漆塗りの小箱を渡されたのは、がくぽと正式に結婚する前のこと。
町人であるカイトを武家にするための、身分の引き取り先である始音家で、嫁入り準備をしていたころだ。
徒夢繚乱恋噺-05-
本漆に蒔絵まで施された小箱は、将軍家のお姫さまが持っていてもおかしくないような品で、下手をすると、ちょっとした屋敷がひとつ、買えるくらいの代物だ。
間違いなく、これまでに貰ったものの中で、最も高価な贈り物だった。
「箱が欲しいとこぼしていたろう?」
目を丸くするカイトに、がくぽはあっさりと言った。
「確か、これくらいの大きさで良かったと記憶しているが」
「そうですけど」
確かにカイトは、箱が欲しいとつぶやいたことがある。
やはり訪ねて来ていたがくぽに、どうした、と訊かれて、こういうものを入れる、ちょっとした箱が欲しいのだ、と説明した。
だからがくぽは、カイトがそこになにを入れるか、わかっていて――選んでくるのがこれだから、印胤家の価値観はわからない。
カイトをちょっとした、結婚恐怖に陥れた一件だ。
まあ、その結婚恐怖も、発端となったがくぽがなんとか丸めこんで、カイトはこうして印胤家で「およめさま」と呼ばれているのだが。
「おにぃちゃん、なににやにやしちゃってんのー」
「…っと、ミク」
およめさまであるカイトのためにしつらえられた座敷に座りこみ、膝の上に小箱を開いていたカイトは、掛けられた声に顔を上げた。
しゃべっていると騒々しいことこのうえないのに、ひとに近づくときには完璧に気配を殺せる妹が、すぐ傍に立っている。
「なになに?いいもの?いいもの?」
「………ぇへ」
へちゃんと座りこんで小箱を覗きこんだミクに、カイトは小さく笑う。
小箱の中に入っているのは、小石や端切れ、木の枝といった、一見すると塵のようなものばかりだ。少なくとも、こんな仰々しい箱に入れるようなものではない。
けれど、カイトにとってはなによりも大切な、宝物たちなのだ。
「これなに?」
取り出すことはなく、中の小石を爪先で示したミクに、カイトは微笑む。
「がくぽさまが、子供たちに石投げを教えて上げて、お礼に貰った、石投げ用の石」
平たくてすべすべした手触りの石は、がくぽが教えてやった子供たちが、懸命に河原を探して歩いて見つけた、石投げに最適な形の石だ。
教えてくれたお武家さまにやる、と言われて貰ったものを、がくぽはそのまま、カイトに渡して寄越した。
そなたのほうが、こういう遊びは好きだろう、と。
「これは?」
ミクの爪先が移動し、小さなお手玉を指差す。
「がくぽさまが買ってきてくださった布でつくった、お手玉」
呉服問屋などがたまに、店で出た端切れなどをいくつか束ねて、安く売りに出す。間違いなくいい生地だが、端切れを寄せ集めたものなので、町民にも手が出る価格だ。
通りがかりに丁度やっていたゆえ、と言って、がくぽが買って来てくれた端切れで、カイトは破れた布団を繕ったり、着物の裏に当てたりした。
その残りの端切れでつくったお手玉だ。
目に止めたがくぽが、「そなた、縫い物が上手いな」と言いだして、それからなにかと繕いものを頼んでくれるようになった、きっかけでもある。
「じゃあ、これ」
「これはね………」
ミクが次から次へと指差す、一見すると塵のようなそれらすべてが、がくぽから貰ったものだ。
貰ったときの話から、それがどう転がったかまで、詳細に覚えている。
もちろん、入れたくても入れられなかったものもある。
がくぽはよく、野花を摘んで持って来てくれたが、さすがにそれは枯れたり腐ったりしてしまう。
けれど、そのひとつひとつもきちんと、覚えている。
「およめさま、お台所なのじゃが…………ああ、また、およめさま」
「グミさま」
なにか用事があって来たらしいグミが、カイトの膝の上を見て、眉をひそめる。
グミのこの反応は、いつものことだ。
カイトにとってはなにより大切な宝物だが、他人には意味のない、塵同然のものに見えることも、きちんと理解している。
「ほんにあにさまにも困ったものよな。印胤家の主ともあろうものが、およめさまに珊瑚でも真珠でもなく、道端の小石なぞを贈るのだから」
「………ぇへへ」
かりりと頭を掻いて腐すグミに、カイトは笑うだけだ。
珊瑚も真珠も、もちろん貰っている。印胤家のおよめさまともなれば、それなりに身を飾って人と会わなければならないこともあるから、それ用にと。
そういうものは、きちんとそれ用の箱に納めてある。
けれど、それらはこうして、膝に広げて眺める対象にはならない。
がくぽが、ただ――
「まったく、我が兄ながら、およめさまに対しては甲斐性が疑われること、甚だしいの」
「そうかなぁ」
腐すグミに、反論したのはミクだ。
きりりと睨んでくるグミをへらりと笑って見返し、ミクは曖昧に微笑むだけの兄へと視線を流す。
「ボクはかえって、がっくんに対する評価を上方修正したけどね」
「なんじゃと?」
訊き返したグミを見ず、ミクは兄へと笑いかける。
きれいに飾りつけられて、きちんと印胤家のおよめさまをやっている兄だ。
そもそもが、女の扮装をしたくてしていたわけではないカイトだ。こうして身を偽り続ける生は、ある意味不幸でしかない。
それでも、そうまでして傍にいたいと想うその相手が――
「がっくんは、おにぃちゃんのこと、よくわかってるよ。おにぃちゃんが宝石やら反物やら貰って、悦ぶ性格じゃないっていうの。
こういう、がっくんがほんとに心を動かされたものに、いっしょに心を動かせたことが、いちばんうれしいんだっていうのが」
「………」
ミクの言葉に、カイトの笑みが曖昧さを消し、花のように開く。グミは渋面のまま、かりりと首を掻いた。
ミクは爪先を移動して、入っている宝物からすると、あまりに高価過ぎる小箱をつつく。
「そうなればがっくんが、こんなたっかい箱を贈った意味もわかるよ。
他人にとっては全然理解出来ないゴミみたいなものでも、おにぃちゃんにとってはなによりも大事な宝物なんだって、ちゃんと理解してたんだ。おにぃちゃんがなにより大事にしている宝物を入れる箱なんだから、適当なものじゃだめだって。自分が贈れる、最高のものを贈ってやろうって。
それでこの格にいけちゃうのは、まあ、やっぱりさすが印胤家って感じだけど」
ミクが言うことには、カイトも途中で気がついた。
気がついたからこそ、こんな高い箱は使えないと突っ返すことなく、それでも多少は恐る恐ると、宝箱にしたのだ。
自分が大事にするものを、がくぽも最大限に尊重してくれる。それも、顔をしかめながら無理やりにではなく、どこまでも本気で、まじめに。
笑い合うきょうだいを見下ろし、グミはかりかりと首を掻いた。
グミは印胤家の娘だ。親子きょうだいで喰らい合い、騙し合い潰し合うのが常態と化した因業一家の生まれで、育ちだ。
その彼女にすると、およめさまはあまりに愛らしく、そして数日前に来たばかりのおよめさまの妹という少女も、また。
「ぬしな、はづかしいぞ。蕁麻疹ものにはづかしいぞ!!」
「ふっひひっ」
吐き捨てたグミに、ミクは少女としては微妙な笑い声を上げた。
ミクが言うことなら、グミだとてわかっているのだ。聡い少女だし、兄のことを心から尊敬もしている。
しかし、きょうだいにおいても潰しあう因業一家に生まれついたものの、兄を支えて立つと決めた彼女にとって、兄のそういった素朴な面は、否定しなければならない弱点だ。
兄がおよめさまに耽溺していることはもはや隠しようもないから、おおっぴらにしても構わないとしても――それはあくまでも、印胤家らしい、悪辣な耽溺であると思わせるようにしなければならない。
耽溺されるおよめさまは世界でいちばん不幸なおよめさまであると、世間には思っていてもらわなければならないのだ。
そうでないなら、耽溺されるにふさわしい、まさに印胤家に貰われるために生まれてきたような、悪逆なおよめさまであると。
そうでなければ、兄の身も、カイトの身も守れない。
気まずい顔で首を掻くグミに、ミクは瞳を細めた。宝物箱の中をうれしそうに見つめる兄を見やり、それからにんまりと笑って、再びグミを見る。
「悪人どもから盗んだお財宝を、恥ずかしげもなく貧民に半ば押しつけで配り歩くことを生業にまでした、微迷惑無法慈善行為を日常としている、くりねずみ一家を甘く見ないで欲しいな。本気できれいごとをほざきながら人を欺くことも、菩薩の笑顔でやってのけるよ」
「……ミク………」
カイトが肩を落とす。わかってはいても、そうまで素直に言葉にされるとこう、胸にぐさぐさと刺さるものが。
因業で鳴らした印胤家の娘ですら一瞬、足を引きそうになるような昏い笑みを浮かべ、ミクはグミへと片目を瞑ってみせた。
「こう見えても、おにぃちゃんだって一家の教えを叩きこまれてる。一人前と認められればこその、江戸出向だよ。あんまり甘く見ないほうがいいね」
「………」
「えーっと…………」
睨みあう妹たちに、カイトは困って頬を掻いた。
どちらもカイトのためを思っていることがわかるから、迂闊に加勢も出来ない。
困って宙を睨んでいたカイトだが、唐突にぱっと表情を輝かせた。
急ぎながらも丁寧に箱の蓋を閉め、さらに風呂敷で包む。ちなみにこの風呂敷も、がくぽがくれた布で、カイトが仕立てたものだ。
「ん?」
「おお、もうそのような刻限じゃな。妾としたことが、つい遊んでしまった」
首を傾げたミクに対し、グミのほうははたと我に返った顔で、廊下を振り返った。
カイトのこの反応で示されることは、印胤家においてはひとつしかない。
ほどなく、荒っぽい足音が響き、中途半端に開かれていた障子が大きく開かれた。
「只今帰ったぞ、カイト!」
「お帰りなさいませ、がくぽさま」
わずかに髪を乱したがくぽが、歩の勢いを緩めないままにカイトの元へとやって来る。妹たちを器用に避けて傍らに座ると、手を伸ばした。
「がくぽさまぁ……ん…っ」
「予想の範囲内だけど、あっちぃなー、このめおと!」
ミクがぼやく。
抵抗を知らない体を抱き寄せて口づけたがくぽに、カイトも従順に応える。手が伸びて、縋るように着物を掴んだ。
「ん………ふぁ」
「いい子にしておったか、カイト」
唾液の糸を引いて離れたがくぽに、カイトはうっすらと頬を染めて頷く。
「はい、ちゃんといいこにしてました………」
「よしよし。褒美を呉れてやろう」
「んふ………っ」
一度は離れたものの、再びくちびるに吸い付かれる。
口づけたままカイトの体を抱き寄せて膝に乗せ、がくぽはさらに深くくちびるを合わせた。カイトの手ががくぽの首に回り、しっかりとしがみつく。
「…………グミちゃん、これ、終わりってある?」
「ちゃん付けで呼ぶな、馴れ馴れしい」
「でさ、グミちゃん、どうなの」
「…」
グミはわずかに眉をひそめ、それからこきりと首を鳴らした。
「終わらせれば終わる」
「終わりはないんだね………」
「終わらせれば終わると言うておろう!」
「…」
きりりと言うグミに、ミクは軽く天を仰いだ。
最後までやることは抵抗しても、人前で吸い付くことにはすでに抵抗がないらしい兄だ。
「というわけで」
「え、グミちゃん?」
きりりとしたまま、吸い付いて離れない当主夫婦に向き直ったグミに、ミクはまさかと目を見張る。
大きな瞳をこぼれそうにしているミクの前で、グミはだん!と足を踏み鳴らした。
「あにさま、およめさま!!昼餉じゃ!!今日の昼餉は、花見の約束じゃったろう!!」