印胤家の庭は、四季折々それぞれに見事な様相を見せるが、中でも藤棚は殊の外きれいなものだった。
「ふわわ。ひらひら、きれい…っ」
ひらひら揺れる藤の花を眺めて瞳を細めるカイトを抱えたがくぽは、そんな様子にうれしそうに笑う。
徒夢繚乱恋噺-06-
藤棚の傍に野点の用意を整え、そこに軽食を詰めたお重を並べた。
さらにはグミが茶を立てて、供する。
「………つかさ、ツッコミいいか、グミちゃん」
「受け付けぬ」
「あのめおとの移動って、抱っこがでふぉなのか?!」
「受け付けぬと言うておろうが!!」
座敷から、庭にしつらえたこの場所まで、カイトはがくぽに抱かれて運ばれた。長い口づけの余韻で足がふらついていたことは確かだが、歩けないほどではない。はずだ。
だが、がくぽはごく自然にカイトを抱き上げ、カイトもまるで抵抗しなかった。
それだけでも、抱かれての移動が常態と化していることがわかる。
目を丸くしているミクに、グミは茶碗を回す。
「およめさまは夜の名残で、歩けぬ日も多いゆえな」
「ああそりゃ、がっくんのじごうじt………」
自業自得、と言おうとして、ミクは首を傾げた。
見ているだに、がくぽはカイトを抱いて運ぶことを苦にしている様子はない。むしろ、役得感が。
「あにさま、今日の昼餉はおよめさまの手作りじゃ。心して味わえ」
兄とおよめさまにも茶を回したグミが、厳かに宣言する。
がくぽはうれしそうに笑い、腕の中のカイトの頬に口づけた。
「そうか。それは堪能せんとな」
「はい、たんと召し上がってください」
照れたように笑って、カイトもがくぽのくちびるの端に口づける。
「ごはんになるの………?」
ミクが首を傾げる中、しかし意外にも、きちんと食事が始まった。
きちんと、と言っていいものかどうか、不明なところはあるのだが。
「ふむ、美味いな。これはどうした?」
「お稲荷さんですけど、中のごはんは梅酢でしめてあります」
「梅酢か。道理で香りが良くて食いやすい。そなたも食え」
「はい、んん……っ」
がくぽの膝に乗せられたカイトの口に、箸で食べやすい大きさに裂いたお稲荷さんが運ばれる。
運んでいるのはもちろんがくぽで、カイトがこくんと飲みこむのを見ると、残りのお稲荷さんをまた運ぶ。
「ん………んく………」
「きちんと噛めよ」
「ひゃぃ………」
「ん、この煮しめも美味いな。厚揚げによく味が染みている」
「んん………」
カイトに食べさせながら、がくぽは自分の口にも淀みなく運ぶ。そのうえ褒め言葉もさらっと吐いてカイトを悦ばせるから、大忙しだ。
とはいえ。
「グミちゃん、堪えきれねえ!!おらツッコむだ!!」
「訛るな!!受け付けぬ!!!」
「このめおとは、この食い方がでふぉなのか?!!!」
「受け付けぬと言うておろうが、この駄栗鼠!!!」
食べるときまで遠慮なく耽溺しているめおとを前に、まったく平静に食事が出来るのはグミが馴れているからだ。しかし初めて目にしたミクは、顎が外れそうだ。
いちいちツッコむミクをうるさそうに見やり、グミは自分も稲荷をひとつ、頬張った。きっちり飲みこんでから、口を開く。
「およめさまはな、どうにも食が細くていらっしゃってな。そのうえ今は、隙あらばあにさまに精を絞られて、始終へとへとでいらして、疲れ切るあまりにさらに細られているらしい。とはいえ、このままではやせ細って、挙句は倒れてしまうじゃろう」
「ふうん、おにぃちゃん、あんま食べないんだ………」
「なんじゃ、意外そうじゃな?元からのことと思うておったが…」
瞳を見開くグミに、ミクは唐突に不味そうな顔になり、横を向いた。
「家族でも、男の子と女の子って、別々に育てられるんだよ。だからボク、おにぃちゃんと食事したことない」
「そうか」
驚いて目を丸くしてはいたものの、頬を綻ばせて兄の手作りごはんを食べていたミクだ。
しかし今、吐き出された声は忌々しさに満ちていた。いやな思い出を刺激されたらしい。
カイトの複雑な家庭事情は、すべてを知らずとも一端は知っている。
それなりに理由があるのだろうと考えてそれ以上訊かず、グミは煮しめのニンジンを口に放りこんだ。
ほろりと甘く、思わず頬が綻ぶ。
「………したが、気がついたのじゃが……。およめさまは、あにさまが寄越したものは、決して拒まず口にされるのじゃ。いつもなら箸を置かれて、頑として食べ進めぬところまで来ても、あにさまがああして口に運んでやると、いくらでも食う。ゆえにな、妾があにさまにお願いした。共に食事を摂られるときには、こうして給餌してやってくれと」
飲みこんでから話を続けたグミに、ミクは恐れ入ったという顔で仰け反った。
「なかなかやるな、グミちゃん!!」
「なんの話じゃ!!」
「いやいや、萌えのためとはいえ、がっくんもなかなかくr……」
苦労して、と言いかけて、ミクは口を噤んだ。
カイトの口に食べ物を突っこんでいくがくぽは、実に愉しそうでうれしそうだ。カイトのほうは次から次へと突っこまれて微妙に涙目だが、そもそもが嗜虐傾向のがくぽだ。それも愉しいらしい。
容赦なく箸を運ぶ。
「…」
「………なにをしておる」
「いや、こう、………この間の晩の記憶?みたいな」
両手で宙に線を描くミクに、グミが胡乱な目を向ける。ミクは何度かくり返し線を描き、頷いた。
「まあ、太ったって感じでもないから、いいや」
「………っくぅっ」
「え、太らせたいの?!」
「印胤家のおよめさまじゃぞ…………太っていてなんぼじゃ!!」
「どこに執念燃やすかな、この子は!!」
呆れて叫んだミクを、グミは恨みがましそうに見た。
印胤家のおよめさまが、ほえほえ愛されてしあわせであると広まるのは困るが、食べるものも食べさせて貰えずにやせ細った、と言われるのも我慢がならない。
「そんなもの、母御殿までで十分じゃ……っ」
「グミちゃん?」
呻くような言葉が聞き取れず、きょとんとしたミクから目を逸らし、グミは首を振った。
次の瞬間にはしゃっきりと背を伸ばして、いつものようにきりりとした眼差しでミクを見る。
「それより、ぬしのことじゃ。なんぞこの間も言うておったが、きょうだいを連れ戻すのは上手く行きそうなのか。どれくらい、逗留するつもりじゃ」
「追い出したい気配が満々だなー」
軽く天を仰いだミクに、一度、がくぽに箸を止めさせたカイトが身を乗り出す。
「でも、ミク。実際のとこ、ルカちゃんを説得するなんて、出来るの?里だって、そんなに長いこと空けていられないでしょう?」
「まあ………そうなんだよね。今って結局、里の仕事止めて、ボク出て来ちゃってるし」
気まずそうなミクの様子に、カイトは心配そうに眉をひそめた。
「………ミク、聞き忘れてたけど…………まさか、黙って飛び出してきたり、してないよね?ちゃんと周りのひとに言って、そのうえで出てきたんだよね?」
兄の問いに、妹は最高にかわいらしい笑顔を浮かべた。
「テヘ☆」
「お屋形さま?」
カイトのほうも、最高にきれいな笑顔で首を傾げた。だが、背後に暗雲が見える。雷光まで閃くのが見えるようだ。
がくぽは黙々と食事を続けているが、グミのほうはわずかに身を引いた。
彼女にとって、およめさまはただただ、愛らしいだけの存在だ。
がくぽのほうは、一度はねずみ小僧のカイトと対している。かわいいだけではなく、油断出来ないものを隠し持っていることは、重々承知だ。
――実際のところ、隠し持っているというより、がくぽに対しては蕩けきっているカイトが、本領をさっぱり発揮出来なくなる、というのがほんとうなのだが。
「やだな、おにぃちゃん、信用してよ。ちゃんと一言、言ってきたって」
「ひとこと?」
「うん、一言☆」
かわいい笑顔が、火花を散らす。
ややして、カイトは小さく肩を落とした。
「ほんとミクは昔っから、ルカちゃんのこととなると見境なくなるんだから…………」
「テヘ☆」
ミクはかわいらしい笑顔を続行する。
その妹に、カイトは心から慈愛深い笑みを向けた。
「でもほんと、ミク…………ルカちゃんのこと、説得できるの?」
「無理だよ」
「だよね」
「っけほほっ」
きょうだいの会話に、グミが噎せる。
がくぽもわずかに呆れた顔になって、笑顔の滋味と言葉の突き放し具合が一致しない妻を見た。
「…………身内のことゆえ、口を挟むもどうかとは思ったが………。その、ルカとやらは、なにが原因で家出などしたのだ」
「えっと……」
がくぽに話しかけられた途端、カイトは元のかわいらしいおよめさまに戻った。演じているというより、愛情が暴走しているのだ。
「………そもそもは、めーちゃんが出奔したことに話が始まるんですけど……」
「次のお屋形を誰にするかって話でね。ボクとルカちゃんで、争ったんだよ。で、当然ボクが勝利して、お屋形に決定したんだけど……」
お稲荷さんを口に放りこみ、顔の形を変えながらミクは言う。口の中に物が詰まっているわけだが、そのわりには明瞭にしゃべる。器用だ。
濁された言葉の後は、言われないでもわかった。
がくぽは軽く眉をひそめ、困ったような顔のカイトを見る。
「決定に納得がゆかず、抗議の出奔か」
「……です」
ほんとうは、それだけでもない。妹たちには、それなりに問題があった。
とはいえ、逐一言えることでもない。
どこか躊躇いがちに頷いて、カイトは再び、妹へと顔を向けた。
「ミク…」
「最後に物を言うのは、やっぱり金だろうね」
平静に食べ進めながら、ミクは世知辛いことを言って、銭の形にした指を振る。
「金を積んで強引に身請けて、強制的に連れて帰る」
「………それしかないとしても、ルカちゃんがおとなしく、連れ帰られる?」
「………それなりに、方策は考えてるよ。ルカちゃんがなにに不満なのかは、わかってるし」
平静な顔を繕ってはいるが、眉が引きつっている。
カイトは首を傾げてなにか言いかけ、口を噤んだ。
「ん?」
ふいと顔を向けると、がくぽの口の端に、そっと口づける。
甘えたいときのしぐさに、がくぽは首を傾げ、しかし黙ってカイトの顎をくすぐった。
撫でられて、カイトは瞳を細める。
愛しているひとが、こうして想いを返してくれる。穏やかな時間を過ごすことが出来る。
それがどれだけ幸福なことか、カイトは知っている。
なにより、妹たちを見ていれば。
「ミク、俺に出来ることがあれば、手伝うから……」
言ったカイトに、ミクは笑った。いつもの強気な色が消えた、弱々しい妹の顔で。
「うん。そのときは、お願い、おにぃちゃん」