恋より遠く、愛に近い-第26話-
「カイト、少し」
「あ、がく…」
おとうとを溺愛する兄として、咄嗟に助けようとは試みた。が、明夜星カイトの表情は冴えず、ためらいが濃かった。
ここまでの名無星カイトのおとうとへの対応を見て、明夜星カイトにも相応に閃くものがあったからだ。まだ、はっきりとはしない――
そう、閃きはある。が、なにをどうという、具体的なところにまで行かずもやついて、もどかしい。
それでつい、反射で助けようと声を上げてしまった。
上げてしまったが、ほんとうにそれでいいのかという迷いが拭えない。なぜならなにか、曖昧でも、閃くものがあった――
こちらこそ助け手が必要そうな、けれどこういったことではきっと決して助け手を求めようとはしないだろう恋人へ、名無星がくぽが向けたのはやわらかな笑みだった。
やわらかだが、嘆願を含んで翳る。恋人が助け手を求めていそうだと読み取れば読み取るほど、ますます翳って沈んでいく――それでも、笑み。
顔を向けた明夜星カイトは名無星がくぽの表情に、きゅっと口を噤んだ。そんな恋人へ、名無星がくぽは笑み同様、ゆるやかに口を開く。
「頼みがある。聞いてほしい」
言い方こそやわらかであったが、『聞いてくれるか』という質問形ではなく、『聞いてくれ』という言いきりだった。
兄を相手にはどうか知らないが、恋人たる明夜星カイトを相手には、そういった口の利き方をあまりしない恋人だ。
ここまでの流れもある。くっと、さらに緊張した明夜星カイトへ、名無星がくぽは一度、言葉を呑みこんだ。ためらい、呑みこんで、瞳を閉じる。
すぐに開くと、真摯に恋人を見つめた。
「おまえがおとうとを案じる気持ちを、ないがしろにするのではない。けれど、カイト――であればこそだ、カイト。どうかこの件に関しては、なにも言わないでほしい。是も非も、なにも」
「……え」
求められたことの意想外に、明夜星カイトはきょとんと瞳を瞬かせた。
ではなにを想定していたのかと訊かれると困るし、『口出しするな』と言われることをまったく想定していなかったのかと問われれば、それも違うのだが。
少し、説明が難しい感覚だ。説明が難しいといえば、名無星がくぽの言い方には『余計な口出しをするな』というのとは、また違うニュアンスがあるようにも感じられた。
ではなにかと問われれば、やはり答えられない、ゆえに難しい――そもそも些事を聞き分けるような明夜星カイト、KAITOではないのだ。ほぼ直感的に、そこまで察しただけでも快挙なのである(そもそもロイドであるため、まず直感のあるなしが問題となるのだが、この議論はくり返しであるため今回は置く)。
諸々相俟ってきょとんとし、理解が及んでいないとはっきりわかる恋人の無垢を、名無星がくぽはますます愛おしく眺めた。衆目であることも忘れて手が伸び、そんな明夜星カイトの頬をやわらかに撫でる。
「俺にしろ、おまえのおとうとにしろ、……おまえのことが、ほんとうに大事だ。とても愛おしい。であるがゆえに、逆に、俺もおまえのおとうとも、おまえが言ったことを叶えようとしてしまう。おまえが今回のことで是非を明らかとすれば、俺たちはそれに従おうとするだろう。たとえ自らの意に反そうと、――それは俺たちの弱さに起因することであって、決しておまえの責ではないが」
「え……」
――恋人に愛されていることなら、明夜星カイトもよくよく実感している。
おとうとに敬愛されていることも、明夜星カイトはちゃんと、知っている。
恋人とおとうと、ふたりが自分を『愛して』いて、大事にしてくれることに、疑いなどない。
ただ明夜星カイトのなかで、愛されていることと自分の影響力の強さというものは、うまく結びつくものではなかった。
確かにふたりとも自分の願いを叶えようとは動いてくれるが、きっと肝心のところではなにを言ったところで耳を貸すまいと――
なぜなら【がくぽ】だ。
旧型のKAITOとは情報処理の確度も精度も違うのだから、その『確信』は自分よりよほどに強く、譲れないはずなのだから。
「ちょっと。勝手にひとのこと、あんたとまとめないでほしいんだけど」
「ぁ…」
おとうとが上げたとげとげしい声で我に返った明夜星カイトだが、それで反射的に目を向けたおとうとだ。
兄を見ていなかった。ならばなにを見ていたのかといえば、『勝手にひとまとめにした』相手でもなく、強固に膝に抱える『盾』でもなく、あらぬ方だ。
逃げたのだ。
なぜといえば、名無星がくぽの言うことがまさに、的を射ればこそ――
「兄さんがなに言ったって、俺は兄さんをわるものにしたりなんか、しないから。兄さんをわるものにするようなこと、俺は絶対、しないったらしないんだから…あんたごときが勝手に『俺』を決めつけないでくれる?」
逃げて目を合わせられないくせに、口では強固に言い張る。いや、違う。逃げ腰ではあるが、きっとぎりぎりのところで踏み止まってくれているのだ。それが証拠に、膝の上の相手を抱く腕に力が入っていた。
名無星カイトに縋って、縋りつくことで、どうにか踏み止まってくれている。
縋らなければ逃げ出しそうだけれど、兄を大切に思えば逃げたくないから、たとえ格好がつかないとしても、無様と映っても、懸命に懸命に縋って、ぎりぎりのところで踏み止まっている――
「そうか。それは、悪かったな」
「がくぽ」
とげとげしく返したおとうとに対し、名無星がくぽの声には笑いがあった。嗤いではない。なにかがあたたかい、きっとカイトがおとうとに抱くのと同じような――
視線を戻した明夜星カイトを、名無星がくぽは声と同じ、あたたかな笑みで容れた。あたたかに、痛みを抱える。
「だとしてもだ、カイト――」
見つめる恋人から臆して逃げることはなく、名無星がくぽはやわらかに、しかし厳然と告げた。
「是も、非も――どうか、なにも言わないでくれ。おまえが言えば、俺たちは……俺は、自らを貫ききれん。おまえを拒んでまで貫く道理なぞあるものかと、すぐに折れてしまう。それこそがなにより、おまえを悲しませるとわかっていてもな。一時の感情に抗しきれん。俺たちの……俺の弱さを、赦して、容れてくれ、カイト」
「………」
子供っぽい反発心でひとまとめにするなと言ったおとうとをそれでも尊重し、恋人は慎重に言葉を選んで願いを締めた。
明夜星カイトは黙って瞬き、痛みを抱えてなおやわらかさを保つ恋人の笑みを眺める。
きれいな笑みだ。きれいで、かなしい。
どこか名無星カイトに通じるところもあって、けれど名無星カイトより、ひどく脆いと感じる。
ちょっと見ないほど、とても頼りがいのある恋人だ。機敏で、気が利いて、鷹揚で、やさしい。
――同時にまた、言うとおり、きっととても弱い。
その弱さを、明夜星カイトは知っている。知っていた。知って、愛した。
いつか自分にこの弱さを預けてくれたらいいと願って、愛したのだから。
だから、そう――
だから、そうなのかと。
ようやく及んだ理解に、明夜星カイトは改めておとうとへ首を巡らせた。
おとうとといえば、この『ちょっと』の間でさらに強固に防御態勢を固めており、名無星カイトの頭をほとんど自分の胸のなかに抱えこんでいた。
ずいぶん、無理な体勢だ。あれでは名無星カイトは周囲も満足に見られないし、声だとてうまく聞き取れないに違いない。これがくまのぬいぐるみでやっているならひたすら愛らしいだけで、こうもあれこれと気を回す必要もない光景なのだが。
思って、明夜星カイトは少し、おかしくなった。
相手がくまのぬいぐるみであるなら、おとうともあそこまで懸命に縋りつきはしなかっただろう。
ああまでするのは、名無星カイトだからだ。
機敏に空気を読むだけでなく、助け手というものをきちんと理解し、適切に伸ばしてやれる名無星カイトであればこそ、おとうともああも信頼して、無邪気に甘えきる――
そんなこと、自分にできるだろうかと、明夜星カイトの胸に不信が過った。
名無星カイトを見ていて、確かになにか閃いたというのに、止めようもなくいつもと同じに声を上げてしまった。
おとうとが困っていると思ったら、見ていられなかった。見ていられなくて、見ていたくなかったから、咄嗟に声を上げてしまった。答えられないおとうとに代わって、答えを差し出そうと。
それが明夜星カイトにとっての、『おにぃちゃんの役目』だからだ。
けれど、でも、――
「おまえなあ……カホゴなんだよ。ひとを修道女かなにかとカンチガイしてないか」
「あんたが修道女だったら、僕は一指だって触りやしないよ。髪の一筋だって触るもんか。そんな非道なこと、僕はやらないよ。やらないんだからね。まさかやるようなやつだと思われてたの?」
「あー…はいはい………よしよし」
懸命にもがいてどうにか顔を出した名無星カイトのぼやきに、明夜星がくぽはつけつけと返す。
ずいぶん失礼な態度だと思うのだが、名無星カイトは構う様子もない。ぼさぼさとなった髪をざっくり整えた手を返し、明夜星がくぽの頭をよしよしと撫でてやりまでした。
大人しく容れる明夜星がくぽを、瞳を細めて見て――
ふと、顔を向けた。
目が合った。
明夜星カイトと、名無星カイトと――
目が合って、名無星カイトは逃げなかった。
だからといって、特になにか、意見するわけでもない。ここまで結構めに饒舌だったというのに、悩める明夜星カイトのためには、ひと言も発してはくれなかった。
ただ、笑った。
明夜星カイトと目を合わせ、目が合ったと知って、一度、瞬いた。
瞬いてから、ふっと、笑った。
笑ってくれた。
小ばかにした笑みではない。嘲る笑みではない。侮る笑みでもなく――
笑みだけだ。
『なにも言わないでくれ』た。
「……んっ」
ことんと腑に落ちて、納得できて、明夜星カイトの表情は綻んだ。
笑ってくれた名無星カイトへ、明夜星カイトもまた、笑みを返す。笑みだけだ。ほんわりとした、春の陽だまりのような。
すぐにその笑みは恋人へ戻り、明夜星カイトは微笑む口の前に両手の人差し指でつくった『×』を宛がった。
「わかった。おれは、なんにもいわない。なんにもいわないから、がくぽとがくぽで、お話して決めて?」
笑みには翳りもなく、声は穏やかにまるんであたたかかった。
明夜星カイトがそう、本心から言ってくれているのだと、洞察力に優れるがゆえに疑い深い【がくぽ】であっても、いや、だからこそ、こころから安堵できる。
受けて、名無星がくぽの表情が緩む。再び明夜星カイトの頬に手が伸び、くちびるが――
「まあ、仕様がないね!」
「っ!」
「っっ」
――清々と吐きだされた明夜星がくぽの声で状況を取り戻し、つい、衆目を忘れ果てた恋人たちは慌てて体を離した(しかし人目を憚る恋人たちに対し、まったくそうではないはずのふたりが微妙に人目を憚る体勢のままであるのだが、いったいいつになれば、誰か、彼らを嗜めてくれるのだろうか)。
顔のみならず、肌という肌を真っ赤に染めて顔を逸らす恋人同士にまったく構う様子もなく、明夜星がくぽは椅子の上でふんぞり返る。
「話し合うなんて、面倒だし…カイトにも、ああまで言われたからね。仕様がない。聞いて上げるよ」
どこのどなたさまかというお偉い、ご立派な態度で了承を告げる(もしこれを問われた場合、明夜星がくぽは『兄さんのおとうとさまに決まってるでしょ』と、ごく当然の顔で即答して返すということは、第14話で述べた通りである)。
その膝に抱えられたままの名無星カイトといえば、わずかに胡乱な目となり、あまえんぼうのわがまま王子を不信に眺めた。
「おまえ……兄を相手にはわるものにしないとか、かっこよく言いきっておいて」
「なんで」
ぼそりとこぼされた抗議に、明夜星がくぽはむしろこころの底からという意想外を返した。
「僕が兄さんをわるものにしないのなんか、当たりまえでしょ。兄さんはわるものじゃないんだから。でもあんたは、僕と一蓮托生だもの。僕がわるいことするときは、あんたもわるものなんだよ。決まってるでしょ」
「っぇえ……がくぽっ……」
至極当然と、返す。至極当然だ。そこに疑いは、いっさいない。ほとんど無邪気に、あまりに無垢に――
慌てるのは明夜星カイトのほうだ。
そういえばほんとうに、おとうとと名無星カイトとはどういう関係なのだろうと、今さらながらに気になってきた。『こう』いったことがほんとうに赦される間柄であるのだろうかと。
今さらどころでなく、駆動系がすべてみしみしと軋むほどに兄と明夜星がくぽとの関係が気になる名無星がくぽといえば、とても言葉にし難い表情を晒していた(恋人がおとうとに注目しており、名無星がくぽを見ていなかったことはこの状況で唯一、幸いと言えることであった)。
名無星カイトといえば、きょとんと明夜星がくぽに見入った。束の間見入って、ふっと笑う。
笑って、明夜星がくぽへ手を伸ばした。手とともに、首も伸びる。
「っ、あに…っ!」
「ほぇ?」
――先のことがある。いつのことか不明であるなら、第21話を参照されたい。
情報処理能力に優れるがゆえに先読みに似た能力を発揮する【がくぽ】、名無星がくぽは、兄がやらかすことを事前に察知し、慌てて恋人へ手を伸ばした。
伸ばした手で、揺らぐ湖面の瞳を覆い隠す。
突然に襲い来た暗闇は、明夜星カイトが目を閉じるべきか開いておくべきか、決めかねている間に解かれた。
なにがなんだかわからず、首を傾げる明夜星カイトが見たのは、おとうとの首にしがみつくようにして大笑いしている名無星カイトと――
そんな名無星カイトを抱えこんで離すこともなく、けれど片手でくちびるをおさえ、どこかげんなりした顔を晒しているおとうとだった。