恋より遠く、愛に近い-第29話-
ちょっと恋人同士に見習わせたいほど、あるいは反面教師とさせたいほど、美事なまでのふたりきりの世界をつくり上げている名無星カイトと明夜星がくぽである(念のため一応補記すれば、このふたりはそういった仲ではない。だというのにこうなのである)。
恋人と並んで座る名無星がくぽは若干以上に引きながらそんなふたりを見ていたわけだが、うっかりしっかり話についていっていたものだから、ここで蛮勇を振り絞らねばならない羽目に陥った。
だから、兄である。
兄の、明夜星がくぽへの態度である。
もとより名無星がくぽにとっては問題しかない兄であったが、それにしてもだ。
これまでその大半は兄がKAITOころりかKAITOキラーであることに由来する、KAITOを相手にしたときに顕著な話だった(それ以外にもあれこれあるにしろ、問題の根幹はここだ)。
だがしかしである。かかしである。もとい、ここに来ての明夜星がくぽである――
明夜星がくぽへの、兄の態度だ。
互いに互いへの態度や仕様が好き放題に過ぎて、もはやツッコミどころしかなくなっているので逆になにもツッコめない状況ではあるのだが、しかしだ。
だがしかしのがしかしで結論かかしである。
「いくらどうでも甘やかし過ぎだ、兄よ!」
大事なことであるので、名無星がくぽは二度言った。いや、叫んだ。
対する兄である。名無星カイトである。このところ明夜星がくぽだの明夜星カイトだの、生温いのばかり相手にしていて、それはそれでほっこり和んだりはするのだが、少しばかり毒が溜まっていた名無星カイト、名無星がくぽと日常で正面からやり合い、概ねなんだか勝利を治める兄である。
名無星がくぽの叫びにぴくりと身を揺らした明夜星がくぽが動くより早く、名無星カイトは動いた。これ見よがしに明夜星がくぽの頭を胸へと抱きこみ、嗤う。
そう、嗤いだ――喩えるなら、ねずみやうさぎといった獲物を見つけた瞬間の、猛禽の。
そうなると名無星がくぽはねずみかうさぎなのかという話になるし、そんなガラかという話にもなるわけだが、そうだ。
この笑みの兄の前では、名無星がくぽなど愛らしいばかりの小動物、喰い裂かれまいと逃げ惑うのがせいぜいの、こねずみかこうさぎでしかない――
心底からぞっとした名無星がくぽは、金縛りにあったように動けなくなった。
おとうとの心胆を寒からしめておいて、名無星カイトは悠然と嗤うくちびるを開く。
「そうだぞ?おまえちょっと、馬力入れろよ……こいつはほんと、俺が腕によりをかけて甘やかしてる相手だからな。自分から言いだしたんだし、まさかこいつより先に音を上げたりできると思うなよ?」
「……っ」
束の間、動けなくなったりしたりした名無星がくぽだが、この挑発にはぐぎぎぎと奥歯を軋らせた。
みえみえの、安い挑発だとは思う。思うがしかしだ。
瞬間的に、あるいは反射的になにかが噴き出しかけた名無星がくぽだが、そう、『かけた』だ。未遂で終わった。
なぜか。
「ぁ、あの、あのっ………あのっ」
「……っ!」
――隣に座る恋人、明夜星カイトにこれ以上なく愛らしく、袖を引かれたからである。正確には袖というか、肩口のところの服地をつまんで引かれたわけだが、とにかくだ。
ちょむちょむちょむちょむと、遠慮がちながらも懸命に引いて呼ぶ恋人に、名無星がくぽは剥き出しかけた牙を慌ててしまった。
牙をしまうのみならずひつじの皮もかぶり、恋人と目を合わせる(この間、一秒ほどである)。
明夜星カイトははくはくあくあくと、無為にくちびるを空転させていた。うまく言葉にならない――できない――し難い。
「カイト」
これで同一人物かと、逆にサムいわと明夜星がくぽが遠目でしらけていたりしたりしたのだが、激しく逡巡する恋人に対する名無星がくぽの声は(兄に対したときとまったく違って)落ち着いて深く、やわらかにあたたかかった。
それに力を得たのか、明夜星カイトがきゅっと顔を上げる。
「ぁ、ぁのっ………ょろしく、ぉねが、ますっ!」
「…あ?」
それでなんだかお願いされたわけであるが、いったいなにをお願いされたのか――
束の間きょとんとしてから、名無星がくぽの顔は情けなく歪んだ。慌ててかぶったひつじの皮がずるずるだらだらと落ちて、それでもそこに牙持つ獣はいない。いや、牙を持っていても使い方を知らず、ひたすら気弱におとなしい。
「あー………」
「えとっ、ぁのあの……っ、ねがぃ、ますっ」
大事なことであるので二回くり返し、明夜星カイトは名無星がくぽの袖もとい肩口に縋りついたまま、ぺこんと頭を下げる。
しかして相変わらず主語はない。いったいなにがそう大事で、くり返してお願いするのかという話であるが、とはいえ話の流れだ。
つまり、明夜星がくぽである。
腕によりをかけて甘やかしていると、名無星カイトが悪びれもせず宣言した相手である。
よく考えれば――まったく考えるまでもなく、そもそも明夜星がくぽがあまえんぼうのわがまま王子となるまで甘やかし、わがまま放題させてきた大元締め、元凶といえばその兄、明夜星カイトであった(ちなみにマスター:明夜星甲斐も元凶の一端ではあるが、『大元締め』とまでなると明夜星カイトである)。
その明夜星カイトといえば、先にした約束がある。『がくがく』のことに関して、自分は口を挟まないという。
それもあったからためらい、こうまで口ごもったわけであるが――
いくら明夜星カイトであっても恋人を相手に、ただ無闇とおとうとを甘やかしてやってくれとまでは、願わない。願えない。
なぜか『憧れのカイトさん』が、まさか『腕によりをかけて』レベルでおとうとを甘やかしていたらしいと知りはしたが、それはそれのこれはこれだ。
恋人に対し、おとうとなんだから兄に倣えというのは少し――おおいに問題が違う。
そこの区別はしっかりついているので、まさか恋人を相手にうちのおとうとのことを甘やかしてくださいとは言えないわけだが、だからといってスパルタでお願いします!は、もっと言えない。
というか、こちらはなにがあっても絶対に言えない(『甘やかしてください』は実は、油断すると言いそうである。なにしろ恋人は、少なくとも明夜星カイトに対しては甘やかしたがりだし、元来は万事甘やかす側に立つことを好むからだ)。
そうやって『言えない』が積もり積もってのどに痞えた明夜星カイトが結局言えたことが、『お願いします』のみであったという。
甘やかしてくださいでもなく、スパルタにしてくださいでもなく、ふつうに仲良くしてくださいでもなく――
とりあえずだ。
とりあえず、すべてなにもかもを含みながら、なんとなくすべてから焦点がぼかされてずれた、『お願いします』。
もちろん、察しの良い恋人はそういった明夜星カイトの逡巡を察したし、言わないけれども油断すると言いそうな『甘やかしてください』の声も、(明夜星カイトが懸命に自制しているというのに)受け取った。
結果としての、牙のふやけた反応だ。
が。
「………なんだか微妙に心外な気がするのは、なんで」
ぼそりとつぶやいたのは、明夜星がくぽだった。『微妙に~気がする』らしい、冴えない表情と声音でだ。
未だ胸に抱えこんだままだった名無星カイトが腕を緩め、そんな明夜星がくぽを覗きこむ。
「なんだ?俺に甘やかされるの、飽きたか?」
――それは普段と変わらず、どこか端然と感情を置き去りにした言い方であり、声音であり、表情だった。どう答えたところで、微動だにさせることも難しそうな。
問われた明夜星がくぽといえば、それに軽く、眉を跳ね上げた。それこそはっきり『心外』という顔つきとなり、名無星カイトを睨みつける。
「なに言ってんの、あんたは?ボケるのも大概にして。そこは『俺の甘やかし方じゃ足らないか?』でしょ。飽きるほど甘やかされた覚えはまったくないからね、僕は!」
「ああ………」
つけつけと吐きだした明夜星がくぽに、名無星カイトは腕をさらに緩め、少しばかり仰け反った。
「そっちか」
「いいけどね。仕方ないし。まったくもってあんたはほんと、KAITOなんだから」
ぶつくさと腐しながら、明夜星がくぽは名無星カイトの腹にもふんと顔を埋める。ぐりぐりぐりと擦りつきながら、ごく近くにいる名無星カイトであるからこそ聞こえる程度の声で、つぶやいた。
「だからっていってあんたがぜんぜん努力してないとか、がんばってないとは言ってないけど…あんたはヘンなこと考えたりしないで、僕のことめいっぱい甘やかしていいんだよ」
――だからどこから目線のなにさまであるのか、明夜星がくぽは(くり返しのくり返しだが、そういうわけで第14話と第26話を参照されたい。明夜星がくぽは『兄さんのおとうとさま』である。それがどういう意味かはともかく)。
まったくもってすべてがすべて意味不明を極める明夜星がくぽの発言であったが、しかし明夜星がくぽなのである。
名無星カイトにとり、明夜星がくぽとはまさに、意味不明を成型して服を着せたものであった。
だから、――
「………よしよし」
「うん。良し」
ふっと笑みこぼれて頭を撫でた名無星カイトを、明夜星がくぽはやはり、とても尊大な態度で容れた。とても不遜な態度ではあったが、容れて、そして肩の力を抜き、さらに懐いた。
「だから甘やかし過ぎだと、兄………」
名無星がくぽは本格的となってきた頭痛を堪えるように眉間を抑え、つぶやいた。これで三度目である。大事なことは二度だが、三度目ともなれば真実だ。
自分の恋人に対する態度は棚に上げ――いやしかし、名無星がくぽが相手を甘やかす理由は、万人に明白のことだ。万人が納得するかはまた別のこととしても、説明は単純に済む。恋人だからだ。
対して兄、名無星カイトはどうか。いったいどう理由をつけ、他人様のおとうとをそうも甘やかすことの説明をしてのけるのか――
そう、他人様のおとうとなんである。どちらさまのといって、明夜星カイトの。
「ぅ、ぅくぅううううっ………っ!まけ、まけない………っんばり、ます……っ、おれ、おれも、おれもがんばる……っ、がんばるります………っぅうううっ」
「ぁああ………っ」
いわば『見せつけられ』ている形となる明夜星カイトは、今や完全に恋人の肩に顔を埋めていた。
そもそもここ最近、明夜星カイトはどうにもおとうとからの他人行儀な態度に悩んでいた。これを簡潔に言うなら、甘やかし不足で欲求不満だったのである。
欲求不満だったところに、どうやら『理想のすてきなおにぃさん』に鞍替えされたらしいという(誤解だが、突き詰めて考えると誤解でもない)事実の判明と、そして実際に見せつけられるこの有り様である。
肩口をつまんでいた明夜星カイトの指は、今や過ぎる力でぷるぷるわなわなと震えながら、懸命に恋人に縋っていた。
滅多にないことだが、嫉妬で悶え回りたいほどの状態であるらしい(ところでこの『滅多にない』というのは、実は意味をふたつ持つ。ひとつは万事鷹揚な明夜星カイトにとり、滅多にないほどの激情であるということだ。そしてもうひとつといえば、KAITOころりでKAITOキラーである名無星カイトに対し、KAITOが『こう』いった感情を向けることの稀少性である)。
「ぁのあのっ、ほんと、ぉねが、ます……っ、ぅううっ!おれ、ぉれも、がんばるまするのでっ……っ!」
「ほんっとーーーーーう…に……まことにもって、うちの兄が、大変、失礼を……っ」
他人様の兄にああまで甘えきっているおとうとと、他人様のおとうとをああまで甘やかしきっている兄と――
『そう』いう事態を招いた遠因はつまりこの、今、縋り合って頭を抱える(あるいは悶える)恋人同士にあったりしたりするわけだが、しかしだからといってどうしてこうなったというのがうすうす事情を察している名無星がくぽの感想であるし、明夜星カイトに至っては、まったくいっさい、事情が不明だ。
「なんだか修羅場だな」
どうにも情緒不安定が量産されているようだと、まったくもって他人事の扱いで名無星カイトがつぶやく。
受けて、ソファへちらりと視線をやった明夜星がくぽは美貌を無為と、眉間に容赦なくしわを刻んだ。
「やっぱりどうしても微妙に心外な気がする……」
つぶやいてから、明夜星がくぽはことさらな上目となった。
どうしてことさらレベルでそうなったかといえば、懐いたままの名無星カイトの太腿から顔を上げようとしなかったからである。
別にやわらかくもないし、ことにいい香りがするということでもないのだが、明夜星がくぽは名無星カイトの太腿の感触が気に入っていた(念のため補記するが、スラックス越しもといズボン越し、あるいはパンツ越しであり、服地を挟んでのものであって、生肌の感触はない)。
「ねえ、そういうわけだから、もうやめてもいい?」
――なにからどう繋がって『そういうわけ』に辿りついたのか。そもそもそういうわけとはどういうわけであるのか。
意味不明も極まるとはまさにこのことだったが、名無星カイトが動揺を示すことはなかった。いや、軽く眉を跳ね上げはした。
が、それだけだ。
あとはもう、いつもの端然として感情の読み難い表情で、首を振った。当然ながら、横だ。当然ながら横、否定であり拒絶であるのだが、その理由だ。
「マスターが歓ぶだろ。さすがにまだだめだ」
「え?」
いくら明夜星がくぽだとて、今の段階でこの提案が呑まれるとは思っていない。きっと却下されるだろうとわかっているうえでの戯れ言だが、想定通りの却下と、返ってきたその理由だ。理由のほうだ。
明夜星がくぽはきょとんと、あまりに素直に花色の瞳を瞬かせ、顔を上げた。名無星カイトを見て、彼言うところの『マスター』、ソファのさらに奥手でぺたんと床に直座りしている出宵へ視線を回す。
きらきらしていた。
――まあ、なんというか、きらきらしていた。
若干、身も乗りだし気味で、とにかく、きらきらとして明夜星がくぽを見ていた。
「ああ……」
なるほどと頷き、明夜星がくぽはまた、名無星カイトの太腿にことりと頭を落とした。頭が懐いたところで、こころえている手がやわらかに長い髪を梳いてくれる。
明夜星がくぽはますます心地よさげに、目を細めて懐いた。
眺める名無星カイトのくちびるも綻び、わずかに首を傾げ、――戻して、つぶやく。
「それに今の段階じゃ、いくらどうでもおまえだって『がんばった』なんて言えないだろ」
付け足しである。あからさまに、後付けで思いついた。
とはいえ微塵も付け入る隙を与えず、名無星カイトは端然と続けたものだ。
「とにかくまずは、マスターに曲をつくらせ………マスターのつくった曲を見て、それから考えても遅くないだろ」
「おそいっ!遅いよカイトっ!ぁひぃっ!がんばるりるますっ!!」
――だからつくったあとになっての、途中退場前提で話を進めるのはほんとうに止めていただきたい。
のだが、すっと投げられたうちの子カイトの視線にそれ以上の抗議を続けられず、出宵は涙目で宣誓に切り替えた。
先に、うちの子ったら言っていたではないか。
明夜星がくぽは今、腕によりをかけて甘やかしている相手であると。
カイトが――KAITOが腕によりをかけて甘やかすというのは【がくぽ】がそうするよりよほどに性質が悪いことになると、界隈ではもっぱら噂である。
そういうわけで(この『そういうわけで』は、先の明夜星がくぽの発言に勝るとも劣らない、発点不明の強引な話の切り替えである)、マスターたちがなんだか気軽にトライしてみようとした練習課題は、思うより規模を大きくして行われることと相成ったのであった。
幾多数多の不穏な気配と、いくつかの萌芽を孕みつつ。