恋より遠く、愛に近い-第32話-
明夜星がくぽの軽さは、口調だけではなかった。足取りもまた軽く、まるで踊っているようなステップで歩く。
まずはカウンターに寄って空となったカップを置くと、くるりとターンして(ほんとうは方向転換しただけだが、あまりに軽い足取りであるためそう見えた)、窓辺に置かれた一人掛けのソファに行く。
馴れた様子でためらいもなく腰かけて、そこから顔だけ追わせていた名無星がくぽを見返した。
「まあどっちみち、どうせ処女じゃあないだろうなとは思ってたけど」
「処女と言うな」
――ツッコミどころはそこではない。そこではないが別のところに気を取られた結果、思わずそこに入れてしまった。
ならば名無星がくぽがどこに気を取られたかといえば、明夜星がくぽが腰かけた場所だ。窓辺に置かれた、一人掛けのリビングチェア。
これは第20話でも述べた通り兄の、名無星カイトの席である。
いや、名前も書かれていないし、そもそも当の本人が別に誰が座っても構わないと考えているのだが、出宵はなんとなしに、名無星がくぽは強固に『そう』と決めていた。
とはいえ、だから名前も書かれていないのだ。きれいに片づけられてもいて、私物がなにか、目印に置かれているわけでもない。客であれば、これが名無星カイトの指定席だとわからなくて当然だ。
そう、わからなくて当然だが、客であれば不自然な向きの(置かれているのが窓辺というだけでなく、外を見やすく、つまり室内は見にくい)この椅子にわざわざ、選んで座ろうとはしない。出宵が座っているソファか、あるいはカウンタに据え付けられた椅子のほうか――
けれど明夜星がくぽは迷いなく、まるでここが自分の座る場所だと決められているかのように動いた。
――あり得る話ではある。
明夜星がくぽを、腕によりをかけて甘やかしていると兄は言っていた。それにあの日以降も、明夜星がくぽは兄を訪ねてたびたびこの家に来ている(頻度だ。ほんとうにたびたびだ。おかげで名無星がくぽもたまには顔を合わせることがあったし、たとえ会わずとも、兄は関係を隠す必要性を感じていないようで、『そう』と知っていれば気がつく痕跡がけっこう、残っていた)。
そのときに、兄が好んでこの椅子に明夜星がくぽを座らせていたとしても、まったく不思議はない。
普段から兄が座らせていればこそ、明夜星がくぽもわざわざこの椅子を選んで座った――
名無星がくぽはそう考え、『兄のもの』に勝手に座った相手への、わだかまる思いを呑みこんだ(ところで実態はといえば、あの、明夜星がくぽの膝に乗せたがる癖対策である。あるいは名無星カイトの太腿やら腹やらに懐きたがる癖対策といおうか。カウンタ据え付けの椅子は、強度があると聞いていても二人掛けはやはりこわいし、明夜星がくぽが懐きにくい。ソファは広さが逆に無駄だ。というところでの消去法による名無星カイト、苦渋めな選択なんである)。
そうやって腹を鎮めることに注力している名無星がくぽを、明夜星がくぽはどこか呆れたように見ていた。ただしそれは、名無星がくぽが咄嗟に抱えたわだかまりを察したものではない。
話戻っての、ツッコミどころだ。
「じゃあなに?童貞って言えばいいの?どっちにしたって同じでしょう。とっくに捨て済っていう」
「おまえな」
あまりにあけすけに言う明夜星がくぽに、名無星がくぽは腹のわだかまりどころでなく頭痛を覚えた。思わず額を押さえる。
確かに無邪気な機体だとは思ったが、それにしてもだ。
苦悩する名無星がくぽに、明夜星がくぽはさらに呆れたような顔となった。
「あのね、俺は兄さんじゃないんだし…あんただってもう童貞でもないんだから、これくらいのことでさあ」
「そういうおまえは童貞だろう!」
なんだか察して、名無星がくぽは思わず叫び返した。
次の瞬間に気がついた。最悪の手だ。つづめて悪手という。
これは非常に繊細な問題だ。誰が相手であったとしても、こんなふうに真っ向から指摘するようなことをしてはいけない。特に年嵩、成人した相手には、決してやってはいけない指摘のひとつだ。
なにより明夜星がくぽが未だ童貞であるのは、名無星がくぽにも原因の一端がある(本来的にはないが、名無星がくぽはそう考えるし、明夜星がくぽも別に否定してはやらない)。
二重三重に悪手であり、名無星がくぽは咄嗟に後楽園遊園地へ逃げたくなった(しかしまあ、どうしてもと言うなら逃げてもいいが、そもそも漢字違いだし、逃げてから冷静になってそれに気がついたとき、さらにどうしようもない気分に陥るであろうことは目に見えている。それでも誰かと握手をしてから帰って来られればまだいいが)。
勢いに圧され、束の間きょとんとした明夜星がくぽだが、そう、明夜星がくぽであった――
彼は確かに童貞だった。
しかし明夜星がくぽにとってこれは、あまり繊細な問題ではなかった。
名無星がくぽに原因の一端があるということの否定はいっさいしてやらないが、だからといって未経験であること自体は、大した問題と受け止めていないのである。
名無星がくぽの見立て通り、明夜星がくぽとは無邪気な機体だった。無垢とは言いきれないが、無邪気ではあった。突き抜けて無邪気であり、初期段階でもっさりと『知識』を詰めこまれていてすら無邪気を獲得したほどの、無邪気であった。
名無星カイト曰く、明夜星がくぽとはころもこ毛玉ボール期のこいぬである。それがなんだとあなたは訊くだろうか。転がっているのだか、あんよで歩いているのだかわからないような月齢のこいぬだとなんなのだと、訊くのだろうか――
つまりそういうことであり、そして相手は(くり返して強調するが)名無星がくぽであった。
配慮も容赦もまったく必要を感じない。
そういうわけで明夜星がくぽはむしろ非常に冷静に、おそろしいほど無邪気に頷いた。
「そうだね。俺はまだ童貞だけど、しかも失恋もしたばっかりだけど、だからなに?どこかの誰かはうちの兄さんの処女奪って童貞捨てたわけだけど、まさかそれでマウントとる気?」
「しょ……っ、ど……っ」
まさかもとさか、名無星がくぽがこの話題で明夜星がくぽを相手にマウントをとるようなことだけは、決してできない。できない以前に、決してやりたくない。ありとあらゆる意味でだ。
駒を打ち間違えたのは自分だ。いわば、自業自得だ。
名無星がくぽはどうにか、床に膝を突くことだけは堪えた。しかしこころの内ではもう、正座して地に額を擦りつけていた。有り体に言って、土下座である。
それでどうにかなることは滅多にないわけだが。ましてや実際にしたわけでもなく、こころの内だけでとなれば、なおのこと。
だから言えたこと、返せたことといえばだ。
「しょっ……じょと、………っ言うなっ………っ」
――絞り出すような、このひと言のみだった。
しかして対するのは明夜星がくぽである。名無星がくぽ相手に容赦する義理がないということもあるが、どちらかといえばころもこ毛玉ボール期のこいぬであるがゆえにそもそも容赦の仕方を知らないという、末世感満載の。
彼は非常に無邪気なまま、いかにも不可解そうに眉をひそめた。いや、『いかにも』ではない――明夜星がくぽは本心から不可解だった。常に理解できなかったことが、今回も理解できずに終わった。
この件に関しては偽ることなく、真実、明夜星がくぽはころもこ毛玉ボール期のこいぬであった。
「ほんともう……なんで経験者ってこう、扱い面倒なの?すごく面倒。マウントとるだけならまだしも、なんでそんな繊細なの?で、繊細ぶるくせにマウントとろうとするし、いっそ蹴り上げてツブしたくなるんだけど。まあもちろん、どんな相手でも『暴力はダメ絶対』だし、しないけどさあ……どんだけ厚かましいのかっていう」
――ここら辺の発言は名無星がくぽに向けたというより、独白だった。ぶつくさぶちぶちとした、愚痴だ。
なぜなら明夜星がくぽは名無星がくぽがまだ、問われて答えられるほど回復しているとは思っていなかった。未だまともな会話すら不可能な衝撃の内だろうと。
ゆえに、時間潰しだ。
それをいいことに、名無星がくぽはお口にしっかりチャックをし、迂闊に口を挟むことがないよう、自らを懸命に律した。
迂闊に口を挟むことは慎重に避けた名無星がくぽだが、その、明夜星がくぽが罵っているであろう過去の相手になにがしかの共感と、同情を大いにすることまでは禁じ得なかった。
明夜星がくぽは『暴力ダメ絶対』の旗印のもと、『しなかった』と言っているが、きっと違う。
いや、明夜星がくぽが嘘を言っているというのではない。ただ時に、言葉以上の暴力はないという状況もあるという話だ。ペンが剣より強くなるように、言葉は拳以上の威力を持つことがあるのである。
それで、その誰かさんだが、明夜星がくぽのことをよく知らないまま、名無星がくぽと同じように迂闊に口を滑らせてしまったのだろう。あるいは軽い気持ちで、無邪気な機体をちょっとからかってやれと思ったのかもしれない。
しかして結果といえば、きっと惨状もいいところだった――
明夜星がくぽが言うように、経験者というのはときに、未経験者より繊細となりがちなのである。
それを明夜星がくぽは、【がくぽ】としての高い情報処理能力を用いて非常に的確に掴み、かつ、ころもこ毛玉ボール期のこいぬらしく、まったくいっさいの容赦もなく無邪気に抉ったのであろう。
その結果の惨憺たること、これまでの流れを見れば疑いようもない。
ここで過去の、見も知らぬ誰かさんからもらい泣きしてしまえば、二の舞の惨状だ。
名無星がくぽはくちびるを引き結び、懸命に耐えた。
そもそも今日この日までに、兄にもくり返して厳命されている。
――まさかおまえが先に音を上げるなよ?言ってもあれはただただかわいい、甘ったれなんだから。
それは懐いている兄を相手にはそうかもしれないが!
といった反論も浮かびかけたが、こころの内であってすら、名無星がくぽは自らにその言い訳を赦さなかった。なにしろ兄は言った。
『ただただかわいい甘ったれ』だと。
明夜星がくぽも以前その奸計、もとい兄の話し方の癖に嵌まっていたが(この件は第28話を参照されよ)、逆に言うと兄は言っていないのである。
『ただただかわいいだけの甘ったれで、無害だぞ』とまでは。
おそらく兄に『なにがかわいいだけだ!』とでも捻じこめば、高い確率でそう返してくる。
かわいいと無害がなぜ常にセット販売だと思いこんでいるのかと。
きれいな花にはトゲがあると言っておいて、かわいい花には毒がないとする根拠はなんだと。
ちなみに明夜星がくぽに対してはもっとやわらかな言い方をしていたが、名無星がくぽ、おとうとに対してであれば、兄はその最後にこう言う。
『ひとの言うことは正しく聞いて理解しろ、この甘ちゃんが』と。
明夜星がくぽは甘ったれだが、名無星がくぽは甘ちゃんだ。同じ『甘い』であるが、含む意味とその苛烈さとがまるで違う。
兄はおとうとに厳しい。
初めからそうであったかといえば、――
「…っ」
ふと痛みを覚えて、名無星がくぽは正気に返った。リビングチェアに座ったままの明夜星がくぽが微妙に不思議そうに、そんな名無星がくぽを見上げている。舌禍は中断され、静けさが戻っていた。
いや、後ろに念仏もとい、マスターである名無星出宵がダメ出しされた譜面を懸命に読みこみ直している声が聞こえる。
完全な静寂ではないが、耳が痛むほどの騒音もない――
「なんであんた、だめだったんだろうって思ってたんだよ。兄さんと違ってはっきり気がついてたはずだし、なによりあんた、あのひとのことすごい好きだし。なにがだめで兄さんに流れたのかなって」
「明夜星の」
どこまでも無邪気に、けれど先までの姦しさもなく口を開いた明夜星がくぽを、名無星がくぽは地を這うような声で制した。
「言うな」
「まあいいけど」
怯えることもなく、明夜星がくぽは飄々と返した。花色の瞳はまっすぐと、痛みに歪む名無星がくぽを見通す。
どうしてか、恋人の笑みが浮かんだ。まるで違う顔、違う姿、違う性格――それでもこの機体の『兄』であり、名無星がくぽという恋人と出会うまで、付き合うまで、その愛情のすべてを注ぎこんでいた。
――あのさ、がくぽ……がくぽってほんと、カイトさんのこと、好きだよね。好きっていうか、すごくすごく尊敬してて、おれ、ほんと、うらやましくなっちゃう…
自分の言動のなにを見て、そう言うのか。
いや、なにを見てそう言われるのか、もうわかっている。理解している。そのうえで、認められない。認めたくない。けれど認めている、知っている、わかっている――
「でもさ、あんた…それならもうあのひとのこと、いじめる理由ってないはずでしょ。兄さんと付き合ってるんだから」
「っ!」
咄嗟に怒声を轟かせかけて、名無星がくぽはぎりぎりのところで呑みこんだ。ただし瞳がきつくなるのは堪えきれない。
花色を烈火に変えて睨み据える名無星がくぽを、明夜星がくぽは真っ向から受け止めた。
受け止める瞳は強く、それでも花色だ。どこまでも澄んで、なにより無邪気なこいぬの――ころもこ毛玉ボール期の、転がっているのだかあんよで歩いているのだかも不明な。
そんな幼さでなにがわかる、なにが知れるのかと。
詰ることは簡単だ。
そしてそう詰ることがもっとも簡単であることを、このこいぬは理解している。そう詰って、こばかにして、話を打ちきり、逃げることが、『彼ら』にとってもっとも簡単であるのだと。
理解し、見通しながら、明夜星がくぽはこいぬであってなにも知らずわからないがゆえに折れ難いまっすぐさで、立ち向かってくる。
――まさかおまえが先に音を上げるなよ、がくぽ。言ってもあれはただただかわいい、甘ったれなんだから。
この甘ちゃんがと虚仮にしながら、兄はくり返しくり返して言った。言い含めた、名無星がくぽにだ。今日この日まで、何度も。
通常、最新型のおとうとには一度言えば十分であると理解しているはずだというのに、兄はしつこく言い続けた。
どちらが甘ちゃんかと、名無星がくぽはこころの内で毒づく。
勝手に入れあげて勝手に幻滅し、挙句、手酷く撥ねつけた身勝手の塊に対して、まるで懲りもせず心配し、気遣って、思いやって――
敏い兄だ。とてもKAITOとは思えない。
明夜星がくぽと付き合っていて、兄はおそらくおとうとが『こう』なると読んでいた。
読んでいたから、おとうとが違和感を覚えるほど、激情に駆られてすら咄嗟に思い出さずにはおれないほど深くふかく、刻んだ。決定的な亀裂を起こさないため、おとうとを守るために。
追いかけてもおいかけても追いかけても、はるかだ。
兄は遠い。兄が遠い。
だとしてもあれは名無星がくぽの兄であり、あれが名無星がくぽの兄だ。懲りずめげず、未熟なおとうとが咬みついても手を引くことなく、深い情愛でもって育ててくれる。
いい加減、恋人もできた身である。
甘ちゃんがというひと言ですべて赦し容れてもらえることに甘え、ほんとうにいつまでも甘ちゃんでいるわけにもいかない。
今すぐの飛躍は無理だとしても、足掻かなければ――
「………」
名無星がくぽは一度、瞳を閉じた。すぐに開くと、未だ厳しく見据えるこいぬを見返す。意識して肩から力を抜き、笑った。
違う。笑えた。
思わず、笑ってしまった。
「おまえは子供か大人か、どちらだ、明夜星の」