賭場の用心棒という、うってつけなのかどうか微妙な仕事が明けて、長屋へと帰る道すがら。

微妙な仕事明けの微妙な心境をさらに微妙にする光景を目にして、がくぽは壮絶に眉をひそめた。

きりぎり-編-

仕事が微妙なのは、本日の賭場客が全員大人しく、礼儀を弁えていて、いっさい荒事が起こらなかったせいだ。多い血の気を吐き出しきれず、がくぽの胸中にはもやもやが溜まって、鬱陶しい。

どうにも血を好む性質だが、その微妙なもやもやを良いように煽ってくれるのが、目に入ってしまった光景だった。

「……………愉しそうなことだな」

つぶやくがくぽの声は、これ以上なく根暗に潰れた。

視線の先、まだ声が聞こえるほどではない距離に、カイト――同じ長屋に住まう、町人の娘がいる。

変わった娘で、まだ若いというのに、髪をひどく短くしている。襟首に届くか届かないかだから、かなりだ。

いっそ髪だけ取れば、がくぽのほうが娘らしい。長く艶やかに伸ばした髪の美しさは、持ち主の性悪さを知っていてもなお、見惚れるものがいるくらいだ。

カイト自身は訝る周囲のものに、江戸に出てくるときにお金がなかったので売ったんです、などと説明しているが――

「…………ふん。誰でも良いのか、結局は」

こぼれる声は、陰々と沈んでいく。

カイトが髪を短く揃えている理由を、長屋の中ではがくぽだけが知っている。

あれは、矜持だ。さもなければ、最後の意地。

カイトは髪が短いことを除けば、愛くるしいことこのうえない娘だ。そのうえ愛嬌もあって、素直で無邪気。

長屋の老若男女すべてから好かれて愛される、格別の娘――だが、実態といえば。

「………………ん?」

もはや現実にどす黒い靄が見えるような気配を纏っていたがくぽだが、ふと眉を跳ね上げた。

勘違いでなければ、今――

「……………」

たらたらと歩く速度を変えることはなく、がくぽはさりげなく進路を変えた。

遠目に行き過ぎようとしていた足を、カイトの元へ。

井戸端に立ち、見知らぬ若い男と談笑している、その場へと。

「っぁ、がくぽさまっ!」

「えっ、カイトちゃん?!」

がくぽが何気なさを装いつつ井戸の傍らを通り過ぎようとすると、カイトの声はあからさまに弾んだ。

こまこまとよく動く体がぱっと閃いて、目もやらなかったがくぽの袖をきゅっと掴む。

「…………なんだ」

「あ、あのっ…………え、ええと、別に、用事は……………。その、あの、…………が、がくぽさまは、お、お仕事帰り、ですか?」

立ち止まって素っ気なく訊くと、カイトは袖を掴んだまま、しどもどと言葉を続けた。

耳まで真っ赤に染まりながら、その手にきゅううと力が篭もっていって、縋る色を宿す瞳が懸命にがくぽを見つめる。

「か、カイトちゃん…………ちょっと、その…………手…………」

「ぁ、あの……あの……がくぽさま…っ」

「………………ふん」

見込み通りだったとわかって、がくぽは鼻を鳴らした。

急降下した機嫌が、今度は急上昇していく。我ながら、現金なことこのうえない。それでも正直、愉快だ。

瞬間、愉しそうだと見えた二人だったが、愉しいのはどうやら、相手の男のみ――

内心の愉快さをだすことはなく、がくぽはあくまでもしらりとした、感情の窺えない顔のまま、カイトを見返した。

「カイト、そなた、仕事はいいのか貧乏町人で、そのうえ娘のひとり暮らしだろう。こんなところで、時間を潰していられる身分か?」

「え、ぁ、その………っ」

意地の悪い口調で訊いたがくぽに、カイトはぱっと瞳を見開き、俯いた。袖を掴んだ手は、懸命さを失わない。いっそ哀れなほどに、がくぽを求める。

「だ、だからさ、カイトちゃん娘ひとり暮らしなんて、今のご時勢に………」

「貧乏人は貧乏人らしく、あくせく働け、カイト」

何事か言いかけた相手の男の言葉は聞かず、がくぽはカイトに向かってのみ、ばっさりと言う。

それから視線を落とし、きゅうっと袖を掴む手を見た。掴まれているのとは反対の手を上げると、懸命なそれを軽く払う。

「掴むな」

「っあ、…………………ご、めんな、さ」

払われてようやく、自分ががくぽの袖を掴んでいたことに気がついたらしい。

一気に首まで赤くなったカイトは、同時に、冷たく払われた手を胸元に抱いて、弱々しく瞳を潤ませた。

同じ長屋暮らしとはいえ、カイトは町人。

対してがくぽは、出自こそ明らかにしていないものの、侍だ。歴然とした階級が存在する。

ひとにはよるが、両者は馴れ合うことを好まないことが多い。

がくぽはそちら側、町人と侍とが馴れ合って暮らすことを好まない性質だった。だからといって特に威張りもしないが、はっきりと壁を見せる。

そのうえに、がくぽの周囲に見える人影は怪しい。賭場の用心棒をしているせいだけでもなく、人相風体のまともらしからぬ人間が、頻繁にご機嫌伺いにやって来る。

危険の臭いを嗅ぎつける住人たちは好んでがくぽに近寄ることもなく、馴れようとすることもなく、いるけれどいないという微妙な態度で接していた。

それからすると、カイトの今の態度は明らかに、線引きを超えている。

だから手を払われたところで、仕方がない。

仕方がないが――

俯いたカイトに素知らぬ顔で、がくぽは軽く屈んだ。足元に置いてある、水の汲まれた手桶を持つ。似たようなものが多くても、これが誰のものかくらい、わかる。相手がカイトに限定してだが。

「水汲みごときで時間を無駄に使うな、貧乏町人。行くぞ」

「え、ぁ、ちょ、がくぽさ…………っ」

言って、手桶を提げたまますたすたと歩き出すがくぽに、その持ち主であるカイトは慌てた。

俯いていた顔を跳ね上げて、がくぽと、事態が飲み込めない男とを見比べ、しかし選択のしようもない。

男に向かって頭を下げ、暇の言葉をいくつか告げると、ぱたぱたと小走りでがくぽの後を追った。

「がくぽさまっ」

「走るな。こける」

「だって、がくぽさまがお早いからっ。走らないと、追いつけませんっ」

「面倒だな………」

ぶつくさと言いつつも、がくぽはさりげなく歩く速度を落とす。

わずかに後ろにずれて並んだカイトは、手桶を提げるのとは反対のがくぽの袖をきゅむっと掴んだ。

「あの、がくぽさま。俺のですから、俺が」

「言葉に気をつけろ、カイト。外だ」

「あぅ。う…………はい」

低い声で口早に諌められて、カイトは空いた手で自分の口を塞いだ。

異様なまでの髪の短さを除けば、カイトはまったくもって愛らしい町娘だった。声がわずかに低いが、そういう娘がまったくいないとは言わない程度だ。

くるくるとよく働き、愛嬌もあって気立ての良いカイトは、うちの息子の嫁に、などと声を掛けられることも頻繁だったが。

実態は、男だ。

どういう理由かは未だに聞き出せていないのだが、カイトは男でありながら、己を『娘』と偽って暮らしていた。

素直で無邪気、無垢そのものの体現が、カイトだ。騙りや詐欺とはまったく無縁な風情だというのに、これだけは譲らない。

陰間というわけでもなく、ごく普通の娘――だが、誰にも告げることなく、その中身は完全に男。

己が望んで娘になりたいわけではない証拠に、正体を知るがくぽにはつい、呼称が男のものになる。

所作や声からも娘らしさがわずかに削げて、男が見え出す。

それでも愛くるしいことに変わりはないが、秘め事には違いない。

がくぽ相手に緩んで、外で男として振る舞うのは問題だ。

「え、ええと………あの、桶、…………あ、アタシの、ですから………」

「言いづらいなら、名前呼びしていろ。カイト、と。幼い振る舞いだが、そなたなら赦されよう」

「あ、はい………」

「それからな、重いものは極力持つな。そなたはやはり、男だ。いくら骨組みが細くとも、女より筋力があるゆえ軽々と運ぶが、そうしているときには男が覗きやすくなる。自分の限界より遥かに下のところで止めておいて、それも四苦八苦して運ぶようにしろ」

「…………はい」

声は素っ気ないものの、諄々と諭すがくぽに、カイトは素直に頷く。

説教されているのだが、その顔はどうしても、綻んだ。

前を向いたまま、カイトをさっぱり見ないがくぽだが、その言葉の端々に細かい気遣いがある。

カイトがしていることはいわば騙りで、がくぽにはその内実を明かしてもいない。

怪しいことこのうえないはずなのに、こうして細かく気遣ってくれて、なにくれとなく助け手を伸ばしてくれる。

自然と弾んだ足取りのカイトを横目に見て、がくぽは聞こえないよう、小さなため息をこぼした。

片手には水がたっぷりと入った手桶を提げていて、反対側の袖をカイトにつままれている。先のように、払うことはできないが。

きゅっと眉をひそめて口を引き結ぶと、がくぽはつままれたほうの手を、乱雑に振った。咄嗟のことに、カイトの手は動きに追いつけず、離れる。

「掴むな」

「あ………………」

振り向くこともなく、素っ気なく告げたがくぽに、弾んでいたカイトの表情はさっと曇った。

「………はい。ごめんなさい………」

カイトは払われた手を握って胸元に置くと、足も遅れがちになって俯く。

まるで、ひどく残念そうな――

素早く周囲を窺って他人の気配を探ると、がくぽは今度はあからさまに、深いため息をこぼした。

立ち止まると、俯いて蹌踉と歩くカイトを振り返る。

「まるで、縋られているようだ」

「ごめ、…………っぁ、がくぽさっ、!」

再び謝ろうとしたカイトはがくぽに手を取られ、乱暴に抱き寄せられた。あまりの勢いに足がもつれて立っていられず、カイトは半ば飛びこむような形で、その胸に抱かれる。

手桶を置いたがくぽは抱き寄せたカイトとともに素早く、表店と長屋との間の狭い小路に入りこんだ。

咄嗟のことにされるがまま、身動きが取れない体を抱き竦めると、がくぽは顎に手を掛けて、カイトの顔を無理やりに自分へと向かせた。

「がくぽ、さ、ま」

「うつけが。そういう仲か、俺たちが?」

「ぁ、ゃ、待っ……………んんんっ」

低く罵ったがくぽは、その乱暴な勢いままに、カイトのくちびるを塞いだ。