「甘いぞ」
「ぅく……っ」
放り投げるようながくぽの言葉に、相対したがちゃぽはくちびるを噛む。
幼い顔を歪めると、真剣に目の前の盤を見つめた。
徒夢繚乱恋噺-08-
「そなたはなにもかもが甘い。脇も甘い、見通しも甘い、打つ手も甘い。それでこの兄に勝てると思うところが、最大に甘い」
「んく………っ」
「がくぽさま」
大して感興をそそられているふうでもなく、淡々と言葉を放り投げるがくぽに、嗜める声をかけたのは、カイトだ。
「考えている間は、お声掛けしない」
「やれやれ」
幼子ゆえ手加減してやれ、と遠回しに言われ、がくぽは軽く天を仰いだ。
その幼子のほうは、涙に潤む瞳で、懸命に盤を見つめる。展開しているのは、将棋だ。
うららかな昼下がり、カイトとがくぽ、それにがちゃぽとグミの四人は、座敷のひとつに集まって、それぞれにそれぞれの仕事をしていた。
カイトとグミは端切れの山を前に座り、縫い物。その傍らで、がくぽとがちゃぽは将棋だ。
がちゃぽのほうはきちんと正座して将棋盤に向かっているが、対戦相手の兄のほうは、自堕落に寝転んでの打ち合いだ。
一見、がくぽとがちゃぽは遊んでいるようだが、これでいて大事な勉強中だ。戦術と戦略、相手の打つ手から思考を読み取り、己の勝ちを引き寄せる手を考える。
そのための訓練としての、将棋だ。
とはいえ本来なら、がくぽとがちゃぽではまったく勝負にならない。がくぽがわずかでもその気になると、年端もいかない幼子など、一瞬で喰らい尽くせる。
それがこうして、とりあえずでも勝負が続いているのは、紛れもなくがくぽが手加減してやっている証だ。
決して勝ちは譲らない。だから、がちゃぽは負け通しだ。
だが、惨敗することもない。がくぽはすべての手に対して、厳しく当たるわけではないからだ。
ただ、この場合にこう打つと明らかに取り返しがつかない、という手を打ったときだけ、冷たい言葉とともに手をひっくり返す。
そうやって少しずつ弱点を自覚させ、次の成長へと繋げる。
言葉こそ冷たくても、がくぽはひどく忍耐強く、弟に付き合っていた。親子兄弟で喰らい合い、潰し合うのが常態の印胤家当主とも思えないほどに。
それが印胤家にあってはどれだけ異常な事態か、グミにはわかる。
「およめさま、妹御のことじゃが」
わかっているから、グミはカイトの意識を将棋盤から離した。
「んと、ミク、ですか?」
「ああ」
あっさり乗って来たカイトに内心安堵して、グミは新しい端切れを取る。さっと待ち針を当てると、縫い針に持ち変えた。
「日中にしろ夜間にしろ、姿を見かけぬことが多いが、首尾はどうなのじゃ。説得は上手いこと行きそうなのか?」
「無理でしょう?」
「…………」
なぜか意外そうに答えられ、グミは針を止めてカイトを見た。こちらは止めることなく針を使っていたカイトが、沈黙に気がついて顔を上げる。
瞳を見張るグミを見て、きょとんとした。
「………あれ?」
「いや、無理とは、およめさま…………それでは、どうするのじゃ」
口ごもりつつ訊かれ、カイトは軽く眉をひそめて宙を睨んだ。
「今段階は、時間稼ぎ、かなあ………これ以上逃げられないように見張りながら、首尾を整えて…………最終的に力技でどうにかするってしか、考えてないはずですけど……」
「力技?」
呆れたようなグミに、カイトは困ったように笑う。
「だってルカちゃん、ぜったいにミクの言うこと聞かないし……」
「まあ、それは、………敵のようなものじゃろうし」
お屋形の座を争ったと聞かされた。ふたりは勝者と敗者であり、そこには溝がある。
割り切れないからこそ一方は里を出たのだろうし、そう簡単に説得には応じないだろう。
頷いたグミに、カイトは眉をひそめた。
「確かにもう、敵って言ったほうが近いのかも、あのふたりの場合…………どうして好き合ってるのに、敵にまでなるかなあ………」
会話を繋げたというより、独り言としてぼやいたカイトに、グミは首を傾げた。
なにか、どこかで話が食い違っているような気がする。
「…………それは、戦う前は仲の良い姉妹じゃったかもしれぬが………」
そっと水を向けたグミに、カイトはあっさり首を振った。
「そんなことないです。確かにあれは、ルカちゃんの背中を押すきっかけにはなったでしょうけど…。
その前からあのふたりはほとんど、どちらかを食い殺すしかないって状態でした」
「………」
眉をひそめるグミに、カイトは笑う。笑って、長考に入った弟を急かしもせずに待つがくぽへ、目をやった。
がくぽにも、その気がある。愛していれば愛しているほど、相手を食い殺したくなる気が。
ただ、基本的にはやさしい性質だ。そういう自分を憎むことも知っている。対極の望みとして、愛するものをただ、幸福に浸けこんで蕩かしたいという欲求も持っている。
だから、普通にしていれば、甘やかでやさしい夫だ。
ルカもそういう自分を憎むが、幸福に浸けこんで蕩かしたいという欲求がない。ひたすらに己のうちに取りこみたい欲求だけが、渦巻いている。
そして、ミクはそういう自分を憎まない。むしろ愉しんで、弾む足取りで踊りながら、どん底まで降りて行ってしまう。
勝敗はすでに、そこで決しているのだ。
ルカはミクに抗しきれない。
ルカに残る正気が、ミクには残っていない。どんな手を打つことにも、ミクは一切、躊躇わないだろう。
「…………のう、およめさま………?」
「はい」
針を動かしながらぽつぽつと話したカイトに、グミは胡乱な目になった。どうにも自分が、悪業で鳴らす印胤家の娘だけあって、思考が歪む傾向にあると自覚している。
それゆえに、間違った解釈をしているような気がするのだが。
「聞いておるとまるで、およめさまの妹御たちは、その、そういう………恋だなんだの思慕で、お互いを想い合っておるようなのじゃが………」
グミの言葉に、カイトは針を止めた。どこか寂しげに微笑む。
「そうですよ?」
「……っ」
寂しげであっても、疑問もなく頷かれ、グミは絶句した。
瞳を見張るグミを見て、カイトはふと思い出す。
そういえば、ミクが来た、最初の晩――確か、彼女はなにか、聞き捨てならないことを言っていなかっただろうか。
グミが、リリィに押し倒されていたとかなんとか。
ちなみにリリィは、薬の調合のために、専用の離れに篭もっている。暇さえあれば新薬の開発に余念がない彼女は、日中にしろ夜間にしろ、あまり家族と行動を共にすることがない。
ここにリリィがいたなら訊くのも容易いのだが、グミが相手となると――
生真面目な彼女にどこまで突っ込んで訊いていいものか、カイトは微妙な表情になってグミを見つめた。
「っはは」
微妙な沈黙を、がくぽの笑い声が破る。
「その情が絡むと、事態はややこしいぞ。一筋縄ではいかぬ。確かに力技で行くしかなかろうな」
「はい」
愉しそうな夫の言葉に、カイトもどこか愉しくなって、笑いながら頷いた。
悩んだところで仕方がない。物事はすべて、成るようにしかならないのだから。
そのときが来たなら、カイトにも打つ手が見えるはずだ。それまではただ、見守ることも必要だろう。
そう思い切ったカイトを、自堕落に寝転んだままのがくぽが手招く。
「少しう、飽きた。付き合え」
「はい」
カイトは針と布を置くと、素直にがくぽの傍らに行った。顔を赤くして考えこむがちゃぽのほうは、大好きなおよめさまが傍に来たことにも気がつかない。
がくぽは微妙な形勢の盤を示した。
「打て」
「でも……」
「良い。負けが込んできて、そろそろこれの頭も煮詰まって来ておる。風を通してやらねば、後にも先にも進まん」
これ、と言ってがちゃぽを示したがくぽは、呆れたような声音ではあるが、瞳はやさしい。
カイトはわずかにがちゃぽを窺って、微笑んだ。
「がちゃぽさま。ちょっとだけ、カイトに勝負を預けてくださいね?」
「およめたま?」
声を掛けられて、がちゃぽが顔を上げる。その隣に座り、カイトは盤を眺めた。
だが、大して考えはしない。ひょいと駒を取り、進める。間断を置かずにがくぽが駒を取り、進む。カイトのほうも、即座に駒を取って、進む。
まるで淀むことなく勝負は流れだし、がちゃぽは大きな目をますます丸く見張って、展開の早い盤上を眺めた。
小気味いい音が続くことに、グミのほうも興味をそそられてやって来る。
しかし盤を眺めると、その顔は厳しくしかめられた。
読めない。
兄が打つ手もさっぱりわからないが、カイトの打つ手がもっとわからない。一応、規則に従って駒を動かしているのだが、戦術も戦略もなく、まるででたらめに打っているようにしか見えない。
「ただ打っても詰まらんな。勝ったら、なにか褒美をやるというのは、どうだ」
「ごほうび、ですか?」
がくぽの提案に、駒を取ったカイトが首を傾げる。今のところ、勝負はがくぽに傾いている。そもそもが、負け気味のがちゃぽの形勢を引き取ったカイトだ。
勝てると思って始めてもいない。
「なにが欲しいんですか?俺に可能なこと、言ってくださいね?」
わずかに困ったように問われて、がくぽは笑った。
「そなたこそ、きちんと考えておけよ。いざ勝ってから、うんうん長考されたでは、また待ちくたびれる」
「ええっと、欲しいもの………」
つぶやきながら、カイトはやはり淀みなく駒を進めていく。
「あ、王手」
ほどなくして、あっさりとつぶやいたのは、カイトのほうだった。
決した勝敗を眺め、がくぽは満足そうに頷く。
「考えてあろうな?」
「えと……」
負けたにしては、うれしそうながくぽの様子だ。グミは首を捻った。
見ていても展開が早いうえ、わけのわからない動きで、読むことは難しかった。
しかし、耽溺するおよめさま相手とはいえ、兄が手加減していた様子はない。むしろ、これ以上なく本気で打っていたはずだ。グミに手が読めなかったことが、なによりそれを証立てている。
だというのに、兄が負けた。
そして兄は、その結果にさっぱり意外そうではない。
「あにさま、ひとつ訊きたいのじゃが」
「ん?」
カイトが考えている間に口を挟んだ妹を、がくぽは寝転んだまま、愉しげに見上げる。
グミは眉をひそめ、将棋盤を指差した。
「勝率は、どれくらいなのじゃ」
問いに、がくぽは笑った。
「今のところ、四:六だ」
「四:六?」
さらに眉をひそめたグミに、がくぽはにんまりと笑ったまま頷いた。
「そうだ。俺が四。カイトが六。――なにしろ俺には、これの手がさっぱり読めぬでな。なかなか形勢が不利だ。言うところによれば、駒が『行きたい』と言ったところに動かしてやっているだけだとか、さっぱり訳がわからぬだろう?」
「……」
グミは呆然と黙って、将棋盤を眺める。
兄は悪逆非道の人非人を集めた印胤家にあってすら、鬼子と呼ばれて恐れられた存在だ。頭脳の冴えが、常人とあまりに違う。それを。
おそらくここにミクがいれば、この結果もがくぽの言葉も、当たり前のこととして聞いただろう。賭博の神に愛されているカイトは、勝負事の神にも、もれなく愛されている。
神と鬼なら、神のほうが強い。
「長考するなよ、カイト。待ちくたびれると、勝手をし出すぞ」
妹を放って声をかけたがくぽに、カイトはほんわりと目元を染めた。
「欲しいものは、いつでも決まってるんです」
「ほう?」
寝転んだままのがくぽに、カイトは微笑む。傍らに行くと、身を屈めて顔を近づけた。
「がくぽさま」
「ん?」
「ください、がくぽさま」
「ははっ」
笑って、がくぽは畳に大の字に広がった。手を伸ばすと、カイトを引き寄せる。
大人しく重なった体を抱き、がくぽはねこのように擦りつくカイトの頭を撫でた。
「そなたになら、いくらでも呉れてやろう。さてもさて、どれくらいやるかが問題だが……」
「全部じゃなきゃ、いやです」
「そうか。では、全部やろう」
甘く請け合い、がくぽはカイトに口づける。
「………今日は終いじゃな」
グミはつぶやき、将棋盤を見つめたまま固まっている弟を眺めた。展開の早さと、兄が負けたことに、二重の衝撃を受けて、さっきからずっと固まっている弟だ。
促しても、簡単に正気に返る気がしない。
グミはまず針仕事の道具を簡単にまとめ、座敷の隅に置いた。それから、固まっている弟を抱え上げ、座敷を後にする。
「ん、がくぽ、さま………ぁ」
「欲しいのだろう?呉れてやるゆえ、きちんと受け取れ」
「ぁ、ふぁ………んん……っ」
明かり取りに開けておいた障子を閉めようかどうしようかわずかに悩んでから、結局グミは開け放したまま、離れた。
離れのほうで、なにかの爆発する音が響く。おそらくリリィがまたなにか、調合を失敗したのだろう。こういうことがたびたびあるから、薬の調合は離れでやらせているのだ。
とはいえ火薬を扱っていたわけではないはずだ――確か、飲み薬を調合すると言っていた。
どうして飲み薬を調合していて、爆発するのか。
リリィの薬を飲むときには重々気をつけようと決意を新たにしつつ、グミは弟を抱いたまま、離れへと足を向けた。