CHIMÉNE-02

「がくぽさまぁ………。おやつの、お時間でーす………」

「ああ、カイト。………そうか、もうそんな刻限か」

執務机に向かっていたがくぽは、ふっと顔を上げると窓の外の陽射しを確かめた。すぐに振り返ると、家宰が開く扉の向こうから、遠慮しいしいちょこなんと顔だけ覗かせている相手の姿に笑み崩れる。

優秀にして有能と、他領にまで鳴り響く領主が、がくぽだ。そうそう無防備に笑い崩れることなど、ない。

その無防備な笑みが、ここ最近になって頻繁に目撃されるようになった。

そもそもが、突き抜けた美貌の持ち主だ。笑み崩れるとまた、別の威力でもって人の心を掴み取る。

とはいえ、誰にも彼にも向けるものではない。つまり、『ここ最近になって』迎えた新妻に対してのみ、向けられる表情だ。

優秀にして有能だが変わり者で、いつまで経っても結婚しなかったがくぽだが、ようやく迎えた幼い妻のことを非常に愛していて――有り体に言って、溺愛状態だった。

かわいらしくご機嫌伺いなどされれば、無防備に笑み崩れもする。

「おいで。急ぎの用事もない。おやつにしよう」

「はぁいっ!」

招く手とともに吐かれた許諾に、窺う顔だったカイトもぱっと笑み崩れた。扉を押さえてくれていた家宰にぺこりと頭を下げると、執務室の中へぱたぱたと早足で入って来る。

その手に持つのは、おやつの載った盆だ。

わざわざ部屋を移動することはないが、大事な書類を汚すわけにもいかない。がくぽは執務机から離れ、部屋の一角にある簡易な来客用の場所に移動した。

そうそう気を遣わなくてもいい、格式ばらない客を相手とするときの場所だ。置かれた椅子も小机もそこそこの体裁は整えてあるが、あくまでも略式に過ぎない。

領主にとっての『正式な客』なら、それはそれ用の応接間というものが、部屋を分けて別にある。

ついでにここはこうして、領主が執務の合間に多少の休憩を取るときにも、利用された。

ゆったりとした感触の椅子に座ったがくぽは、小さく息をつく。執務用の椅子もそれなりの造りだが、あれはやはり、『執務用』だ。寛ぐには程遠い。

「今日はなんだ?」

「んと、えっと………干しぶどう入りの……焼き菓子です。ふわふわ、やわらかい………ぇへ料理長さん、飾りのお砂糖、ちょっとたっぷりめに掛けてくれました!」

「そうだな。いつもより気持ち、多めだ。甘そうだな」

うれしそうに報告してくれるカイトに応えながら、がくぽのくちびるはやわらかな笑みを刻む。

幼いころはそうでもなかった記憶があるが、大きくなるに従い、がくぽは甘いものが苦手になった。

しかも集中すると途切れさせることを嫌う性質で、ゆえに中座する必要のある『おやつの時間』――つまり小休憩など、不要だと。

領主となってからはずっとそうやって、朝から晩まで執務漬けだった。執務中に挟まれる、昼の食事を抜くことも多かった。

しかしカイトを迎えてからは、そういうことがない。

なんにせよ大人しく受け入れたカイトだが、がくぽ不在では、決して食事を摂らなかったのだ。

妻はきちんと食事をしたかと、それだけは気に掛けるがくぽがたまさか家宰に訊くと、奥様は旦那さまがいらっしゃるまでは召し上がらないとおっしゃっておいでです、と。

常にその調子だ。

朝昼晩の食事はともかく、贅沢品に類されるおやつにまで付き合わせることには、カイトにも遠慮があったようだ。

それでも結局、がくぽさまといっしょじゃないならおやつはいりませんと、譲らなかった。料理長特製の、香りも豊かな焼き立てのお菓子を前にして――だ。

お預けを命じられた憐れな仔犬そのもので、見るものすべての心を引き絞りかき乱す様子だった。ついでに言うなら、幼くして『主』への忠誠に満ちた、健気に過ぎる姿でもあった。

奥様付きの女中と家宰から揃って嘆願された領主付きの家宰が、主たるがくぽへと具申せずにはおれないような。

そもそも他の家宰よりも厳しく躾けられ、おいそれとは領主へ取り次がないのが、領主付きの家宰というものだ。

なにより重要な役目のひとつでもあるというのに、覗いた奥様の様子に諸々のものがばっきりと折れ、がくぽへ具申した。

つまり、奥様とおやつを召し上がるお時間をお取りくださいと。

「………あれは具申ではなく、すでに脅迫が入っていた気がするが」

「がくぽさま?」

「んいや………」

いくら『奥様』でも、領主の執務室へは気軽に寄れない。

日中、カイトはほとんどの時間をひとりきりで過ごすが、信頼のおける家宰や女中を傍につけてある。カイトが暇を持て余すことがないよう、寂しがることがないよう、なにくれとなく面倒を見る相手だ。

がくぽは最初、彼ら彼女らと食べろと言ったが、カイトは『がくぽさまと』の、一点張りだった。

ならばおやつは廃止するという選択肢もあるわけだが、そうはならずに折れるのが、つまりがくぽが懸けるカイトへの愛情だった。

そして折れてみれば、甘いものはともかく、自分にもたまさか気を抜く時間が必要だったのだと。

頭脳の冴えゆえに余裕ですべてをこなしていたつもりが、意外に追い詰められながら過ごしていたのだと、わかった。

わかってしまった――

「そなたもな。しばらく休め」

ひと息ついたがくぽは、傍らに控えていた家宰へと手を振り、彼にも小休止を取るように促した。心得ている家宰は一礼し、領主の憩いの時間を邪魔することがないよう、執務室から出ていく。

浮かべる表情は、やわらかい。笑みにも見える。

多少は業腹だが、執務が中断されてしまうこの時間が、好意的に受け止められている証でもある――働き過ぎで頑固な領主は、家宰にとってもそれなりに心痛の種だったのだろうと、そこまでわかるから、また業腹だ。

業腹でなによりも、有り難い。

己が抱える人材が、単に『使える』だけではないのだとわかったのも、すべてはカイトという存在を通してだ。

「ほら。おいで」

「はいっ!」

家宰が出て行ったところで手招くと、カイトはきらきらの笑顔でがくぽの膝に乗った。来客の相手をする場所だ。がくぽが座った椅子だけでなく、客用の椅子もある。

しかしがくぽは赦される場合は必ず、カイトを膝に上げていた。可能な限り間近にいたかったし、隣に座ったのよりもよく顔が見える。

体温も香りも強く感じるし、大人になりきらないカイトの重さは、鍛えているがくぽにとってはそれほどに感じない。むしろ、重みがあることが心地いい。

「ぇへっ!」

「ん」

座ったカイトは尻が落ち着くと、まずはがくぽのくちびるにちゅっと口づける。がくぽの気が向くと、そのまま舌を押しこむ濃厚なものに発展することもあるが、おやつ前には滅多にない。

図らずも『おあずけ』になって憐れだと、がくぽが気がついたからだ。

もちろんカイトは、がくぽとの口づけも大好きだが――

「はい、がくぽさま。あーんっ」

「ぁー……」

きらきらの笑顔で、砂糖たっぷりの焼き菓子を取ったカイトは、まずは小さく千切ったひとかけらをがくぽの口に含ませる。

その後はすべてカイトが食べるが、必ずひと口目はがくぽだ。

『領主にひと口目』を食べさせることに、それなりに問題がないわけではない。

つまり、毒見だ。

料理長にしろ家宰にしろ、身元の確かな信頼できる相手を傍に置いてはいる。しかしなにを罷り間違うかわからないのが、人間だ。

ただし、カイトに限っては許容された。溺愛される奥様だというのもあるが、天然の毒探知機だったからだ。

食べる必要もなく、カイトはぱっと見ただけで、毒が入っているものといないものとを見分けた。

そこの原理は不明だ。封じ森産だということもあるし、魔女の係累ということもあるだろう。

しかも正確に言って、見分けているのは毒のあるなしではない。『それはがくぽさまのお体に合わないから、だめ』というのが、カイトの言い分だ。『カイトは』食べられる場合もある。

家宰側に、多少の開き直りと諦めも必要だ。カイトが罷り間違うことがないとは、言い切れない。

それでも今のところ、カイトはすべてにおいて好意的に受け入れられている――

「ん。旨い。………甘いが」

「ぇへっいたぁきまぁすっんぁむっっ!」

「………やれやれ」

こくりと飲みこんで感想を告げたがくぽに、若干の『おあずけ』中だったカイトは満面の笑みとなると、大きく口を開いた。ぱっくりと、焼き菓子にかぶりつく。

『領主の奥様』の所作ではないが、とにかくしあわせそうだ。

口の中に甘さが残っていても気分は悪くなく、がくぽは瞳を細め、焼き菓子を頬張るカイトを眺めた。

「………そなたが来て、屋敷の中がずいぶんと明るく、華やいだが………料理長も最近は、いつもの食事を作るにも、気合いが違うらしいぞ」

「んへ?」

大きなひと口を懸命に咀嚼していたカイトは、きょとんと首を傾げることでがくぽの言葉の真意を問う。

がくぽは笑って、カイトの短い髪を梳いてやった。

「くまをも倒すという鉄鍋を、日々操る猛者だがな……あれでいて、いちばん好きなのは菓子作りでな。俺が食べなくなったので、腕を振るう機会が減ったろうそれがそなたが来てからというもの、毎日毎食に作れるし、おやつもあるし………。食事時にな、理由をつけては最後に、様子見に来るだろうあれはな、これ以上なく幸せそうに、菓子を頬張るそなたを見に来ているんだ」

「………」

悪戯っぽく告げたがくぽに、カイトは微妙な表情で菓子から口を離した。菓子とがくぽとを見比べて、ちょこりと首を傾げる。

「………しぁわせ……ですか?」

「そなたか幸せそうだ。……ああ、料理長か。年老いて得た、新たな生きがいらしい。奥方様は、今日のお菓子はお気に召していただけるかと――菓子に限らず、すべての料理においてな。久しぶりに新作も考案したりと、料理場はいい感じに活況だそうだ」

笑って告げたがくぽに、カイトはしばらく瞳を瞬かせていた。しかしすぐに、笑み崩れる。

「んへっ!」

またぱっかんと大きく開いた口で、砂糖たっぷりの甘い菓子にかぶりつく。そろそろ引退を考えていた料理長がうっかり若さを取り戻した、しあわせ満杯の笑みとともに。

「………ふ」

釣られて笑うがくぽの表情も、いつもの鋭さを失って、やわらかくやさしい。

カイトに折れる形で変わることもあったがくぽだが、今でもやはり、甘いものは好きではない。

しかし最初のひと口目だけは、受け入れる。愛だという話もあるが、結局のところ、カイトの特性というものが大きい。

『主』と定めた相手を優先しないと、動きが取れなくなる傾向にあるらしい。

そもそもは太古の魔法に封じられた森で、木の実から生まれたというカイトだ。見た目は人間の少年そのものだが、もちろん人間ではない。

木の実から出てきた当初の大きさは、十代の少女の手のひらに乗るものだったという。それがたったの一年で、婚姻可能年齢に見えるまでに成長した。

「………そういえば、そなた。最近あまり、成長していないか?」

「んくっ?」

はぐはぐまぐまぐと、幸せ満杯で焼き菓子を頬張っていたカイトは、唐突ながくぽの問いに咽喉を鳴らした。

きょとんとして、がくぽを見る。おそらくはきちんと、問いが耳に入っていない。

傍にがくぽがいて、膝にまで乗せているのに、そうまで焼き菓子に心奪われるとは――

一瞬、誰もが白眼視するような嫉妬を覚えたがくぽだが、表情には出さなかった。ただやさしく微笑んで、カイトの口周りについていた菓子の滓を軽く払う。

「背丈だ。横幅もそうだが………五魔女の三番目に聞いた話だと、もうすでに『大人』になっていてもいいかと思ったのだが」

「ぁ………」

少女の手のひらに乗る大きさから、十四、五の少年にまで成長するのに、たったの一年だ。

初めての夜を過ごした翌日、五魔女の三番目――ミクが語ったところでは、あとひと月もすれば十代後半の彼女を追い越し、『おにぃちゃん』になったという。

しかしそれから数か月経ったものの、カイトは出会った当初とまったく変わっていない。未だに十代前半の背丈で、容貌だ。愛らしさだけは日々、磨きがかけられていると思うが――基幹の骨組みが、『成長』していない気がする。

がくぽは特に思うこともなく、動きの止まったカイトの腕を取り、太さを測った。夜ごと掴んでは戒めることもあるが、どんなときにも折れないようにと、気を遣う細さだ。

骨そのものの華奢さもあるが、鎧う筋肉が発達しきっていない。

つまり、やはり――

「………ぁの。えと…………はやく、おっきくなったほうが、………いい、です、か……?」

「ん?」

遠慮しいしい訊かれて、がくぽは目を上げた。見れば、カイトは声と同じに、どこか心配そうな顔をしている。

そんな顔をさせたくて、放った問いではない。いや、そんな顔をすると思って、放った問いではない。

がくぽは一度ぱちりと瞬いてから、ふっと笑った。

「いや。急がずとも良い。そなたはなにかしら思うことがあって、一年でここまで大きくなったのだろうが………俺はそなたが大きくならんと困ることも、特に思い浮かばない。大きくなるなとは言わんが、ゆっくりで良い」

「………」

ゆらゆらと揺らぐ瞳で、カイトはがくぽを見つめる。言葉の内側に隠された真意を探ろうとするようにも見えるし、単に不安なだけにも見える。

どう言葉を尽くせばと考えて、ふと思いついたことに、がくぽの笑みは悪戯に染まった。きょとりとするカイトへ、どこか幼さを宿しながらも性悪な笑みを向ける。

「それに、あまり大きくなると、膝に抱いてやるにも苦労するだろう俺は鍛えているほうだが、それにしても限度はある。とはいえ、今しばらくはそなたを膝に抱きたいしな……だから、カイト。あまり急いで、大きくなるなよ?」

「………っっ!!」

しらしらと言ったがくぽに、カイトはそうでなくとも大きな瞳をさらに大きく、こぼれそうなほどにぱっちりと見張った。