恋より遠く、愛に近い-第3話-
「……あれ?」
どうやらカイトがおとうとを相手に四苦八苦している間に、名無星カイトはどこかへ行ってしまったらしい。
もしかして呆れ果て、自分の用ももう済んだことであるし、これ以上は付き合っていられるかと、――
再び血の気が引くような思いをするカイトを抱えたまま、おとうとがちっと、舌を鳴らした。
「逃げられた」
「え?」
舌打ちのほうがよほど大きい、小さな声だった。聞き間違いかと振り返ったカイトは――
そう、『自由に』振り返ることができるということに気がつき、微妙な表情となった。
ことここに至ってようやく、がくぽはカイトを解放したのだ。身を浮かせたという程度ではなく、完全に離れた。
単に腕を離したという意味ではなく、兄との間に生じさせたのは、少なく見積もっても半歩分ほどの距離――
あるかなしかの半歩の距離を、カイトは奈落の底のように眺めた。
もう少し早く、名無星カイトがいるうちにそうしてくれと思う。思うが、あとひとつ、もうひとつは、まったく逆で、『早くない?』という。
なにが早いかといって、つまり、明夜星家のロイドきょうだいは単にきょうだい仲が良いというのみならず、そもそもおとうとがとても、とてもとてもあまえんぼうさん『だった』ということなのである。
一応、他人の目があるところではそこそこ控えていたが、それでもああしてべったり張りついたなら、滅多なことでは離れなかったというのに――
「あのさ、おっとりもいいけど、兄さん?」
束の間、思考が奈落に嵌まって空白を晒したカイトに構うことなく、おとうとは不機嫌丸出しで、つけつけと言った。
「あっちが兄さんに迷惑かけることはあるけど、兄さんがあっちに迷惑かけることなんか、万にひとつもあるわけないでしょう。誰が兄さんの迷惑料を渡せなんて言ったっていうの」
「え?いや、えっと、がくぽ…」
勢いだ。あとは、言われた内容だ。いくらどうでも、兄贔屓の過ぎる。
束の間の奈落も忘れ、カイトは困ったようにおとうとと目を合わせた。
「おにぃちゃんだって失敗するし、きっといっぱい迷惑かけるよ。どっちかだけなんて、ぜったいにないから。ていうか、そもそもがくぽがいったんでしょう。お返ししなさいって」
もちろんそんなこと、改めておとうとに促されるまでもなく、カイトだってするつもりでいた。
なにかもう、取り返しがつかないほどあれこれとあれな気はするが、だからといってなにもしないでいたら、もっとあれだ。
なにと明言するのはこわいのでいっさいなにも明言しはしないが、とても『あれ』だ。
ほんとうに取り返しがつかないことになる。
だからこのあとすぐ、がくぽ――恋人のほうの、名無星がくぽに連絡を取って、彼の兄、名無星カイトの好きなものを確認し、速攻で買いに行く。
そしてできるだけ早く、改めて場を設けて――あるいは名無星家に押しかけ、渡すのだ。
決意に燃える兄に、そのおとうとたる明夜星がくぽはふんと、不機嫌を極めて鼻を鳴らした。
「おれは言ってないからね、兄さん!『兄さんの迷惑料』を渡せなんて、そんな存在しないもの、存在しないんだから、ぜっっっっったいに!俺は言わないっ」
「ん、あー………がくぽ」
不機嫌かつ、強硬に言い張るおとうとに、カイトは思わず苦笑した。
カイトもおとうとを溺愛して盲目気味だが、おとうともとても兄を信頼し、慕ってくれている。少し尊敬が過ぎた挙句、他を疎かに扱う癖があるのがむしろ、困りものだ。
困りものではあるが、かわいい。いや、まあ、つまり、――
とてつもなくかわいい。かわいいったらかわいい。
そんなに慕われるようななにをしたのか、心あたりがいっさいまったくないので戸惑うことも多いのだが、とにかくひたすらかわいい。
ついつい表情が緩んでしまうカイトから、すっかりむくれたがくぽはぷいと、顔を逸らした。そういう幼稚なしぐさもまた、カイトにはかわいくてかわいくて、きゅんきゅんで――
顔を逸らしたまま、むくれきったおとうとはぶつくさとこぼした。
「そもそも兄さんがもらったのは、『おとうとの迷惑料』でしょう。じゃあ兄さんだって『兄さん』なんだから、兄さんとしてそういうお返しちゃんとしなくちゃねって、俺はそう言っただけなのにっ」
「もぉ、がくぽ、………」
むくれたおとうとをなだめようと口を開きかけ、カイトは止まった。
止まって、しばらく。
カイトは穏やかな笑みまま、ちょこりと首を傾げた。
「……それ、ヘンじゃない?だってそれじゃがくぽ、もう…カイトさんに迷惑かけてる?みたい。でもふたりって、そんなに仲良かった?おにぃちゃんと、そんなに変わんないはずじゃないの、がくぽ………カイトさんとがくぽって、『今』がほとんど、初対面だよね?」
「あ」
指摘する声はやわらかかったが、がくぽはあからさまにまずいものを突っこまれた顔となった。
せっかくの美貌がもったいないと思いつつも、カイトはこういう態度を取ったおとうとを逃すような兄ではなかった(溺愛すればこそ、おとうとがほんとうに困ったことにならないよう、カイトはしつけはしつけできちんとするタイプなのである)。
とはいえ、相変わらず笑顔だ。少し困惑の色はあるが、とりあえずやさしい――
「なのにもう、『ご迷惑おかけしてます』なの?『これからご迷惑おかけします』?――あのね、もしかしてだからもう一回、訊いておくけど、おにぃちゃんの分じゃ、ないんだね?がくぽのほう、なんだね?」
「ぁあ、いや、兄さん……」
「そういえば、ちょっとおかしいなって思ったんだよね、おにぃちゃん。がくぽさっき、『逃げた』っていったでしょう。なんで?なにから?どうしてカイトさん、『行っちゃった』じゃなくて、『逃げた』なの?」
「えと、兄さ…」
「それに、カイトさんもだよね…がくぽが来たとき、『げ』っていってた。すっごくちっちゃい声だったけど、おにぃちゃん、ちゃんと聞こえました。あんっっっなに、すっごくとってもちゃんとしたひとなのに、がくぽ見て、『げ』って、カイトさん」
「いえ、兄…っ」
いつも通り、春の陽だまりのようなやわらかさではあるのだが、機敏なおとうとに口を挟む暇を与えず、カイトはとうとうと述べ立てた。
そう、肝心の本人たちですら誤解していることが多いのだが、やろうと思えば低スペック旧型機のKAITOであっても、こういったわざは可能だ。
可能なのだが、とにかく突き抜けておっとり鷹揚な性格がまずあって、大概のことを『まあいいや』で流してしまうから、滅多に発揮する機会がない。
しかしスキルはあるので、発揮する気になればこうして――こう――
あくまでもどこまでも春の陽だまりのように穏やかな笑みを浮かべたまま相手をのし切ることも可能なんである。
これをして余計に性質が悪いという。
おかげで今や完全に腰が引けているおとうとだが、回れ右して逃げることはなかった。
カイトはがくぽを押さえこんでいるわけでもなく、捕まえてすらいないのだから、がくぽは自由だ。たとえ腰が引けていて、いつもの機敏さが損なわれていたとしても、それでも逃げようと思えば逃げられる。
しかしながら明夜星がくぽには、兄から逃げるという選択肢が存在したことがなかった。
たとえあまえんぼうのわがまま王子と化して駄々をこねている最中であったとしてもだ、がくぽは兄から逃げられないのである。
なぜならばだから、そういう選択肢があり得るという認識が、まずない。
――こういうところもかわいい。
しみじみ実感しつつ、カイトは半歩、足を踏み出した。逃げ腰とはなっても逃げられないおとうとに肉薄し、きっと、見つめる。
少なくともカイトの認識上では、兄の威厳に満ちてきりりと見つめた(状況にもよるが、こういったときに大事なのは自己の認識だ。自分は今、おにぃちゃんとしての威厳に満ちていますという。相手の認識まで逐一慮っているようでは、おにぃちゃんなどというものはやっていられない)。
とにもかくにもカイトはおにぃちゃんとしての威厳を最大限に、疑惑のおとうとをきっ、きりりと見据え、最終確認のため、おもむろに口を開いたのである。
「まさかだけど、がくぽ………カイトさんになにか、ご迷惑おかけしてるの?それとも、これからおかけする予定がもう、決まってるの?確定で確実にご迷惑おかけするの?」
「に…っ」
疑惑を深めるばかりの態度を取るおとうとに弁解の余地を与えず、カイトはそのままふんすと、言いきった。
「そんなの、おにぃちゃんぜっっったい、ゆるさないからっ!」
「ぜっ……っ」
大好きな兄からの厳命に、あまえんぼうのわがまま王子たるおとうとは引きつった。
それはまあ、明夜星カイトにとって、名無星カイトというのは忖度すべき重要度の高い相手ではあることだろう。
なにしろ恋人の兄だ。ついでに、マスターの友人のロイドでもある(ところで『マスター』がついで扱いであることにはがくぽも疑問はなかったがカイトも疑問はなく、肝心のマスターも疑問はないので、深く考えないことを一応、推奨しておく)。
とにかく、兄がそう言うのも仕方がないのだということは、がくぽにもわかる。理解できる。
しかしである。かかしである。
わかるし理解できることと、納得できるかどうかということは、まったくの別問題なんである。
「そりゃ、兄さんにとっては恋人の兄さんで、大事な相手かもしれないけどっ」
――自分だって、兄にとって大事にすべき、まずもっとも尊重すべききょうだいではないのかと。
若干、引きつった声を上げたがくぽだが、すべて言いきることはできなかった。
なぜならカイトがきょとんとしたからだ。きょとんとしてから、はっとした――
「あ、そっか。カイトさん、『お義兄さん』なんだっけ」
「にっ……っ?!」
どういう返しなのか。
『こう』いう兄とひとつ屋根の下、日常暮らしている明夜星がくぽとはいえ、さすがに一瞬唖然と、言葉を失った。
とはいえ少なくとも、前提条件がまるでずれているらしいことはこれで理解できた。付き合いたての恋人の家族であれば、気を遣えということではないのだと。
ではいったい、なにをもって兄はおとうとに厳命したのか?
「兄さん?兄さん………確認するけど、確かめたいんだけど、つまりあのひとに迷惑をかけるなっていう、その理由は、なにがどうであれ他人様にご迷惑をおかけするようなことはしてはなりませんっていう」
「じゃないよ」
自分のうっかりでうっかり迂闊にぷっすんと、なにかの気も抜けてしまったカイトはいつもの通りおっとりと、おっとりだが救いようもなくはっきりと答えた。
答えてから、ぷるぷると首を横に振る。
「他人様に迷惑かけるのは、もちろんどんな理由でもだめだけど」
「じゃあ、恋人の兄さん…」
「それは忘れてた」
なぜ忘れた。いつから――
まるで悪びれることもなく答えてから、カイトはもらった菓子折りを大事にきゅっと、抱えこんだ。きらきらと、湖面の瞳が星を宿して輝く。
喩えるなら、運命のひとを見つけたヲトメ――
いや、ことここに至って今さら逃げてどうするのかという話だ。
逃げることなく真っ向正直に、素直かつ正確に言おう。
カイトの様相はまさに、生涯を懸けられるほどの推しと出会ったヲトメそのものだった。
「だって、憧れるでしょ……っ!すっごいすっごいすっごい、かっくいー………っ!!」
「……っ!」
今度こそほんとうに愕然としきったがくぽに構わず、カイトは再びきっとして(あくまでも自分の認識上だけの話だが)、揺らぐことなき兄としての威厳に満ち満ちて、通告した。
「だから、がくぽっ!あんなすてきなひとにめーわくかけるなんて、おにぃちゃん、ぜっっったいに!ゆるしませんからっ!!」
くり返す。
瞳のなかには未だ星がきらっきっらにきらめいており、陶然と熱っぽく潤むカイトの表情は威厳とは程遠かった。
――というのは、まったくもって本人の認識外の話なのである。