にんまりと笑って、訊く。
相手は、さっきまでリリィが潜んでいた障子のところで、やはり顔だけ出して、中の様子を窺っていた。
夢色花噺-02-
「ねーたま、はいってい?」
同じ潜んでいると言っても、リリィより余程愛らしく、無邪気に訊いたのはがくぽの弟、印胤家次子のがちゃぽだ。
無邪気なのも愛らしいのも道理で、まだ年端もいかない幼子だ。
呼んだのはリリィだが、がちゃぽが呼びかけたのはグミのほうだった。幼子ながら、力関係がわかっている。
しかし、がちゃぽに応えたのはグミではなかった。
「がちゃぽさま、いらっしゃいませ!」
「およめたまvv」
がくぽの腕から抜け出して手を広げた、およめたま、ことカイトだ。
がちゃぽはぱっと顔を輝かせると、そんなカイトに走り寄った。至極うれしげに腕に飛びこみ、ぎゅうっと抱きつく。
カイトのほうもうれしそうに笑って、小さな体をぎゅうっと抱きしめ返してやった。
「ちっ」
「あん、おにぃちゃんww」
面白くなさを隠しもせずに全開で舌打ちしたがくぽに、リリィが悦に入った顔で笑う。
がくぽの様子に構わず、カイトは腕の中のがちゃぽをにこにこと微笑んで見下ろした。
「がちゃぽさま、今日もきちんとお勉強なさいましたか?」
「あい。きょうは字をかいて、字を……………かいて、字をかきまった!」
「わあ、えらいですねえ!」
「えへへっ」
笑い合う顔は無邪気同士だ。
リリィは悦に入った笑みはそのままに素直に鳥肌を立てたが、グミは微妙な表情で、およめさまと弟を眺めていた。
悪家老として闇に名を轟かせる印胤家では、決して見られないはずの無邪気な会話だ。
陰謀と策謀と、一瞬の油断もならないそれらが、印胤家の会話。
裏になんの含みもないこんな無邪気な会話は、尻がむず痒い以上に、あまりの善良さに耳が潰れそうな気がする。
「よくお勉強なさってくださいね、がちゃぽさま。そうしたらきっと、がくぽさまみたいな、素敵な殿方になられますよ」
カイトが微笑んで言ったそれは、女性陣にはノロケ以外のなにものにも聞こえなかった。
しかし、幼いがちゃぽの受け取り方は違った。
カイトの腕の中で大きく伸び上がり、きまじめな顔を近づける。
「がちゃがにぃたまみたいになったら、およめたま、がちゃのおよめたまになってく」
最後まで言う前に、がちゃぽはカイトの手によって宙に抱え上げられ、兄の傍から遠ざけられた。
突然のことに、がちゃぽはぽかんとして言葉を失い、可憐なおよめさまを見下ろす。
なにが起こったのか咄嗟にはわからないのは女性陣もで、きょとんとしてカイトを見つめた。
高速で手刀を振り下ろしたがくぽは、空振りに終わった手を束の間、見つめる。
それから、うっそりと顔を上げて、弟を抱え上げたまま、瞳を揺らしているカイトへと視線を投げた。
「最前も思ったが………そなた実は、武に優れておるよな?」
「…………だから、里から出して貰えました」
そっとがちゃぽの体を下ろしながらも油断することなく、カイトはひっそりと答える。
カイトの前職は、ねずみ小僧だ。
初代ねずみ小僧から、現在は分化して複数存在するねずみ小僧一族は、隠れ里で修行し、優秀な成績を修めないと、江戸に出向することが認められない。
その他にもいろいろ、忘れてはいけないが忘れがちな掟がごまんとあるのだが、兎にも角にも江戸に出てきたということは、カイトの成績は優秀だったということだ。
そうは言っても、所詮、コソ泥のはずだ。
武家だからという区分けを超えて、がくぽは武に優れている。身体能力が並外れていることは確かだが、それを支える頭脳の冴えも、人並みを外れているのだ。
なのにそのがくぽと、カイトはほぼ互角に渡り合う。
まともにやり合ったのは一度だが、がくぽはあそこまで自分の攻撃を流されたことなどない。
がくぽの技は力はもちろんだが、くり出す速さと選択する動きが、人の予想を超える。
それを、一度ならず二度までも。
「あれから考えたのだが…………そなたもしかして、やろうと思えば、俺を撥ねつけることも可能だったのではないか?」
「…っ」
がくぽとカイトの初めは、脅迫だ。
男でありながら、故あって娘として身を偽っていたカイトの秘密を偶然に知ったがくぽが、その弱みにつけこんで体を開いた。
弱みを握ったのだから抵抗出来ないのはあるとしても――カイトはあまりに弱々しく、がくぽのやること為すこと、従容として受け入れた。
娘の形をしている男とはいえ、やはり娘のように力無いから好き勝手されるのか、と思っていたが、あれ以来、考えが変わった。
カイトがその気になれば、おそらく、がくぽを跳ね飛ばして逃げることが出来た。
それで弱みを暴かれても、人には赦せる一線と赦せない一線とがある。
眉をひそめるがくぽに、カイトはうなじまで真っ赤に染まった。瞳が潤んで、揺れる。
「がくぽさまにされることで、いやだったことなんてないんです…………っ」
「ひゃぉ☆」
奇声を上げたのはリリィで、緊迫する夫婦仲を固唾を呑んで眺めていたグミも、小さく肩を落とした。
かわいい返事に、渋面だったがくぽは打って変わって、機嫌のいい顔になった。さっきは手刀として振り下ろした手を、カイトへと突きだす。
正確には、カイトの背後に庇われている弟へと。
「では、俺が言うことに否やはないな。それを渡せ。弟の分際で兄の嫁を欲しがるとは、いい性根だ。山寺にぶち込んで、一から鍛え直させてやるわ」
一見清々しい笑顔なのだが、言うことに容赦がない。
そして普段は、強引な夫に流され気味なおよめさまが、今日は引き下がらなかった。
竦んで袖を掴んだがちゃぽを庇い、カイトはきっとしてがくぽを見つめる。
「子供の言うことです。そんな、目くじら立てないでください。だいたい小さいころって、下の男の子はなんでも、兄のものを欲しがるものでしょう。それって、兄のことが好きで、尊敬しているって証拠です。だから、がちゃぽさまががくぽさまのものを欲しがったりなさると、俺はうれしいのに」
「ほう?」
カイトの言葉に、がくぽは瞳を眇める。カイトの背後から気弱に覗く弟を見やり、はらはらと事態を見守る妹たちへと視線を流した。
ちなみに、はらはらしているのはグミであって、リリィのほうはなぜか、悦状態だ。
そのがくぽへ、カイトはわずかに身を乗り出すと、上目遣いに情を乞うた。
「大きくなって世界が広がれば、がちゃぽさまも俺なんかじゃなくて、ご自分のお相手を見つけられます。今はがくぽさまの影響で俺が眩しく見えているでしょうけど、そのうち落ち着きますから」
「わぉ」
またしても、奇声を発したのはリリィだ。
一度は和らげた表情が夜叉面のようになっていく兄と、額を押さえて頭を振る姉とを見比べ、最後に、心底まじめに嘆願の表情のカイトを見て、頷いた。
「ねねさまは自覚が足らないわ」
「え?」
がくぽへ乗り出していた身はそのままにきょとんとしたカイトに、リリィはべろりとくちびるを舐めた。
「でもそういう無自覚なところも、汚し甲斐があっていやらしいわ。うふふ、うふふふふww」
「り、リリィちゃ………」
怪しい笑いを閃かせる義妹に、カイトは引きつって、たった今まで対峙していたがくぽへと身を寄せた。
反射で寄ってくるようになった体を眺めて、がくぽはかりりと首を掻く。
「おにぃちゃんも、そうでしょ?」
にんまりと笑って訊いたリリィに、がくぽはいやそうに眉をひそめた。寄って来たカイトを再び抱えこみ、髪に顔を埋める。
「これ、リリィ!」
「いたっ!」
言葉で言っても通じない妹の頭を叩き飛ばしたのは、グミだ。
「ぬしはおよめさまへの態度もなっておらぬが、あにさまへの態度もなっておらん。ちと説教するゆえ、来やれ」
「あん、グミちゃんのいけずぅ」
「なにがいけずじゃ。用法を間違えておる」
つけつけと言いながら立ち上がり、グミは小さな弟をおよめさまから引き離した。
腕に抱き上げると、カイトの髪に顔を埋めて、表情が半ば見えなくなっている兄へ、軽く頭を下げる。
「がちゃぽには妾から、よく言って聞かせる」
言ってから、少し躊躇って首を傾げた。
微動だにしない兄を眺め、困ったように笑う。
「情けの深いおよめさまじゃ。まことあにさまは、良きおよめさまを見つけられた」
「はっ」
妹の言葉に笑い、がくぽは顔を上げるとカイトの首を撫でた。
「んっ」
身震いして、カイトはがくぽへ視線を投げる。
潤む瞳は、いつまで経っても見飽きない。
「がくぽさま」
呼ばれる名前の心地よさは、誰とも比べられない。
愛すれば愛するほど、声の甘さはいや増しに増して、全身を蕩かされる。
「そなたに言われるまでもない。まこと得難き嫁だ」
笑って言って、がくぽはカイトのくちびるを荒々しく塞いだ。抵抗を知らないカイトは素直に手を伸ばして、がくぽの着物に縋りつく。
「そうじゃ、まこと得難きおよめさまよ」
きょうだいの相手を止めて、嫁に耽溺するつもりになった兄に、グミは小さくつぶやく。
「ほんにわかっておるか、あにさま………?」
「ねーたま?」
腕に抱いたがちゃぽに呼ばれ、考えに沈みかけたグミは我に返った。
お邪魔も甚だしい。
わくわくと身を乗り出して濡れ場を鑑賞しようとする妹の襟首を引っ掴むと、グミは部屋から出た。
空に目をやれば、まだ日は中天だった。
日の光がやたら眩しく見えて、グミは瞳を細めた。