみせた。

「つれないな、カイトせっかく、二人きりだというのに………」

「それとこれとはっ」

「まあ、良い」

反論を紡ごうとするカイトにあっさりと引き、がくぽは最高に愛らしく首を傾げてみせた。

「………おいたはせぬ。とはいえ、接吻くらいは赦そうな?」

「………そ、れは………ん………」

どうせ肯定の返事に決まっていると、がくぽは皆まで聞くことなく、カイトのくちびるにくちびるを重ねた。

触れるだけに止まらず、口の中に舌を潜らせ、存分にカイトを味わう。

「ん………ん、ふぁ、ぁふ………っ」

懸命にがくぽにしがみつき、カイトは翻弄される感覚に悶えた。

――そして、半刻あまり。

「……………え。あの…………そういえば、おいたはしないと………っぁんぅっ」

庭に転がったカイトは、乱れた着物をそのままに、がくぽに体を弄られながらはたと我に返って訊いた。

伸し掛かるがくぽのほうは、動じることもない。

しらっとした顔で、頷いた。

「悪戯など、しておらぬだろう誰よりも愛おしいそなたに、悪戯などで触れるものか。真っ向本気だ」

「え………ええ?」

なにかしら、騙りが行われている気配は感じたものの、がくぽによって感覚を煽られている。

カイトはそれ以上に深く考えることも出来ず、甘い声で啼いた。