恋より遠く、愛に近い-第31話-
名無星がくぽはあくまでも譜面に埋まるマスターを見ていて、明夜星がくぽを見ようとは決してしなかった。
対する、明夜星がくぽだ。こちらは好き勝手に、見たいときには見ていたし、見たくないときには見ていなかった。
それで、今だ。
なんだか非常に曖昧に、けれど深い場所に急に踏みこんで来た相手を、驚きも隠さず花色の瞳を丸くして見た。
見たが、名無星がくぽはある意味ひどく礼儀正しく、逆の意味では非常に失礼な態度で、頑として明夜星がくぽへ視線をやろうとはしなかった。ために、目が合うということはなかった。
「どうって」
ごく反射でつぶやいてから、明夜星がくぽは相手の視線がないのを幸いと、鼻の頭に思いきり皺を刻んだ。カップに口をつけ、ずずずとコーヒーを啜る。
啜ったコーヒーとともになにかを呑みこんでから、ひどく曖昧な声を返した。
「別に?あんたが知ってる通りだけど」
「………」
明夜星がくぽが意図したかしないか、名無星がくぽには読めなかった。
が、これは痛烈な皮肉だった。
手酷い喧嘩の回数こそ減ったものの、未だ打ち解けて話すには至らない名無星家のロイドきょうだいである。
だから名無星がくぽが兄と明夜星がくぽとの関係で知っていることなどほとんどなく、そのわずかな情報源すら、兄ではなく恋人という――
『知っている通り』とは、そらとぼけた口調を装いながら、抉ってくれるものである(とはいえ明夜星がくぽがそこまで意図したかどうかは、やはり定かでない)。
名無星がくぽは反って愉快な気持ちとなり、ますますくちびるを緩めた。ちらりと視線をやれば、明夜星がくぽはまるで隠しもせず、そんな名無星がくぽを薄気味悪そうに見ている。
無邪気だと、思う。
同機種にこんなことを言うのは微妙だが、ひどく無垢な機体であると。
兄とマスターとに全力を懸けて愛され、甘やかされて育ったにしてもだ、こうまで幼い振る舞いの【がくぽ】はそう見ない。こうまで幼く、邪気の薄い【がくぽ】など――
思って、名無星がくぽのくちびるは自然、引き結ばれた。
確かに明夜星がくぽは無邪気であるし、無垢な、幼いところが強調されている。
が、身体構造にしろ設定年齢にしろ、すでに成人した男声としてつくられていることは間違いない。
なにより、明夜星がくぽはKAITOではない。【がくぽ】だ。
初期型ロイドであり、スペックの低さゆえに絞った挙句、一般知識にすら妙な欠けが見られるのがKAITOだ。対する【がくぽ】含む新型といえば、スペックの高さに物言わせた『知識』が、初期段階ですでにこれでもかと積みこまれている。
これでもかとだ、起動の初期段階からすでに積みこまれているのだ。
であるためにKAITO――明夜星カイトであれば、ほんとうに茫洋と流したのだろうと無垢さを信じてやれることでも、【がくぽ】である以上、明夜星がくぽのことはそうまで無垢だとは言いきってやれない。
つまりだ。
「未だ兄に、『いたずら』をされておるのか」
「い…った、……っっ」
――苦慮した甲斐のない言い方であったとは、名無星がくぽも思う。もう少し表現方法がなかったものかと。
しかしなかったのだ。適切と思われる、いい表現がこれ以外にまったく浮かばなかった。
引きつった声を上げた明夜星がくぽは、相応の表情も晒していた。まじまじと名無星がくぽを見て、どうやら茶化されたのでもなんでもなく、本心からのまじめな問いであるらしいと読み取り、さらに引きつる。
「なんなの。なんだか俺、あんたの兄にすごくヒワイなことされてるみたいだけど」
――やはり『通じた』。
自分のやらかしぶりに内心で頭を抱えつつも、片隅では冷静に名無星がくぽは判じた。
これが恋人、明夜星カイトのほうであれば、まず名無星がくぽが言おうとした『いたずら』の意味を正確に読み取れないだろう。きっときょとんと、首を傾げる。それで、返しだ。
――え?カイトさんに『イタズラ』?別にされてないけど、…そんなお茶目なとこあるんだぁ、カイトさん…
おおよそ、こんなところだろう。
もちろん『いたずら』違いだ。名無星がくぽが言いたいのは、下手を打てば性的略取にも繋がりかねないほうの意味であり、それをわざと軽めにぼかした、逃げ腰の表現なのである。
対して恋人が言うのは、たとえば椅子に座ったらぶーぶークッションが仕込まれていただとか、そういう。
恋人の無垢さは疑うべくもないものだが、【がくぽ】であり、こうして『通じ』てしまうおとうとのほうは、だからそこまで無垢であるとは信じきってやれない――
「違うのか」
フォローしても事態は悪化するだけなので(なぜならどうフォローすればフォローとなるものかが、まずさっぱりわからない)、名無星がくぽは懸命に平静を装い、端然と返した。
こういったとき、兄であればほんとうにこころの底から端然と受け返してみせるだろうにと――
思いついたことに、わずかに眉をひそめる。なにといって、最近自覚した思考傾向だ。いや、自覚したというより、させられたと言おうか。
――あのさ、がくぽって、ほんと…
同時に浮かぶのが、妙に微笑ましそうな、どこか寂しさも含んだように感じられる、恋人の笑みだ。
ほかならぬ彼が指摘すればこそ、名無星がくぽも無視しきれず、反抗もしきれず、けれどだとしても全面的には、素直には容れ難い、未だ落ち着ききらない――
気がついたとしても、今はまだ、だめだ。反論できなくても、受け入れもできない。『これ』が『そう』いうことなんだろうと思うだけ思って、深くは考えず全力で投げて流す。
「……ふん」
鼻を鳴らすことでそうやって、名無星がくぽはちらりと明夜星がくぽを見た。一瞬だ。すぐに視線を逸らす。
「兄は抵抗がないからな。深く考えもせん。おまえがいいならいいが、そうでないならはっきり告げねば、止めんぞ」
「はあ?」
投げるような名無星がくぽの言いに、明夜星がくぽの瞳が尖った。見たわけではないから推測だが、きっと当たっている。上げた声がもはや鼓膜に痛いほどの怒りを含んでいたし、向けられる敵意がほとんど殺意のレベルだった。
どうしてこう――
自分で挑発しておきながら釣られるように、名無星がくぽの胸にも湧き上がるものがあった。
この、妙に無垢で無邪気な【がくぽ】は、兄の『ナイト』なのである。
そんなもの兄には必要ないというのに、なぜか盾しようとする。そして名無星がくぽを相手には、最大の警戒と敵意をもって立ち塞がる。
自分へ牙を剥かれる理由は、名無星がくぽも理解している。致し方ないことだとも思う。
だとしてもだ。
それでも、納得がいかない。
兄だ。名無星カイトだ。兄だ!
兄は強く、強くつよくて、強い。それもただ剛と強いのではなく、しなやかにたおやかに強い。スペックではるかに勝るはずのおとうとが全力を懸けて追いかけてもおいかけても追いつけず、やけくそに剥き出す牙もあっさりへし折る。
その兄に、どうしてナイトが必要なのだ。どうして未熟の身でナイトになろうなど、なれるなどと、あまりにも
――あのさ、がくぽ。がくぽってほんと……
あふれ出す寸前、名無星がくぽの思考にまたもや恋人の笑みが浮かび、湧き上がるものはしゃぼん玉より儚く割れて消えた。
そう、名無星がくぽの腹は一瞬で治まった。
治まらないのは、明夜星がくぽである。
明夜星がくぽは目を逸らしたままの名無星がくぽの正面へわざわざ回り、きつく睨み据えてきた。
「なにその言い方?いくらきょうだいでも、仲が悪かったとしても、言っていいことと悪いことの区別もつかないの、あんたは?あの人のおとうとのくせに?」
「っ、……っっ」
鎮まったはずの名無星がくぽの腹が一瞬で沸騰したのはやはり、『あのひとのおとうとのくせに』の件だ。
ああどうせ不出来なおとうとだと、兄とは比べるべくもないさと、常に抱える劣等感のもっとも中心たる、核心の部分を容赦なく刺され、抉られ、踏みにじられる。
それでも咄嗟に開きかけたくちびるを懸命に引き結び、堪えたのは、自分が『そう』言った以上、明夜星がくぽは絶対的に『こう』返してくると予測していたからだ。
いや、より正確に言うなら、方向性の話だ。言うことの一言一句までをすべて予測していたわけではない。
だから腹は沸騰した。
沸騰したが、明夜星がくぽが兄の『ナイト』であれば十中八九、毛を逆立てて喰ってかかってくるだろうとわかっていて挑発したのだ。ために、沸騰した腹まま怒号を返すような無様を晒すことはせずに済んだ。
そもそも、こうも不快なことになるとわかっていてなぜ挑発したのかといえば、相手が明夜星がくぽだからだ。
明夜星がくぽ――
名無星がくぽ最愛の恋人たる、明夜星カイトが溺愛するおとうとだ。名無星がくぽと想いを通じ合わせ、恋人として付き合う今となってすら、おとうとして最愛を注ぐ相手だ。
なにかあれば、恋人が泣く。
そのおとうとは、実は兄を『兄』として見ておらず、名無星がくぽにとっては恋敵の最たるものであったのだが、だとしてもだ。
恋人は泣くだろう。おとうとになにかあったと、傷ついたと、傷つけられたと知れば、きっと。
名無星【がくぽ】にとって、たとえ恋敵であろうとも明夜星がくぽを庇護しなければいけない理由はそれに尽き、それ以上も必要なかった。
そのために、兄を貶めることになるとしても――『どうせ不仲の兄なのだから』、きっと誰にも不自然なく。
「………はあ?」
くちびるを引き結び、目を逸らすことなく懸命に見返した名無星がくぽとしばし見合った明夜星がくぽは、先とまったく同じ音を、先とはまったく違う色味で上げた。
表情からも怒りが引き、戸惑うように花色が瞬く。凄むために乗りだしていた身が引き、明夜星がくぽはちょこりと首を傾げた。こんなときに難だが、異常に愛らしく見えた。
「なに?つまりあのひとって、………そんなに、経験豊富?なの?」
うまい言い方をするものだと、名無星がくぽは内心で称賛を贈った。咄嗟に直情的な、直截な言葉ばかりが並んでしまう自分と違う。明夜星家の教育が見えるような、やわらかな言葉選びだ。
称賛を贈っても緊張を失うことはなく、名無星がくぽはでき得る限りの平静をこころがけ、返した。
「少なくとも俺は、兄が二度、同じ相手と寝たという話は聞いたことがない」
「………」
名無星がくぽが言った瞬間こそ、明夜星がくぽは眉を跳ね上げた。不快さを露わにして瞳が尖ったが、今度はそれを言葉として返すことはなかった。
一度、不愉快そうに逸らした目を、しかしすぐ戻して名無星がくぽと見合う。
いや、どうしてか真正面からただ向き合えばいいものを、わざわざ背を撓め、ことさら下から窺うような、上目遣いとなって覗きこんできた。
それで、なにも言わない。言わないまま、ただ、覗きこんでくる。同じ花色の瞳の奥、奥のおくの奥、――
耐え切れなかったのはやはり名無星がくぽのほうで、あからさまに顔を背けはしないものの、あえかに目線をずらして逃げた。覗きこむ花色を真正面には見ず、戦慄きそうなくちびるを懸命に抑えて開く。
「自分から誘うことは滅多にないらしいがな――誘われると、大概、断らん。抱くも抱かれるも、こだわりもない。『だってかわいかったから』と、それだけでな」
ただし断らないのは『一度目』、初めてのときだけらしい。
兄の行状のすべてを把握しているわけではないが、同じ相手と二度も三度もという話は聞かない。そもそも誘いは断らないにしても、一回だけという約束ができた相手としか最終的にはしないとも言う。
――かわいかったから誘いも受けるけど、でも、それだけだからな。それだけでくり返すんじゃ、さすがにかわいそうだろ。別に困ってるわけでもないんだし。
そう、兄は『困って』いなかった。あのKAITOころりのKAITOキラーは、いつでも誰かに想われ、尽くされているのが普通だったから。
挙句、KAITOだけが相手だったわけでもない。ほんとうに男女の別を気にしなかったし、抱くも抱かれるも、人間もロイドもこだわらなかった。
ただ相手のどこかしら、なにかしらを『かわいい』と思えたかどうかだけがポイントの、『おにぃちゃん』であることに価値を見出すKAITOの性質が暴走したような――
「………ふぅん」
やがて鼻を鳴らし、明夜星がくぽは唐突に身を引いた。撓めていた背を戻すと、手に持ったままだったカップに口をつける。
ひと息に煽って、ちろりとくちびるを舐めた。
「理解」
吐き出して、嗤った。淫婦にも似た、ひどく愉しげで、享楽的な――
どうしてか、兄を彷彿とさせるような。
反射的にぞわりと背筋を波立たせた名無星がくぽに構うことなく、明夜星がくぽは軽く、告げた。
「『だから』だめだったのか、あんた」