だらりと寝そべったまま、床に放り出された煙草盆に手を伸ばす。煙管を取ると煙草を詰め、火を入れた。
一息吸い込んで、吐き出す煙。
――けむり。
行方を追って紡がれた無邪気な声を耳に蘇らせて、がくぽは瞳を細めた。
大江戸夢噺-05-
昼中の明かりの中、空へと昇る煙に、意味もなく吐き出された、他愛ない言葉。
今は暗い。
それもそうで、あれから刻が経って、すっかり夜も更けた。
しかもここはあの長屋ではない。長屋などとは比べものにもならない豪奢なつくりの家だ。
家の中外も手入れや心遣いが行き届いて、持ち主に唸るような金と教養があるのだと端々から窺わせられる佇まいだ。
町人のみならず、貧乏暮らしを余儀なくされる俸給の低い武士なども涎を垂らしそうな場所だったが、がくぽの感興を誘うには至らなかった。
ここは長屋から遠い。
思い立ったままに、『彼』の家の前を通ることも、気配を探ることも出来ない。
偶然に通りがかる姿を見られるでもなし――実に、無為にして無駄な時間を過ごしていると思う。
「お待たせして申し訳ございません、がくぽ様」
からりと開いた障子に、がくぽは目もやらなかった。寝そべったまま、ふ、と煙を吐きだす。
「待ちやらせぬ。男なぞ待って、なにが愉しい」
「はは」
返された傍若無人な態度と言葉に、訪問者、この豪邸の本来の持ち主である、耶麻波屋主人は明るく笑った。
武家と商人という身分の差はあれ、それにしてもがくぽの態度は頂けない。
しかし耶麻波屋主人は、それでも構わないと思っていた。
がくぽにはそれを赦すだけの気品と迫力があり、そして付き合ってみれば、才覚の秀で方が人を遥かに超えていた。
「首尾はどうだ」
主人が障子を閉めたところで、がくぽは挨拶もなく、前置きもなく訊く。
部屋の隅に正座した耶麻波屋主人は、軽く頭を下げた。
「上々に御座います。米も豆も順調に買い進めておりますが、私どもの意図を察するものは、まだおりませぬ」
「今段階でそのようなものがいたなら、おまえが如何にか無能かということだ」
「無能を曝け出さずに済み、まことよう御座いました」
慇懃に頭を下げる耶麻波屋主人に答えず、がくぽは煙管を咥えた。瞳を細め、ふ、と煙を吐き出す。
――けむり。
耳に蘇る、無邪気な声。
しどけない姿で畳に転がって、空の彼方を見つめた、空の瞳。
かわいい娘だと思っていたら、男だった。男だったとわかって、それでもかわいいと思う心が、少しも翳らない。
秘密を知って、付けこめると思った。それを恥じる思いはない。
どうしてこれほどにかわいいと思うのか、どうしてこれほどに心掻き立てられるのか、時に首を傾げはするが――その姿を一目見ると、なにもかも、どうでもよくなる。
どうでもよくなって、ただひたすらに耽溺してしまう。
苛んでも愛らしいが、心地よさに虚ろになるほど、蕩けているのも堪らない。
無理やりにつくっている娘声のときも、ふたりきりのときに聞かせる自身そのままの声のときも、どちらも耳を蕩かせられそうなほどに甘く聞こえる。
――がくぽさま。
ずっとずっと、さえずっていればいいと思う。自分の名前だけを、ひたすらに。
「それで、がくぽ様……………情報のほうに、修正は」
「ない」
あの甘い声に呼ばれたいと思っても、ここは長屋からあまりに遠い。
想像の世界に遊ぼうとしても、現実に追いついてくる声は山千の商売人のものだ。
短く吐き出し、がくぽはかりりと首を掻いた。
「それではやはり、米も豆も、値上がりするのですね」
「仕入れ元が日照りで、作付けに失敗しておるのだ。まず間違いのう、今年は各所で税の納めが少のうなる。如何にか武家が威光を振るおうとも、ないものは出せやせぬ」
続く問いにすらすらと答えて、がくぽはだらりと伸ばしていた体をわずかに起こした。盆へと灰を落とし、新しい煙草を詰める。
「全国的な米と豆の不足。予想している者は少ない。ゆえに、備蓄もない。明らかになるのは、秋になって、いざ税を取ろうとしたときだ」
「そのときになって、買占めようとしても遅い――」
耶麻波屋主人が後を継ぎ、がくぽへと頭を下げる。
「まさにご慧眼。さすがは大家老印胤家の御嫡子」
「は」
がくぽは鼻で笑い飛ばす。
持ち上げられても図に乗らない若者を、耶麻波屋主人は鋭い瞳で見つめた。
「して、お家の方には何時戻られます。在野に長く遊ばれては、差し障りも御座いましょう」
なにを考えてか耶麻波屋主人には思いも及ばないが、がくぽは大家老家の嫡子でありながら、身分を伏せて下町に居を構えている。
そこで集めてきた情報が、今こうして、先々への備えへと繋がっている、とがくぽはしたり顔で言うが――印胤家は将軍家への影響力も大きい、大家だ。
嫡子ともあろうものが、いつまでも下町に遊ぶわけにもいかないはずだ。
「父が亡くなればな。戻らざるを得まい」
さらりと答え、がくぽはくちびるを歪めた。
「頑強な父だ。そうそう亡くなることもあるまい。そうそう、な」
「…」
退屈そうだった顔が、ひどく愉しげに歪んでいる。
その言葉に含まれる意味は問わず、耶麻波屋主人は軽く平伏した。
情報は力だが、知らないことが己を守ることもある。商売人をしていれば、そういう場面にたびたび出くわす。
そこで、己の好奇心に負けるか、堪えられるか――それが、家の存続を決める分かれ道だ。
愉しげに煙を吸って、がくぽは煙管を振った。
「もう良かろう。首尾に不手際がないなら、これ以上用もない。それとも、まだ遊びたいか?」
一聴、上機嫌そうに吐き出された声に、耶麻波屋主人は背筋に冷や汗が流れるのを感じた。
武家の子息の言い出す『遊び』は大抵、身に危険を伴う。
だが、その遊びがほんとうに他愛ない『遊び』であると思うのは、この若者に会ってからだ。
「ごゆるりとお過ごし下さいませ」
「は」
頭を下げて引き下がる意思を示した主人を、がくぽは鼻で笑う。煙管を咥え――
「……」
その切れ長の瞳が、ふ、と鋭さを増し、部屋と部屋を仕切る襖を見つめた。
だらけていた恰好からは想像出来ないほどに恐ろしく素早く起き上がると、適当に放り出してあった刀を掴んだ。
指先で軽く鍔を切ると、躊躇いもなく襖を蹴り倒し、刀を振るう。
「っぁ!」
「っ」
襖の向こうに潜んでいた影が、電光石火のその動きを間一髪で避けた。
避けられたことに一瞬瞠目したがくぽだが、動きが止まることはない。
あっさりと刀を放り出すと、飛び退った相手にまるで滑るような動きで肉薄し、着物を掴んで足を払う。
「んっ」
「…?!」
普通なら倒れるはずの足払いもうまく捌き、相手はさらに逃げようとする。着物を掴んだままのがくぽの手に手が重なって、けれどなぜかそこで躊躇った。
その躊躇いを見逃すがくぽでもなく、再び足払いを掛け、さらに力任せに着物を引きずって細い体を倒す。
「っっ」
倒れた相手の襟を極めて、がくぽは小柄な体に伸し掛かった。
「捕まえたぞ」
笑い声でささやく。
「く、曲者?!」
そのときになってようやく、耶麻波屋主人が裏返った声で叫んだ。目にも止まらぬ展開に度肝を抜かれて、事態が呑みこめていなかったのだ。
「曲者、曲者だ!出遭え!!」
「遅いわ」
呆れたような視線を投げてつぶやき、がくぽは体の下に組み敷いた相手へと顔を戻した。
捕まえてからは暴れることもなく、大人しい。
なんの気なしに手を伸ばして、顔を隠す頬被りを取った。
「っ?!」
瞳を見張った。
さらりとこぼれた髪は、薄暗がりでもわかる特徴的な色。
潤む瞳が見上げて来て、くすんと洟を啜った。
「………がくぽさま………っ」
甘い声が耳をくすぐって、がくぽはくちびるを噛んだ。