「もぉっ、がくぽさままた、おいたをなさって!!」

かりがりの-01-

座敷に仁王立ちしたカイトは、のみならず、足まで踏み鳴らして叫んだ。常に穏やかで凪いでいるおよめさまだが、今日は珍しくも堪忍袋の緒が切れたらしい。

が、叱られる夫が反省の色を浮かべることはない。

座敷に胡坐を掻いて座ったがくぽは、不遜に鼻を鳴らして嗤った。

「この程度のことでいちいち喚くな、カイト。かわいいものだろうが」

「こ、この程度って………っかわいいって………っ!!も、もぉお、もぉお…………っ!!」

カイトは言葉を失い、ふるふると震えながらしばし立ち尽くした。

そうやって爆発への熱量を溜められていっていても、がくぽが慌てる素振りはない。平然として、いっそ憎たらしいほどだ。

実際がくぽには、自分がそれほどのことをやらかした自覚がなかった。

因業で鳴らす大家老家、印胤家にあってすら、一族総体から『鬼子』と呼び畏れられるがくぽだ。印胤家に育ったというだけでずれる『おいた』の基準が、もはや手のつけようもないほどにずれて歪んでいる。

だから怒るカイトが、理解できない。溺愛し、すでに溺死しているだろうと言われるほどに愛するおよめさまだが、どうして詰られているのか、さっぱり理解が及ばない。

及ばないので、反省の欠片もない。

こうして表面上は怒るカイトが、本当のところは自分のことを心配しているのだと、察することも出来ない。

カイトの夫がやらかす『おいた』はそのまま、誰かを傷つけることだ。陥れ、貶め、怨みを買うものだ。それもあまりに容赦なく、徹底的に。

カイトはもちろん、がくぽに誰かを傷つけることもしてほしくはない。が、さらに言うなら、そうやって買った怨みがいつか、がくぽを傷つけ、取り返しのつかないことになるのではないか、と――

案じ、恐れるあまり、かえって怒りとなって表出しているのだと、敏いがくぽでありながら、まったく気がつかない。

「もぉおおお…………っっ!!」

ぷるぷると震えながら憤りの丈を吐き出すと、カイトはがくぽの前にへちゃんと座った。居住まいをただし、大家老家のおよめさまらしい威厳に満ちて当主に対すると、涼しい顔の相手をきっと睨みつける。

「そんなことばっかり言って反省なさらないのでしたら、お仕置きしますからね、がくぽさまっ!」

いつもいつも甘く蕩け、熱とともに見つめるカイトの瞳だが、今は険しく厳しい。

しかし溺愛するおよめさまがそこまでしても、がくぽはやはり、鼻を鳴らして嗤うだけだった。

「仕置きそなたがはっ、面白いな。なにをする気だ」

「っっ」

余裕そのもので、むしろ嘲笑いさえするがくぽに、カイトはくちびるを噛んだ。

この場合、がくぽの態度も多少は仕方がない。

周囲を完璧に欺き、男でありながら町娘として長屋に暮らし、挙句夜には、ねずみ小僧として各所に盗みに入って――と、江戸の裏世界で暗躍していたのが、嫁入り前のカイトだ。

そのうえ今は、因業一家、江戸の裏を牛耳る悪家老家、その鬼の棟梁と、さんざんな言われようをしてもまったく反論できない相手のおよめさまだ。

が、そういった前歴や現歴にも関わらず、カイト本人はいたって純真無垢で、春の陽だまりのように穏やかでやさしく、素直な性質だった。

それはそれで詐欺ではないのかと、経歴のすべてを知るがくぽなどはたまに、ぼやくが――

とにかく、そういうカイトだ。

憤りのあまりに『お仕置きする』と言い出したところで、思いつくことなど、たかが知れている。少なくとも、生まれる前から因業に浸され冒されてきたがくぽが『仕置き』と言ったときと、その重さが雲泥だ。

とさかが立った状態であっても、カイト自身にもそれくらいのことはわかる。

わかるし、いざ『なにをするのか』と訊かれたときに、頭の中がきれいに真っ白になった。売り言葉に買い言葉というもので、具体的な案などない。

見透かされているにも程があるが、溺愛していながら、がくぽはおよめさまの弱点を突くことに容赦も躊躇いもない。

「カイト。言え。仕置きに、なにをするそら、早うしろ。俺が痺れを切らす前に!」

「っ、っっ………っ」

そうでなくとも反省のはの字もなかったが、今やがくぽは嗜虐に満ちて、愉しそうにカイトを嬲る。

カイトはくちびるを噛んでぷるぷると震え、懸命に思考を空転させた。

怒っていようとも愛して止まない夫で、なのにどうして怒るのかといえば、相手を案じるあまりだ。怒りに任せたところで、痛めつけることも嬲ることもしたなくないし、出来ようはずもない。以前に、方策が浮かびもしない。

だというのに――

「そら、カイト。どうした!」

「………っっ!」

わかっていて、そしてなにもわかっていない夫が調子に乗って嬲ってくるのに、カイトの思考は白く弾けた。

追い込まれたうさぎと化していた顔にヤケクソの色を浮かべると、撓んでいた背を伸ばし、ぐっと胸を張る。堂々として夫を見返すと、口を開いた。

「反省なさるまで、俺には指一本、触らせません!!」

「?!」

――自棄を極めたもいい、結論だった。追い込まれ過ぎて、思考が空転した挙句の。

ある意味、意想外にも程があるカイトの示した『お仕置き』に、さすがのがくぽもすぐには理解が追いつかなかった。刹那、瞳を見張って呆然としたが、そこはそれ。

ひとを嬲る方法に精通した夫は、理解が及ぶにつれ、ひどく性悪な笑みを浮かべた。

こうなってすら反省する素振りもなく、むしろわくわくうきうきと弾む様子になって、カイトを眺める。

「面白い。『そなたが』俺に触れられぬで、どれくらい堪えられるものか………」

「ふぇ」

意地悪く言う途中で、カイトが情けない声を上げた。呆然と見張られていた大きな瞳がみるみる潤み、すぐにも大粒の涙となって、ぼろぼろとこぼれる。

「ふぇ………っ、が、がくぽさまに、さわってもらえな……っ、が、がくぽさまの、おそばに、いけなぃい……………っっ?!えっ、うぇええん…………っ!!」

――思考が白く弾けた挙句に吐き出した、『お仕置き』だ。カイト自身もしばらくは、自分がなにを言ったのか理解が及ばなかった。

ただ、呆然として言葉を辿り直し――がくぽと同じく理解が及ぶにつれ、指摘されるまでもなく、その意味するところに思い至った。

がくぽに触れさせないということは、とりもなおさず、カイトもがくぽに触れられないということだ。

力強く、やや強引に抱き寄せられ、引き寄せられ、押し包まれ、きつくきつく束縛される。

しつこく念入りに辿ってもまだ足らないと弄られ、腰も立たなくなるほどに甘く甘く蕩かされ、痺れて覚束なくなってもまだ、終わることのない愛撫に浸けこまれ、溺れ、溺れられる。

くるみこむ熱も、分け合うぬくもりも、融け合う温度もなにもかも――

「が、がくぽさま………っ、がくぽさまに、さわれな………っ、さわって、もらえなぁ………っがくぽさまっ、がくぽさま、ぁああ………っ!」

案じたあまりに憤り、その憤りも過ぎた挙句、カイトの感情はどこかしら、壊れてしまったらしい。

すぐ傍らにいる夫を求め、探して、まるきり子供のように泣きじゃくる。顔を覆う指の隙間からすらこぼれるほどに涙を流し、上がる声はあまりに悲痛で、悲嘆と悲哀に満ちて聞くものの胸を絞る。

言葉を失って見入っていたがくぽだが、徐々に徐々にその顔が引きつった。きれいな顔が無残なほどに引きつったところで、震えるくちびるを懸命に開く。

「そ、なた、な。自分で言って、おいてっ、っっ」

「ふぁあああああーっんっっ!!」

喘ぎあえぎ言うのを、カイトの泣き声が掻き消す。

びくりと竦み上がったがくぽは、完全に色を失っていた。すぐ傍にいるというのに、まるで存在していないかのように夫を探し求めて泣きじゃくるおよめさまを、怯えきって見つめる。

ここにいると、離しはしない、逃しはしないと、伸ばす腕は震え、強張ってカイトに届かない。

慰めてくれと、愛してくれと、愛したいと、ひとり哀れに泣きじゃくるおよめさまに――

「………っっ」

盛大に眉をひそめたがくぽは、意識して大きく息を吐き出した。閊える思いもなにもかもすべて追い出さんとばかりに、勢いよく。

勢いままにがりがりと頭を掻くと、がくぽは号泣するカイトへ腕を伸ばした。

泣き強張り、火照る体を無理やりに抱き寄せる。

「さわっちゃ…………ふぇええんっ」

「ええいっ、四の五の言うな!」

――そこまでしながら、カイトは無為に『お仕置き』を続行しようと、もがく。

がくぽは力加減も出来ず、骨も折れよとばかりにきつくきつくカイトを抱きしめた。着物越しであっても、熱が伝わる。まるで重篤な病にでも罹ったかのように、カイトの体は熱い。

がくぽを想い、がくぽを慕い、がくぽのために泣いた結果、上がって蝕む熱だ。

迸る激情をなんとか堪えようと、がくぽは奥歯を軋らせた。

「これからは、控える控えてやる大人にしていてやるゆえ、仕置きはなしにしろ!!」

「ぅ、ふえ、ぐすっ………がくぽ、さまぁ………っ……ふぇあっ、がくぽさまぁあ……っ!」

ようやくこぼれた反省の弁に、カイトの抵抗がぴたりと止んだ。代わって今度は、安堵のあまりに泣きじゃくり出す。がくぽに縋る指は力が入り過ぎて、血の気を失って白い。

ひどく泣くあまりに熱の立ち昇るつむじに、がくぽは苦り切った顔を埋めた。

「泣いているそなたを慰めることも出来ぬでは、気が狂うわ」