恋より遠く、愛に近い-第28話-
「うんうんうん、ちょっと待ってちょーーーっと待って待ってね、カイト、がっくんもっ?!」
うちの子カイトの笑みがどういった種類のものであったとしてもだ、それどころではないのが出宵だ。曲をつくる側だ。
一般的な現代曲の仕様が一曲およそ五分弱としても、それは聴く側の時間だ。つくる側が費やす時間は、倍では済まない。この乖離幅は、ほとんど異次元の領域と言っていい。
個人差の激しい分野であるため一概にこうとは言えないが、少なくとも出宵は作詞作曲、基本となる譜面を起こすだけで一週間は費やす。その基本の譜面をもとにパート譜を起こし、音を入れてみてからの調整があり、――
ほかの仕事との兼ね合いもある。ロイドたちがやる気になってくれるのはいいことだが、そんなに曲数を増やされても、うれしいを通り越した本気の悲鳴が出る。それものどを絞り上げられ、まともに声も出ないという種類の悲鳴だ。
「言ってもそんな、六曲とか!三曲三曲六曲って、いっぺんに?!」
「そうだな。しかもそのうち二曲はどうなるかわからないしな」
「んなにぃっ?!」
焦る出宵に対し冷静に、冷静さをさらに削ぐようなことを差し挟んだのはうちの子カイトだ。
目を剥いた出宵のみならず、ロイドたちですら意味がわからないと困惑の目を向けたが、名無星カイトが臆することはなかった。非常に淡々と、至極端然と説く。
「カイカイ曲は明夜星甲斐がつくるが、それをもとに明夜星カイトが俺を口説き落とせなければ、お蔵入りになるからな。がくカイ曲にしても、そうだ。あっちの分はどうか知らないが、俺とこいつがうたう分は、あくまでもこいつが『がんばった』ことへのご褒美だろ。がんばらなかったら当然、ご褒美はなくなるから」
「あっ……っ?!」
「あー……」
言葉にもならない声を上げたのは明夜星家のきょうだいであり、名無星がくぽは渋面となって眉間を押さえた。
「すべて兄絡みではないか……」
――これ自体は実のところ、名無星家にとっては馴染みの問題であった。
マスター:出宵もトラブルメーカではある。が、出宵の場合はある程度作為的であるため、防ごうと思えば(『ある程度』の作為的部分に当たる)半分程度は防げる。
が、名無星カイトだ。KAITOころりのKAITOキラーだ。冠に『無自覚天然』がつく。
これは天災同義であり、どこでどう発生するかがほとんど読めない。
ために、防ぎようもない。
なにしろころりとキラれるKAITOがまず、発想が飛んでいて思考が読めないと総評される機種である。どこでどう名無星カイトに関わり、なにをどう思って動くものか、ほんとうに読めない。
ゆえに『兄絡み』でなにかしら頭の痛い問題が起こること自体は、名無星家の日常であった(日常ではあるが、馴れて対処も楽になるということがいっさいないだけだ。とにかく頭が痛い)。
家族を項垂れさせてもまるで堪えた様子もない名無星カイトを、明夜星がくぽが胡乱に見上げた。
「今の流れで、まだそれ言うの?それは、言いだしたのは兄さんだけど…兄さんがあんたを口説く意味とか、あるの?どうせあんた、兄さんが少し強請ったら『かわいいなおまえ』とかでれでれ言って、あっさり受けるんでしょうに」
「えぇえっ?!」
――明夜星がくぽの『推理』に驚いたのは、明夜星カイト、当事者ただひとりだけであった。
まさかそんな簡単な話であるわけがないと、明夜星カイトは思っていた。それでは名無星カイトがまるで考えなしの、軽薄な、ナンパ師ではないか。ましてや『でれでれ』など!
おとうとの評は今回もまた、兄贔屓が過ぎた挙句に歪んでいると――
「まあ、そうだけど……それはそれの、これはこれだろ」
「えぇえっ!!」
兄贔屓などではなく、まさかだった。まさかさかさまだ。逆から読んでもまさかさかさまだ。なんたることか!
――驚きが過ぎて思考が逸れた明夜星カイト(KAITOである。あるあるである)の隣に座る恋人、名無星がくぽといえば当然、兄のこの答えを予想していた。
これまでの流れを見れば、むしろこれ以外になんの答えがあるという話だ。新鮮に驚ける明夜星カイトの純情ぶりこそ、ほんとうに無垢で、愛らしい。和むどころでなく、昇天ものに癒されるではないか(そう、今、あなたが予想した通りだ。あなたのその予想は正しい。疲労蓄積により許容限界を超え、名無星がくぽは処理を投げて逃避に走った)。
ところで出宵はどうしているかといえば、うちの子カイトの絶望の宣告にちょっと、頭が真っ白になっていた。
これでもし、うちの子カイトと明夜星がくぽとのがくカイ曲も、カイトラこと、明夜星甲斐が担当することになればだ。
二曲、無駄にさせる可能性が出るということだ。
二曲だ。三曲中二曲が、甲斐もなくゴミ箱行きだ。『甲斐なのに、甲斐がないとはこれ如何に』などと洒落たが最後、友情もろともに人生が終わる気しかしない――
さて、純情無垢さとは程遠く、らしからずらしからぬと常々言われるKAITO、名無星カイトといえば、悪びれることもなく明夜星がくぽを見返した。
「だってせっかく、かわいく口説いてくれるって言うんだぞ?滅多にないことなんだし、どうせなら口説かれてみたいだろ」
「『滅多にない』ぃ………?」
これだからこの兄はと、壮絶に顔を歪めて毒づいたのは名無星がくぽである(が、隣に恋人もいる。兄のそばにはウマの骨改めナイトもいる。慮って非常に小さな声であったため、誰の注目も呼ばなかった)。
なにより今は、明夜星カイトだ。
「かゎっ!『かわいく』は、いってないっ?!ませんっ?!」
自分で言いだしたことではあれ、なにかの無茶ぶりが上乗せされる予感に、珍しくも明夜星カイトは即座に反応した。隣でそっぽを向いた恋人が毒づくのとほぼ同時程度に、ソファから腰を浮かせてあぶおぶと叫ぶ。
無駄である。なぜなら相手は名無星カイトだからである。
明夜星がくぽから視線を流した名無星カイトは間髪入れず、ただ端然と返した。
「心配するな。おまえはかわいいから、真剣に口説けばそれだけでかわいい」
「かゎっ……っ!!」
「兄よ……っ」
真っ赤に染まり上がって言葉を失った明夜星カイトの隣には、おとうとが座っている。明夜星カイトへ目を向ければ、どうしても視界にいっしょに入る。
結構めに壮絶な恨めしい目を向けられ、名無星カイトはなんの気なしを装って顔を逸らした。膝に懐く明夜星がくぽへ戻る。
こちらもこちらであたたかな目とはいかなかったが、おとうとに比べればまったくましだ。喩えるならドーベルマンの睨みと、ころもこ毛玉ボール期のこいぬの睨みだ。ほんとうにかわいらしくて、胸がきゅうきゅうとする。
自然、微笑んだ名無星カイトだが、この状況であると悪びれもしない、性質の悪いとも映る。もちろん本人の預かり知ることではないし、笑みを向けられた明夜星がくぽだ。
「あんたは、ほんとに、……」
呆れたようにつぶやいて、名無星カイトの腹にぼすんと顔を埋めた。ぐりぐりと擦りついてから、あやすとも、止めようとも取れる手を頭に置いた名無星カイトへ再び顔を向ける。ふっと、眉をひそめた。
「まあ、兄さんはかわいいから仕方ないし、もう勝利は見えてるってものだけど…あのさ、先に言っておくよ?だとしても途中でいやだと思ったら、ほんとにいやになったら、僕は止めるからね?無理して続けるとか、ほんとないから」
「ぇええぇえっ、がっくんっ!」
叫んだのは、出宵だ。うちの子カイトの通告も絶望的だったが、こちらはより以上だった。下手をすれば明夜星がくぽが関わる予定の三曲すべて、ゴミ箱行きとなる可能性が出てまいりました(ほんとうに参る話ではある。だからといって文末はそれと掛けた洒落ではない。この状況でそんな余裕はいっさいない)。
一方、本来的に訴えられたほうだ。名無星カイトだ。
渋面となるだけでなく、身も固めて強硬に言い張る明夜星がくぽに、ごく不思議そうに首を傾げた。
「それは当然だろ?ラクをしろとも言わないけど、ムリしろとも俺は言わないぞ?おまえを壊したいわけじゃないんだから…そんなの、おまえのマスターだって兄だって、おんなしだろ?」
「カイトぉおおおおっ!!」
――それは出宵も言わない。無理をしろとは言わない。
言わないが、しかしだ。やると決めたらやってほしいし、無理だと思うなら先に言ってほしい。曲をつくる前にだ。
始まってから途中で投げる宣言はもう、最悪以外のなにものでもない。
諸々あって沸点が低くなっている出宵のことは、名無星カイトも明夜星がくぽもあっさり無視した。またもや恋人同士に見習わせたいほど美事にふたりきりの世界に入りこむと、互いだけを映し合う。
「じゃなくてさ。それでもあんた、うたってくれる?――っていうこと。僕に『ご褒美』、くれるのって」
「ん?ああ…」
明夜星がくぽが訴えたいことの主眼がわかり、名無星カイトは少し、考えた。
その間にも、明夜星がくぽはわざわざ小首を傾げて上目遣いとなり、ことさらかわいこぶって名無星カイトを覗きこむ。
「だめなの?僕にはくれない?あんたったら兄さんばっかり甘やかして、僕のことは甘やかしてくれないわけ?」
――よく言うという話である。
そもそも『兄さん』こと明夜星カイトと名無星カイトの付き合いは非常に浅く、『兄さんばっかり甘やかして』と言われるほど、甘やかした覚えはない。
対して、明夜星がくぽである。付き合いとしてはここ最近のひと月ほどであり、時間の浅さにおいてはその兄と大差ないとも言えるが、密度が違う。
そもそも明夜星がくぽが『兄の代わりに甘やかせ』と、捻じこんできて始まった関係だ。『甘やかしてばかり』と言われるなら明夜星がくぽのほうであるし、けれど、そうだ。
甘やかしてほしくて来る明夜星がくぽと、甘やかすために受け入れる名無星カイトと――
ふっと笑い、名無星カイトは明夜星がくぽの髪をひと房取った。笑うくちびるに当て、さも愛おしげにあまえんぼうのわがまま王子を見下ろす。
「『がんばったら』な?言ってるだろ、そうに…。そもそもなんでもいいからやるんじゃ、『ご褒美』にならないだろ」
「ええ………っ」
名無星カイトの言うことこそまっとうというものだが、あまえんぼうのわがまま王子はあからさまに渋面となった。軽く身を引き(しかしこれは名無星カイトが掴んでいた髪のひと房、その掴んだ場所が案外顔の近くであり、明夜星がくぽが意図したほど距離は稼げなかった)、いかにも不満げに名無星カイトを睨む。
「だから僕は無理しないからねって言って、あんただって無理しなくていいって言ったのに」
恨みがましくこぼされた言葉にも、名無星カイトが揺らぐことはなかった。薄く笑ったまま、ちょこりと首を傾げてみせる。
「『だから』ムリはしなくていい。ただご褒美は、あくまでも『がんばったら』ってだけだ」
「だから…っ」
どうにも話が平行線のまま、交差しそうにない気配に、明夜星がくぽが引いた身を戻す。
勢いよく迫るあまえんぼうのわがまま王子だが、所詮『あまえんぼうのわがまま王子』だ。おそるるに足らない。名無星カイトの敵ではない――
名無星カイトは逃げるそぶりもなく、むしろ歓び迎えるかのように、掴んでいた髪を放して明夜星がくぽの頬へ手をやった。
無防備に寄せられたそこをやわらかな手つきで撫で、顎へと辿り、――逃げられないようきつく掴んで固定すると、間近でくちびるを裂く。
それは笑みだ。満面の。
「だれが、『完遂したら』なんて言った?俺は『がんばったら』としか言ってないはずだぞ。『ムリしたら』とも言ってないな?『ムリするな』、『がんばったら』――おまえよくひとの話をすっ飛ばすけど、さすがにこれだけ言い聞かせたら、ちゃんと理解するよな?」
「…っ!」
本性を見せた悪魔のような笑みとともに説かれ、明夜星がくぽははっと、花色の瞳を見張った。
言いきった名無星カイトの表情からはすぐ、笑みが消える。いつもの、端然として考えの読み難い風情に戻り、それでなぜか、どこか呆れたように続けた。
「おまえの自己申告でいいんだよ、そんなの。完遂しようが途中でめげようが、おまえがそう言えば――俺に面と向かってそう強請れた以上、おまえはほんとにちゃんとがんばったんだから」
この名無星カイトの結論に、返す信頼に、明夜星がくぽはどう答えたか?
「甘やかし過ぎだ、兄よ…」
――訂正する。明夜星がくぽより先に、堪えきれなかった名無星がくぽが答えていた。