鼻息を荒くしている男を前に、ルカはどこかひどく遠いところを彷徨っているような心地だった。
この恋が、自分の狂いゆえに絶望的で。
この想いが、どう正してもまっすぐにならないなら。
男に身を明け渡すことも、ひとつの手だと思った。
徒夢繚乱恋噺-10-
「男を知れば、世の中の見え方も変わるわよ」
同じ見世で働いていた姐さんたちが、口々にそう言った。ある者は愉しげに、ある者は憎々しげに。
それでも、口を揃えて。
ならば、こうして固く守って来た体も、男に渡してしまえばいい。
遠く離れて暮らして、それでもなにも変えられなかった。
遠く離れても、操を守っていたりするから、軛が外しきれないのだ。
だから。
「巡音………」
「……」
手を伸ばす男を、ルカはしらけた目で見ていた。
自分ひとりと一夜を過ごすために、身代が傾くほどの金を積んだ男だ。後のことも考えずに、たかが自分という遊女の体を開くために。
「英部様」
ルカのくちびるが、笑みを刷く。蠱惑的で、しかしよく見れば、虚ろな。
「どうぞ、やさしくしてくんなまし?」
「ぉお……っ」
吐き出した言葉に、男の息が荒くなった。
やさしくして、と言ったのに、荒っぽい動作で手が伸びる。緩く引っ掛けただけの襦袢を掴み。
「俺の妹に汚い手で触んな、このだぼっっ!!!」
「ごはぁっっ?!!」
「ひきゃっ?!!」
肌蹴られる前に、男は後ろから急所を蹴り上げられた。壮絶な顔でびくびくと震え、しかし衝撃に堪えきれずに、その場に頽れる。
倒れてきた体を避けることも出来ずに潰されながら、ルカは瞳を見開いて、男の背後を見ていた。
そこに現れた、愛らしい遊女――
「って、触るなって言ってんのに、そっちに倒れんな、どこまでも使えないクソだぼがっっ!!」
「ひっ」
かわいらしい見た目に見合わぬ口汚さで罵り、「遊女」はルカの上に倒れた男の体を蹴り上げて退かす。
反射的に悲鳴を上げて、ルカはじりりと後退した。
彼女の知る限り、この「遊女」はきょうだいにはとてもやさしい――兄だ。
「なにしてるのよ、カイト?!!」
「ん?ぇへ☆」
叫んだルカに、遊女、ことカイトは、打って変わってかわいらしく笑った。
「変装して、潜入ちゅう☆」
「ぅぐうっっ」
遊女特有の襦袢に身を包んだカイトは、このまま速攻で閨に押し倒せる色っぽさだ。行燈の仄明かりですらよく見れば男だとわかるはずだが、それでも構わないと思うほどには、愛らしく、そして妙な色香が。
畳に手をつき、ルカはわなわなと震えた。
「くそ、里で培われたカイト萌え属性が、まだ残って………っ三つ子の魂め………っっ」
「ルカちゃん?」
ミク狂いだが、くりねずみ一家のきょうだいの御多分に漏れず、ルカもかわいい兄に萌えてしまうらしい。しかし、萌える自分が悔しいらしい。複雑なきょうだい愛だ。
小首を傾げて傍らに膝をついたカイトを、ルカは憎々しげに睨んだ。
「なんで貴方が、潜入なんてしているのよ?確か、どこぞのお武家に、嫁入りしたんでしょうが」
「んーと、そうなんだよねー」
カイトは曖昧に笑い、くちびるに人差し指を当てた。
「妹のためとはいえ、吉原に行ったなんてバレたら怒られちゃうから、ナイショにしてね?」
「ぐぅう!!」
「ルカちゃん?!」
手をついて畳に沈みこみ、土下座状態になったルカに、カイトは目を丸くする。
「ひ、久しぶり過ぎて、耐性が………っっ」
「え、ちょ、大丈夫?!どこか苦しい?!!」
「くそぅ、このどうしようもない属性、どうにかならないの………っっ」
――どうやら、久しぶりに会った兄の毒性が、強過ぎるらしい。
そうでなくとも愛らしかったカイトだが、今は夜昼なく、がくぽに耽溺されている身だ。所作のすべてに妙な色香が備わり、夜闇の中で見ると、毒以外のなにものでもない。
カイトのほうは、そんな自分に自覚がない。ひたすらにおろおろと、喘ぐ妹を見つめた。
「…………あのね、ルカちゃん」
「ミクさんはどうしたのよ」
「…」
カイトの言葉を遮り、ルカは切り裂くように訊いた。
気を変えようと問いを放っただけだが、口にしてみれば、なによりそのことが気にかかっていたのだとわかる。
「どうして、怒られちゃうからナイショ、なんて言う貴方が来て、お屋形として責任がある、ミクさんがいないの?!」
「ルカちゃん……」
悲鳴のような問いに、カイトは瞳を細める。
くちびるが小さく空転し、それから、微笑んだ。
「ミクは、ちょっと用事があるから、それを済ませたら来るって。でもその間、ルカちゃんのことが心配だからって、俺に護衛を頼んだんだよ」
「……」
「すぐ来るよ。俺は繋ぎ」
瞳を潤ませて睨むルカに、カイトは微笑み続ける。
強気に見せたルカの瞳の中に、怯えが閃いているのがわかる。
見捨てられたのではないか、もう来ないのではないか。
里にいたときから、そうだった。ルカの瞳はいつも、ミクを見つめながら怯えに歪んでいた。
見捨てられる、手の届かないところへ行かれる、誰か別のひとのものになる。
怯えが強過ぎるあまりに想いは暴走し、肝心のミクの声さえも、届かなくなって。
「ルカちゃん………おうち、帰ろ?」
「厭よ」
「ルカちゃん………」
喘ぎながらもきっぱりと答える妹に、カイトは肩を落とす。そう答えるとは思っていても、それでも。
「厭よ。みんなに愛されるミクさんを見るなんて耐えられない。あたくしだけを見ない、あたくし以外を見るミクさんを見るなんて、絶対に厭!!」
掠れた悲鳴を上げ、ルカはぼろりと涙をこぼした。
「あたくしだけのミクさんでなければ、厭よ。それ以外のミクさんなんか、殺してしまうわ。里のために、貧民のために、心を砕くミクさんじゃ、厭…………いや…………っっ」
「うん」
ただ頷いて、カイトは手を伸ばし、項垂れるルカの頭を抱いた。そうやっても抵抗はしないけれど、甘えて来てもくれない妹だ。
昔から、彼女だけは、どうにも懐かなかった。
ミクだけを見つめて、ミクだけを求めて。
あまりに、ミクだけを欲するから。
「好きなんだよね、ルカちゃん」
「知らないわ」
つぶやいたカイトに、ルカは嗚咽をこぼした。
「知らないわ、もうわからない。あたくしは、ミクさんが好きなのか………それとも、憎いのか。遥か昔には、好きだけだったような気もするけど、今はもう、見えないわ。わからない……」
「好きでいいじゃん」
「っっ」
こぼした言葉に返って来た声に、ルカはびくりと身を震わせた。慌てて、カイトの胸から顔を上げる。
「ミク、早かったね」
「そりゃもう、迅速丁寧が売りのねずみ小僧一派、くりねずみ一家のお屋形だもん☆」
「それ、いつから売りになったの………?」
確かくりねずみ一家の売りは、「微迷惑無法慈善行為」だったはずだ。
生温く訊くカイトに、ミクは片目を瞑ってみせた。
その恰好は、夜闇に紛れる忍び装束だ。金を払って座敷に上がったわけではなく、こっそりと忍び込んだのだと知れる。
凝然とミクを見つめながら、ルカの指は縋るようにカイトの襦袢を握りしめた。
気がついたカイトが、力を入れ過ぎて白くなったルカの指をそっと包む。
「ルカちゃん……」
「っ」
呼ばれて、手を包んだぬくもりに、ルカはわなわなと震えた。心配そうに見つめる兄を、瞬間的に見返した瞳は、救いを求めて叫んでいた。
だが、すぐにもミクを見た瞳には、もう正気の色がない。
「おまた、ルカちゃん、っつっ」
「ルカちゃん!!」
跳ね起きた体がミクに肉薄し、その頬を張り飛ばす。ミクは軽く揺らぎ、カイトが悲鳴を上げた。
ルカの瞳が極限まで開かれ、痛そうな顔で頬を押さえるミクを見つめる。
「人任せにしないで!!」
烈火の叫びが迸り、ミクは頬を押さえたまま、ルカを見上げた。
「あたくしのことを、人任せにしないで!!どんな理由があったって、貴女がすべて見て、すべてやって、すべて責任持って!!人に任せるくらいなら、捨て置いてよ!!」
喚きながら、ルカの瞳から新たな涙がこぼれる。見開いたまま、滂沱とこぼされる涙に、ミクは笑った。
「ほんと、ワガママだなあ」
「わかりきったこと言わないで!!」
愉しげなぼやきに、怒鳴り返す。
堪えきれず、ルカは頬を押さえたままのミクを掻き抱いた。押し潰すように畳に転がすと、くちびるにくちびるを押しつける。
舌を差し入れれば、さっきの張り手で口の中を切ったらしい。血の味がして、陶然となった。
「ミクさん………ミクさん…………っ」
「ん……」
「あたくしの、ミクさん……」
「はいはい、んっ」
おざなりに返事をするくちびるが、再び塞がれる。瞳を閉じようとして、ミクは反対に見開いた。
視界の端に、そっと出て行こうとする兄が見えた。
「んー………おにぃちゃ」
「後始末はするから」
言いながら、カイトはさっき蹴り倒した男の襟首を掴んで引きずる。かわいらしく手を振られて、しかしその手には蹴りの一発で気絶させた男を提げていて。
ミクは笑って、手を振った。
「ミクさん………っ」
責める声に、ミクはそのままの笑顔を向けた。
「今日で三回目」
「………っ」
「約束したよね?三回目には、触ってもイイって」
約束というより、吉原のしきたりだ。そして初手からずっと、破り続けている。
そのうえ今日のミクは客ではなく、侵入者だ。
だが、そういう諸々のことすべて、ふたりにはどうでも良かった。
ミクは蠱惑的に微笑んだまま、ルカを見つめ続ける。焦点が合わず、調律の狂った、それでも美しい顔を。
「欲しいなら、体を開いて上げる。ルカちゃんが望むだけ、ボクを食べていいよ?」
「………っ」
誑かす言葉に、ルカの瞳が喜色を刷いて輝いた。
押し倒されたまま、ミクはうっとりと瞳を細める。
「やさしくしてね?」
甘いささやきに、ルカの伸ばした手は乱暴なほどだった。ミクは声高く笑う。
そのまま沈みこんで来た頭を愛しげに抱いて、ミクはつぶやいた。
「とはいえ、タダとは言わないけどね?」
つぶやきは、甘く香る体に耽溺するルカの耳には届かなかった。
それもまた、常態だ。
「ふぁ………っん、ルカちゃ………っ」
甘い啼き声を上げながら、ミクはルカを愛しげに撫でていた。