恋より遠く、愛に近い-第27話-
「ええと、ちょっと待って…」
復活の呪文がようやく終わり、顔を上げた名無星出宵だったが、その表情は冴えなかった。効力が中途半端で、復活しきれなかったわけではない。あるいは、そうであるとも言える。
つまり、話の流れだ。
「じゃあつまり、ボクは…ボクとカイトラさんは、それぞれ、お互いのロイドを交換して曲をつくるだけでなくって、カイカイ曲とがくがく曲もつくると」
「あと、俺とカイトの曲」
指折り数える出宵は、あまりにすんなりと割り入った声に素直に指を折り――
かけて、はたと気がついた顔を上げた。
必死(瀕死の可能性もある)の形相を、声の主、明夜星がくぽへ向ける。
「がっくんっ?!数の増やし方ナチュラル!今ふっつーに頷きかけたし!そんな話は出てきて…」
懸命に記憶の箱をぶちまける出宵にも、明夜星がくぽはまったく平然として、構う様子はなかった。
平然としてといえば、先までわりと平然と名無星カイトを膝に抱えこんでいた明夜星がくぽだが、突然に『足疲れた!交代!』と喚きだした(諸々あって大笑いしていた名無星カイトが、ちょうど落ち着いたあたりだった。きちんと落ち着くのを待っていたと考えると、非常に健気ではないだろうか。こいぬとはいえ、やはりいぬはいぬと言おうか)。
それで概ね有無を言わさず、椅子に座るほうと膝に乗りかかるほうが交代となった。名無星カイトが椅子に座り、椅子に座る名無星カイトの膝に、床座の明夜星がくぽが上半身を預けるという。
――さすがに名無星カイトの膝に、明夜星がくぽがそのまま座ることはしなかった。いくらどうでも無理だからだ(では名無星カイトが明夜星がくぽの膝に乗ることに無理はないのかといえば、実際、こちらも結構めに無理があるはずなのだが)。
それで、膝に預かった明夜星がくぽの頭を名無星カイトはなんとなし、よしよしと撫でたり、長い髪を梳いたりとしてやっている。明夜星がくぽも明夜星がくぽで遠慮はなく、名無星カイトの腹に顔を埋めてみたり、膝に擦りついたりとして甘えたい放題である。
そう、どちらが上であっても下であっても、大差はない。
そこに、すぐそばにいる恋人たちを差し置いた態度であるという、一点に於いて。
で、そういう姿勢で、相変わらず名無星カイトの膝に懐いたまま、あまえんぼうのわがまま王子は平然と話を続けるのである。
「どっちがどっちつくってもいいけど、俺とカイトのがくカイ曲と、兄さんとそっちのがくカイ曲。で、都合…兄さん、計算できた?」
「っぅっ?!ぅぇえーっと、ええーーーっとっ?!」
おとうとが突然に言いだしたことにきょとんとしていた明夜星カイトは、さらに突然振られた計算に、完全にパニックに陥った。揺らぐ湖面の瞳が揺らぐどころでなく、ぐるんぐるんと渦を巻く。
小学生どころか、現代においては幼稚園児でもできるような計算だが、KAITOだ。低スペックの保護機能として、難易度に因らず、計算をすべて放り投げる癖がある(実際は計算以前の数のカウントから放り投げる。こういったやりようを極大解釈、あるいは過大適用という)。
明夜星カイトも例に漏れず、数のことなど端から聞き流していた。御多分に漏れない、その結果である。
わかっていて振る明夜星がくぽに、兄に代わって答えたのはその恋人だ。
「三曲三曲の、六曲だろう。というか、待て、明夜星の。いったいいつ、どうしてまた…」
「だって萎えるでしょ」
まるで遠慮もなく名無星カイトに甘えかかったまま、明夜星がくぽは即座に返した。身を正す気配がいっさいない。だからいっそ恋人同士に見習わせたいほどの姿勢で体勢で振る舞いだというのに。
若干以上に引いた顔となった名無星がくぽにも構わず、明夜星がくぽは高慢に鼻を鳴らして続けた。
「兄さんとうたうのは別にいいけど、担当がいよちゃんでしょ。で、がくがく曲ってなったら、担当はいよちゃんだし、相手はあんただし、それは確かに、俺の勉強にもなるかもしれないけど……なんか別に、ちゃんとアガるものないと、始まるまでがまず持たないよね、正直」
「がくぽ…」
「なんだ、おまえ」
おとうとの言うことも言いたいこともわかるが、言い方だ。言い方と、あとは姿勢だ。
視線をやるのがどうにも居心地悪いような気がうっすらしたのでここまで見過ごしていたが、そろそろ兄としてひと言、相応に発しなければならない。
――という明夜星カイトの決意は、かぶるようにして発せられた名無星カイトの言葉に呑みこまれ、消えた。
なにしろ名無星カイトは明夜星がくぽのごくそばにいて(それはそれはもう、非常にそばにいる!)、小声であってすら有利であるというのに、このときはほんとうにおもしろそうに、思わずといった風情で声を上げたからだ。つまり相応に音量もあった。
それで、おもしろそうなのは声や言い方だけでなく、表情もだった。興味深そうな色を宿して、膝に懐くころもこ毛玉ボール期のこいぬもとい、明夜星がくぽを覗きこむ。
「俺とうたうので、相殺されるのか?俺とうたうのが、おまえの『ご褒美』になる?マスターがどっちであっても構わないくらい?」
「ん?」
訊かれたことに、明夜星がくぽは少し、黙った。即答するに、微妙なことを問われた気がしたからだ。
それで上目となり、名無星カイトの問いを慎重に分析にかけた。
つまり、現状だ。
このままいくと明夜星カイトは曲数がふたつであろうが三つであろうが、出宵と自分のマスター:明夜星甲斐と、双方に担当されることとなる。名無星がくぽも同様だ。一曲増えたところで変わらず、出宵と明夜星甲斐と、双方が担当する。
自分のマスターに担当されるほうが多いか少ないか(二曲か一曲か)の差はあれ、とにかくどちらのマスターとも付き合うことになる。
対して名無星カイトと明夜星がくぽだ。微妙だ。
このまま二曲の場合、このふたりは自分のマスター以外に担当されるだけで終わる。そう、どれほど苦手だろうと、明夜星がくぽはがくがく曲も兄との曲も、どちらも出宵が担当だ。
名無星カイトも同様に、カイカイ曲もおとうととの曲も明夜星甲斐が担当であり、出宵が担当する曲をうたうことはない。
すでにカイカイ曲とがくがく曲を誰が担当するか割り振られている以上、これはほぼ確定事項だ。
しかしもう一曲、増やした場合だ。ここで状況が再度分断される。どちらかは軛から逃れられるが、どちらかは割りを食うというふうに。
そう、今の配分だとどうしても、この四人のうち誰かひとりだけは三曲すべて、自分のマスター以外に調声されることとなる。
一曲でも相当にストレスだと考えたものを、三曲すべて――
名無星カイトが訊いているのは、だから、そういうことだ。
そもそも先に、明夜星がくぽはすでに言っている。『どちらがどちらのがくカイ曲をつくるのでも構わない』と。
もちろん言ったときには、ここまで考えてなどいなかった。今、こうして名無星カイトに改めて指摘され、分析にかけて、ようやく思い至ったのだから。
しかし言われてみればそうであるし、ならば四人の負担を均等にしようとすれば、曲数が無闇と増えていくだけである。
それではつくる側であるマスターたちも大変だが、うたう側のロイドも大変だ。だからそうでなくとも、<マスター>を換えてうたうということがまず、なにより負担であるというのに。
たとえ数を均等にしようと、増えれば増えるだけ、精神的負担も増す。これは数をこなせば馴れるという問題ではない。『ロイド』というものの、基幹設定に関わる分野の話だからだ。
二曲であれば、名無星カイトと明夜星がくぽの負担は変わらない。声を合わせてともにうたうことはないが、同じ苦労を負う、ふたりきりの『仲間』である。
しかし明夜星がくぽが言うまま、曲数を増やした場合だ――
「あ……っ」
「ほぇ?……え?」
ところでこれは、名無星がくぽにとっても意想外の指摘であった。花色の瞳を見開き、やはり高速でシミュレーションを展開し、愕然と固まる。
【がくぽ】の処理能力であれば、本来、そうまでする必要はない――が、つい、やった程度には意想外だったということだ。
そして明夜星カイトといえば、名無星カイトの質問の意味も意図もまったく理解しておらず、シミュレーションを終えた恋人から懇切丁寧な説明を受け、そこでようやく顔を青褪めさせた。
おとうとの置かれた状況が、予想以上にハードであったことを理解したからだ。
『なにも言わない』と約束はしたし、大事なことであると理解もしているから撤回もできないが、だとしてもだ。
自分が先にカイカイ曲への道を開き、それで恋人が追加案を出し、結果、おとうとの提案に至ったことを考えると、まさに明夜星カイトこそがおとうとを困難な道へ突き落した犯人であるとも言える。
いや、『とも言える』ではない。『まさにそう』だ。まさかもとさか、なんということだろう!
だからといって、ならばせめてがくカイ曲だけでもおとうとに楽をさせてやりたいとは、言えない。それもまた、言えない。
口出ししないという約束に反するからではない(この曲に関してはぎりぎり、約束に掠らないはずだ)。
しかし言えば名無星カイトが、――『憧れのカイトさん』に、割りを食ってくれと言うも同じこととなる。状況を見るだに、すでに結構めにあれこれいろいろと、割りを食わせているような気しかしないというのに!
そういったふうに、どうしようとおろつく兄に対し、おとうとのほうだ。ここまでさんざんにごねてきた、あまえんぼうのわがまま王子である。
少し考えたあと、ふいに肩から力を抜いた。目を閉じると、名無星カイトの膝に擦りつく。こころえて撫でてくれる手の心地よさに浸りながら、あっさり、言った。
「うん。あんたとだったら、別にどっちでもいい」
――信頼感というのだ。この信頼感だ。見よ。ロイドでありながら、ことに精神バランスが難しいと言われる【がくぽ】でありながら、<マスター>に関わる不安ですら払拭するほどの、もはや盤石も超えて、喩えようもないほどの!
名無星がくぽにとって兄とは、あくまでもKAITOころりであり、KAITOキラー、対KAITO最終兵器という認識であった。ほかのロイド――たとえば自分も含めた【がくぽ】などには、そうまでの効果を及ぼしていないと。
もとより同じラボ出身のボーカロイドたちには『兄』として慕われてもいたが、ここに関してはほかのKAITOも同様だ。特に抜きん出たものではなかったと認識していた。ましてや、違うラボ出身のロイドともなれば――
だが、明夜星がくぽだ。恋人のおとうとだ。
名無星がくぽの恋人はKAITOであるが、おとうとはKAITOではない。名無星がくぽと同じ、【がくぽ】だ。
それで、この懐きようだ。この信頼ぶりはなんなのか。この信頼の置き方は、まるで兄にコロがされたKAITOと同じか、より以上ですらあるような。
『より以上』とはなんだ――兄はまったくもって手に負えない、始末の悪いKAITOころりのKAITOキラーであるというのに、さらに『より以上』であると?
名無星がくぽにとって、兄と明夜星がくぽとの関係は未だ不明だ。未知数だ。さっぱりわかる気がしない(実のところこれには、『わかりたくない』が多分に含まれている。が、名無星がくぽの自覚するところではないため、表現は『わかる気がしない』に止まる)。
先から若干、兄がやらかしてはいるものの、少なくともここまで観察したところの判断としては、ふたりはいわゆる『深い仲』ではない。
そう判断したが、しかしそもそも、『深い仲』とはなにか?
いったいなにをもって深い浅いと判断するのか?
体を重ねたかどうかだけが、深度判断の物差しなのか。それはずいぶんと、浅い物差しではないのか――
さて、そんなおとうとの動揺をよそに、いわば盤石たる信頼を預けられた名無星カイトである。
自身のKAITOころりかつKAITOキラーという、ある種致命的なスキルをまったく認めない、認知も認識もしない名無星がくぽの兄である。
その、明夜星がくぽの信頼に、名無星カイトはいったいどう、答えたか?
「おまえがいいなら、俺もいい」
まったく臆することなく受けて、返し、微笑む。
「いいけど、まあ……どっちがどっち担当するかは、俺たちで決めるんじゃなく、マスターたちに決めさせよう」
――ここから先はのちに明夜星カイトが語ったことであるので、話半分程度に聞いていただいて構わない(なぜなら明夜星カイトもKAITOであり、類例に漏れず、名無星カイトに関しては少々、理性や正気が危ぶまれるからだ)。
それで、明夜星カイト、語って曰くである。
このとき名無星カイトが浮かべていた笑みは、まさに天上の神そのものに慈愛に溢れ、清廉で潔白、気高くうつくしいものであり、同時に、地底の最下層に棲まう悪魔であっても震え上がるほど、邪悪にして妖艶であったという。