恋より遠く、愛に近い-第30話-
そういうわけであったのだが(これがいったいどういうわけであったものか、どうしても振り返りたいのであれば第4話から参照されよ。どうしてもではないなら第29話のみでもいいかと思われる。そこで多用された『そういうわけ』とこの『そういうわけ』は大筋、同じ用法であるからだ)、実際に企画が開始され、カイトやがくぽといったボーカロイドの出番となるまでには多少の月日を要した。
といってもおよそ、三か月ほどだが。
だいたいが、ほかの仕事との兼ね合いだ。どちらのマスターも、まさかこんなとんとん拍子に話が進むものとは思っていなかったし、こんなに曲数を増やされるものとも思っていなかった。
仕事と仕事の合間に一曲くらい、ちょっと手遊び程度でやってみようと、そういう――
いい方向への裏切りではあるのだが、こうなるともう、合間の手遊びなどとは言っていられない。本腰を入れてやる方向で調整に入り、概ねはその調整で先延ばしとなった(基本的にはスケジュールだ。ロイドたちから了承を得るのはもう少し難渋すると思っていたし、つまりもう少し日数がかかると思っていた。まさか一日で片がつくなど、意想外以上に異次元もいいところだ。挙句、合間の手遊びのつもりでもあったから、マスターたちはまったくスケジュールを考えていなかった)。
ちなみにその本腰とは、だからもはや『手遊び』という域ではなく、商用としてしまおうという。
これは後日になって話を聞いた明夜星甲斐の提案だった(一応報告しておけば、あの、第15話においてカンヅメとなっていた仕事はその翌々日になんとか無事に終わり、解放された甲斐はほんとうのおうちに帰ることができた)。提案というか、ほとんど確定事項としての発案だったが。
――そんなに曲数かくなら、もういっそ、ミニアルバム形式にしちゃおう!
そしてミニとはいえアルバム形式とするなら、せっかくなので四人で――名無星家のきょうだいと明夜星家のきょうだいと、四人そろってうたう曲も欲しいねと。
三曲三曲の六曲提案で青息吐息となっていた出宵に、さらに曲追加のお知らせが入ったわけである(もちろんこの時点では、この追加の曲をどちらがどうつくるかまでは決まっていないのだが)。
しかしこの『お知らせ』に関しては、出宵はごく平静に受け入れた。平静というか――まあ、平静である。
時間が経って、あの日の興奮が落ち着いていたからではない。
商用とすることが先に提案されていたからである。
商用、つまり収入だ。仕事の合間にちょっと遊びでやってみたというのとは違い、身を切った分、きちんと戻りがあるということである。
大丈夫、出宵はそういうところ、きっぱりと現金だ。
より正確に言えば、身を切った分の戻りを確保するためには相応の努力を要するのだが、そう、出宵はだから、隠しもせず衒いもなく、そういうところ、きっぱりと現金であった。
戻りがあるかもしれないのであれば、『かもしれない』の濃度を限りなく薄め、『戻りがある』へと転じるための努力をいっさい惜しまないし、苦にもしないのである。
ミニアルバム、商用とするのであれば、ただ入れ替えてうたいましたというだけでなく、全員でうたう曲も入れたほうが企画としてのまとまりが出るし、見場(あるいは聞きどころ)もつくりやすい。
そう、甲斐が言わなければいずれ出宵が言っていた程度のごく当然の帰結、基本的なお約束の踏襲でしかない提案でもあったので、出宵も平静に受け入れたわけである。
そういったふうにスケジュールを調整するだの曲をそろえるだのといったことをやっていたら、ロイドたちが譜面をもらい、実際にうた入れをするまでに、あの決定の日からおよそ三か月経っていたと――
ところで、ミニアルバム化するだの商用だのと、少しばかり方向性が変わったりしたりしたわけだが、マスターたちはそれで完全にロイドを置き去りとしたわけでもなかった。
たとえばうた入れの順番だ。これはあの日にロイドたちが話し合った通りとされた。まずは『がくがく曲』と『カイカイ曲』から馴らし、その後に関しては様子を見ながら進めるという。
「ここまでヤっておいてそこのとこだけ守られても、アガらないものはアガらないんだけどね!」
ごく冷たく吐きだしたのは、明夜星がくぽであった。
うた入れ初日、まずは軽く打ち合わせをして、余裕があれば声を合わせてみてという、その場だ。場所といえば、もはやすっかり馴染みとなった名無星家リビングである。
さて、以前に名無星家の間取りを紹介した際、リノベーションにより3LDKに変更したとまでは言った。それで、玄関を入ってすぐの二部屋がロイドたちへ各個人部屋として与えられたと(これに関しては概ね、第4話を参照されたい)。
では残りひと部屋はといえば、出宵の私室――
と言えないこともない、音楽機材を収めた簡易スタジオとなっている。
これには少々、事情があった。事情というか、要するに、出宵の計画が甘かったという話なのだが。
つまり当初予定では、玄関入ってすぐの二部屋のうち、片方の部屋をロイドきょうだい二人の部屋とし、もう片方の部屋を出宵の私室とするはずだった。
しかしてくり返してくり返し言うように、名無星家のロイドきょうだいの仲はちょっと、とても悪かった。
素晴らしく険悪だったのだ――ここに越してくる前、名無星がくぽが恋人と運命的な出会いを果たすまでは、特に。
同室になど、とてもできない。
確実にどちらか(いや、まず繊細でバランスの難しい【がくぽ】が)、精神崩壊を起こす。
だからといって音楽機材を置くためにもうひと部屋借りるだの買うだのというのは、現収入的に厳しい。
結果、出宵が私室を諦めた。
もとより、寝るだけの部屋だ。出宵の生活パターン的に、家にいて起きているとしてもだ、音楽機材をさわっているか、リビングやダイニングでロイドたちと絡んでいるかのどちらかでしかないのだから。
ちなみに寝るのはリビングだ。最前にもちらりと述べた(第20話だが、ほんとうにちらりであるため、参照する意味があるかは不明である)が、ベッドを兼ねる様式のソファであり、とはいえこれは毎朝毎晩組み換えるのが面倒となっていき、最終的に万年床化するとよく言われる。
もちろん出宵ひとりであれば早晩そうなったであろうが、さすがに少し後ろめたい気持ちのあるロイドたちが毎晩、どちらからともなくベッドメイクしてくれる。
出宵が起きたあとには(気がつくと)片づけもしていて、きちんとソファとしても機能している(ただしこちらに関しては、さっさと片づけないと二度寝三度寝してしまう出宵への対策というのが大きい)。
とにもかくにも、本格的に音を録るのであれば少し考えるが、今日のような内容であれば十分に機能するスタジオ(仮)があるのが名無星家であり、『がくがく曲』を担当するのは出宵であるので、こうして名無星家リビングに集合となったわけであるが、だからだ。
がくがく曲、名無星出宵指揮のもとうたう、名無星がくぽと明夜星がくぽの曲である。
明夜星がくぽとしては、そもそも名無星出宵が微妙に苦手なところにもってきて、いわば恋敵である名無星がくぽとの曲である――
これで『アゲアゲだぜぁYEAHHHHH☆☆☆』とかいうテンションで来られても、むしろ名無星がくぽが引く。ほんとどうしたらいいかわからない(きっと兄に泣きつく。恋人のほうではない。兄のほうだ。なぜか?――いや、なぜかと問われても…)。
それにしてもやはり、大人らしからぬ態度で堂々と言い放つ明夜星がくぽ、あまえんぼうのわがまま王子である。
この三か月、密接に付き合ってきたわけでもない名無星がくぽからすれば、やはりなにか、瞠目するところがある(まったく会っていないわけではないので、なんとなし、馴れもある)。
「とりあえずね、いよちゃん。まず、なんでアガらないのかっていうとこの、最たるとこを解決してくけど」
「ぉおおうっ?」
リビングへ入って来て、座るより先に『アガらない』を連発した明夜星がくぽはそのまま、きちんと機能しているソファに座っていた出宵へ譜面を突きつけた。
といってもすぐに下ろし、リビングテーブルに置く。
確か譜面はデータで(明夜星甲斐へ)渡したはずだが、きちんと紙に印刷されたそれには、ところどころに赤でペンが入れられていた。どうやらただ見るだけでなく、きっちりと読みこんだうえでメモまで書き入れてきたらしい。
まじめだ。
――あまえんぼうのわがまま王子である。しかしてこの几帳面さは確かに【がくぽ】に特有だ。
なんとなし、微妙に他人事で感心している名無星がくぽには構わず、明夜星がくぽはやはり座らないまま腰を屈め、テーブルに置いた譜面を指差した。
「これさ、ここと、ここ。この流れで、なんでコード進行、こうなの?Gmにしたほうがスムースだと思うんだけど。あとさ、ここの歌詞。ニホン語おかしくない?いくらメロディに合わせるっていっても、限度ってもんがあるでしょう。似たような意味の語彙をいくつかピックしてきたから、ちょっと考えて。あと…」
「ん、んわおぁわゎおうっ?!」
奇声を上げ、出宵は仰け反った。仰け反ってから同じほどの速さで身を乗り出し、譜面をがっしり掴む。持ち上げると、それで見えているのかと聞きたくなるような有り様で譜面に顔を埋めた。
「ぇええっと、ぇっと……っ……♪~、♪……で、♪~♪-♪だから……っ」
きょとんとしていた明夜星がくぽだが、出宵がこぼすつぶやきで、自分が書いてきたメモを読みこんでいるらしいと察した。
自分できちんと読んでくれるなら、逐一説明することもない。
事前に読みこんでメモを書いてきただけでも手間なのだし、挙句それを口頭でまで説明する義理は、出宵相手には未だ見出していない明夜星がくぽだ。
単純に手間が省けたと口を噤み、撓めていた腰を伸ばした明夜星がくぽへ、傍らに来た名無星がくぽがカップを差し出した。
中身はココアではない。コーヒーだ。砂糖もミルクもなしの、ただコーヒーという名のコーヒー、あるいはブラック。
嗜好確認はしていないが、同じ【がくぽ】である。そう、問題はないはずだ。
わずかに胡乱げな顔となった明夜星がくぽだが、よく考えても考えなくともここは相手の――名無星がくぽの『ホーム』であり、『来客』をもてなす『義務』がある。
「ありがと」
素っ気なく言って、大人しくカップを受け取った。
言っては難だが――
そもそも明夜星がくぽが礼を言うと思っていなかった名無星がくぽだ。たとえ素っ気なく、儀礼的なものでしかなくとも、礼を言われたということにごく単純に驚いた。
【がくぽ】にありがちなことではあるが、明夜星がくぽもまた、相手によっての態度の豹変が激しい。
兄(以上の存在)として慕う明夜星カイトや、なんだか意味不明な懐き方をしている名無星カイトがいるときにはまだいいが、そういった『緩衝材』がいないところでの名無星がくぽへの態度は、極悪となってもおかしくなかった。
なぜなら『名無星がくぽ』とは、明夜星がくぽにとって敵のはずだからだ。
敵であるというのにいけしゃあしゃあと今回の企画を持ちだしてきて、押し通した、殺してもころしても殺したりないほどの(第22話から第23話を参照していただければわかるが、持ちだしたとき、名無星がくぽの心中はまったく『いけしゃあしゃあ』から程遠い敗北感に塗れていたりしたりしたのだが、そんなことは明夜星がくぽの知るところではない)。
ゆえに礼どころか、受け取り拒否の可能性すら名無星がくぽは想定していた。それも聞くも無惨な毒舌とともにである。そうであっても容れる覚悟で、名無星がくぽはもてなしを差し出したのだ。
しかし今のところ、兄たちがいるときとそう、大差ない――
さて、なにからどう切り出したものかと案じつつ、名無星がくぽは眼下で(というのも結局、明夜星がくぽに合わせて名無星がくぽも立ったままであるからだ)うんうん唸りながら譜面に顔を埋めているマスターを見た。
すぐに傍らへ目をやると、軽く、首を傾げる。
「馴れているな?」
「ん?」
大人しく受け取るだけでなく、素直にコーヒーに口をつけていた明夜星がくぽが、聞き流しかけた問いにきょとんと瞳を瞬かせる。
少なくとも名無星がくぽの見立てではということだが、――
明夜星がくぽは今回の企画に相応に気負うものがあり、それで譜面に大量の注文書きをしてきたというわけではなさそうだった。
ただ日常として『そう』だから今回も『そう』してきたという。
自分の仕様への、疑問のなさが窺える。
非常に無邪気に瞳を瞬かせた明夜星がくぽといえば、ずずっとひと口、コーヒーを啜ってから、ごく不思議そうに出宵と名無星がくぽとを見比べた。
「でもあんたんちって、証拠の証拠探せとか、なんかいろいろ言うでしょう?なのに、譜面にはなんにも言わないわけ?」
その『証拠の証拠を探せ』というのは明らかにあからさまに兄の言いである(これをおとうとである名無星がくぽへ言うときには、証拠の証拠を探したあとには念書か血判かその両方かを取るまでが一連だこの甘ちゃんがと続いたりしたりするわけだが)。
「まったくなにも言わないとは言わないが……たとえば、確かにマスターは頻繁に日本語がおかしいからな。歌詞の、そういうところには口を出す」
「………ふぅん?」
カップに口をつけたまま、明夜星がくぽが興味もなさげに鼻を鳴らす。その意味を理解して、名無星がくぽはわずかにくちびるを緩めた(すぐ力を入れ直したため、一瞬、いかにも不自然に歪んだ)。
「兄もだ」
鳴らされた鼻の答えをやると、明夜星がくぽが視線を寄越したことを感じた。感じたレベルに止まるのは、名無星がくぽが無遠慮に見返すとか、まともに見合うようなまねをしなかったからだ。
視線はあくまでも譜面に埋まるマスターに固定して、名無星がくぽは肩を竦める。
「始める前にはあれこれ言うし、やるが、始まったらほとんど、口出しはしない。そこまでに潰せるものはすべて、潰しているはずだからな。曲のことまではあまり、あれこれ言わないというのが暗黙となっている」
「力尽きてんの?」
今度は間髪を入れず、即座に返ってきた問いは痛いほど的を射ていて、堪えても堪えきれるものではなく、名無星がくぽはくちびるを緩めた。
そういうところはある。
前哨戦の段階で、名無星家のロイドは大概、疲れきっている。よくもまあ、これだけ次から次へとろくでもないことを思いつけるものだと、自棄も半ばでマスターへ称賛の念を抱く程度には。
いや、それはがくぽのことであって、兄はほんとうに単純に、あまりなんでもかでも規制したところでマスターがろくでもなさを極めていくだけだから、どこかに逃げ道を残すことでガス抜きもしなければという――
感情表現の豊かなKAITOのはずだが、兄はそういうところ、端然と流す。そして端然と流せず、むしろ情のほうに流されるおとうとを見て、ツメが甘いと眉をひそめるのだ。
強い兄だ。ただ剛と強いのではなく、しなやかに、たおやかに強い――
「………兄とは最近、どうなのだ」
くちびるが緩み、釣られてきっと、こころまで緩んだのだ。緩んだこころに応じて、そもそも緩んでいたくちびるがぽろりとこぼした。
もう少し様子を見て、慎重に切り出そうと思っていたというのに――