恋より遠く、愛に近い-第34話-
恋が破れたことと、愛されて育った自分というものは、明夜星がくぽにとってまったく別問題だった。
恋は破れた。叶わなかった。
だからといってその恋の相手、兄である明夜星カイトが自分へ懸けてくれた愛情が、嘘になるわけではない。
兄が『兄として』おとうとを愛おしみ、慈しんでくれた(これは現在進行形であると明夜星がくぽは認識している)ことは確かであり、愛されて育った自分、愛される価値のある自分という自信自体はいっさい、揺るがないのである(とはいえ失恋そのものはやはりつらいし、おかげで精神バランスが微妙に危うかったりすることもあるが、それはそれのこれはこれだ。あなたがもし失恋を経験したことがあれば、そういった機微の揺らぎになんとなし、理解をいただけると思うのだが)。
対して、名無星がくぽである。
名無星カイトという、どこから湧いて出たのか不明な天然チートスキル、KAITOころりかあるいはKAITOキラーであり、らしからずらしからぬ敏さを持つKAITOを兄とする――
「迂闊だったな。兄さんの話、鵜呑みにしちゃってたよ。『名無星がくぽ』は尊大で自信満々で傲岸不遜な、いけ好かない唯我独尊野郎なんだって………兄さんなんかめちゃくちゃフィルターかかってるんだから、話半分以下で聞いておかなきゃいけなかったのに…まともに聞くとか!どうかしてるよ、俺も。まあ、どうかするのも仕方なかったんだけど!」
思いもよらない指摘に切れ長の瞳を見張って固まった名無星がくぽに構うことなく、明夜星がくぽは高速で吐きこぼす。
つまり独白ということだが、しかしだ。この距離である。美事なまでにきれいにすべて筒抜けの。
「おい…」
この機体の無邪気さは理解したつもりの名無星がくぽだが、それにしても突き抜け過ぎて唖然とさせられる。
聞かないふりをするにも限度があるというものだし、なにより内容が内容だ。いくらどうでも聞き流してやるわけにはいかない大問題が、今回の場合はあった。
どこといって、明夜星がくぽの『名無星がくぽ』評である。ただ、明夜星がくぽがひとり勝手に想像をたくましくしての評なら聞き流しもできたものを、よりにもよって兄からの伝聞で組み上げていたという――
兄とは、明夜星がくぽの兄だ。明夜星カイトである。名無星がくぽ、最愛の恋人である。
その恋人から聞かされ、おとうとである明夜星がくぽが想像に組み上げたという『名無星がくぽ』だ。
尊大で自信満々で傲岸不遜な、いけ好かない唯我独尊野郎だそうである。
なにをどう聞かされるとそこまでとなるのか、名無星がくぽにはまるでわからない。それはまあ、ならば自分が殊勝で大人しく、謙虚な男であったかといえば、そうであるとは口が裂けても言えないわけだが。
そもそも単なる友人として始まったふたりだ。そうなるなど、まるで思わないまま。
明夜星カイトもきっとそうだが、名無星がくぽも当初からあまり、ねこを被っていなかった。なおのこと、殊勝さや謙虚さが遠い。
とはいえだ。だがしかしだ。いくらどうでもかかしが過ぎるというものではないか?
束の間、治まったと思っていた頭痛がぶり返し、名無星がくぽは眉間を押さえた。その名無星がくぽに、明夜星がくぽはけっと、やさぐれた調子でまくし立てた。
「かっこいいすてきすてきすてきかっこいいって、きらきらぴかぴかでべた褒めだったよ。恋敵の話聞かされてんのに兄さんたらほんとまぶしくって、もうあらゆる意味で涙目だったよね。ていうかそんなの、当然でしょ?でなきゃなんで兄さん、あんたと付き合うの?あとさ、兄さんも兄さんでいい加減、欲目フィルターかかりまくりだけど、俺だってあんたにはフィルターかかりまくりなんだからね。いくら兄さんが全力で褒めて称えてたって、まともに受け取るわけないでしょう。ところであんたさ、俺にここまでフォローさせといて、さらにまさか、『どういうフィルターがかかっているとそうなるんだ』とかまで、訊かないよね?まさかまさかなんだけど!」
「っ!」
はたと思い至り、名無星がくぽは慌てて眉間から手を離した。
別に忘れていたわけではない。まさかそんなフォローを明夜星がくぽが自ら進んでやってくれるなどとは思っていなかっただけなのだが(もし、なにをどう聞いたらそうなるのかと訊いたところで、まともな答えが返ってくるとも思っていない)、どちらであれ結果は同じだ。
恋イクサの敗者の傷に、さらに岩塩でも揉みこむような所業である。想う相手が勝者のほうをいかに褒め称えていたかを語らせるなど(そう、これこそが最大のネックであった。まともな答えを寄越さないだろうという予測以上に、名無星がくぽをためらわせた。であればこそ、なにをどう聞いたらそうなるのかという単純な問いが放てなかったのである。それもこれもすべて、明夜星がくぽにしてやられ、無為となったわけだが)。
謝って済む話ではないが、だからといって、いっさい謝らないのも違う――
光速で思考を空転させる名無星がくぽだったが、くり返しくり返して何度も何度でも言うが、相手にしているのは明夜星がくぽなのである。
そもそも名無星がくぽからの応答を、まったく求めていない。
それで、リビングチェアに座ったまま首を傾げ、指を折って数えながら、瞳の花色をひどく透明に名無星がくぽを見上げる。
「尊大でいけ好かないってとこは残してもいいな。でもほかは…特に自信。むしろ自信かすかすだね、あんた。いよちゃんがマスターであのひとのおとうとで、なんでそんななのか、逆に不思議だけど。だってさ…」
「『だから』、ちょっと反面教師が過ぎたんだよ。それだけだって。奥手って言い換えてもいいけど」
「「はあ?」」
――明夜星がくぽ、名無星がくぽ、双方ともにこれは不本意であったが、声がそろった。
急に割り入ってきて寝とぼけたことを宣った相手が誰かといえば、誰かも彼かもない。出宵である。
出宵はいつの間にか名無星がくぽの傍らに、譜面を抱えて立っていた。【がくぽ】ふたりに声をそろえて威圧されたわけだが、いつものようにびくびくしてみせることもない。
ただ小さく、ため息をこぼした。
「言ってもさあ、カイトは最近、ずいぶん落ち着いたんだよ?うーーーんと、……ここ二、三か月くらい?ボクが知ってるだけでもたぶん、一回か二回、あったかないかくらいだもの。なんか珍しく、全部断ってるみたいでさ」
「…っ」
出宵の表情は苦笑だ。それで、うちの子がくぽを見上げる。仕方がないなあという、滅多に見せることのない庇護者の表情だった。
なにが仕方がないのかといえば、そう――
咄嗟にくっと、くちびるを引き結んだ名無星がくぽに、出宵は片手を伸ばした。わしわしわしと、頭を撫でる。
『仕方がない』からだ。
けれどこの『仕方がない』を伝えることが、とても難しい。
下手に言葉にしようとすれば、名無星がくぽは責められたと受け取るだろう。『仕方がない』にしてもそれだけのことをしたと、すでに自分で自分を責めているのだから。
名無星がくぽのやりようを出宵は正しいとは思わないが、責めたいとも思わない。
きょうだいとして過ごして、彼らには彼らの関係があり、互いに思うことがある(たとえ不仲とはいえ、それは決して悪感情だけではない)。だとしても正しいとは思わないが、責めることでもないと思っている。
それをうまく言葉で伝えられればもっと、うちの子は安心するし安定もするだろうに――
自分を不甲斐ないと責めるのは、出宵もだ。だからなおのこと、言葉が失われてしまう。
それで、こうなる。
とはいえそう長いことでもなく、ほとんど一瞬であり、名無星がくぽが振り払おうと思いつくよりずっと先には、出宵は手を離した。
それできょとんと、非常に無邪気な顔を晒している明夜星がくぽへ向き直ると、思いきり表情が崩れた。いつもの表情と言い換えてもいい。先の余韻は欠片どころか、微塵もなかった。
話題をすっぱりと断ち切って引きずる余地すら与えず、出宵は抱えていた譜面をずいと明夜星がくぽへ突き出す。
「でさあ、がっくん…あのさ、これ。ハモりのとこは確かに、がっくんのコード進行のが、きれいだと思うんだけど」
――なんの話かと言うなら、『今日の本題』である。
おおかたが忘れていることであろうと推測するのでくり返すが、今日、明夜星がくぽと名無星がくぽとが緩衝材となるKAITOを伴わずに顔を突き合わせたのは、なにも言い難い、後ろ暗い理由によるものではない。
お仕事である。
つい話に熱中してしまったため、出宵がいつ譜面の再読み込みを終えていたのか把握していないのだが、そう、『熱中』してしまった。
そろそろ潮時だろうと読んだ出宵が、強引に割って入る程度にはだ。
ただ、出宵はそういうところだけ(『だけ』である)、非常に優れたマスターだった。
脱線を本線としかけたロイドを――それも物難いサムライ気質から些事を大事としがちな【がくぽ】を、心理的な負担を与えることなく一瞬で本線へと引き戻す。
この場合に重要なのが『本線へ引き戻した』ということではなく、『心理的な負担を与えずに』というところであるのは言うまでもない。
情報処理能力の高さと引き換えに、繊細で、精神バランスの難しい【がくぽ】を相手にだ、これは簡単なようでいて、そうそうできるわざではない。当然、単に話題を替えればいいという話ではないからだ。
下手を打てば、話題転換へ素直に乗ったように見える【がくぽ】は顔色も変えないまま、自己嫌悪の沼に嵌まって沈む。
そう、顔色も変えないので、束の間、問題もなくことが終わったように感じてしまう。
しかし【がくぽ】は繊細さゆえに表面を取り繕うことが逆にうまく、彼らが顔色を保てなくなり、周囲が異変に気がついたころにはだいたい、手遅れとなっている。
手遅れとなればどうなるかといえば、途中リタイア、企画倒れである。
つくった曲がゴミ箱行き、ドブに捨てられるのである(昔はともかく現代社会においては、譜面はドブに廃棄してはいけない。お住いの自治体の定めに従い、燃えるゴミか資源ゴミか小型家電か、とにかく分類・分別したうえで廃棄するものである)。
一曲ものするのに、どれほどの手間と労力とがかかっていると思うのか――そして今回、そうなって無駄と終わるのは、一曲どころの話ではない!
大丈夫、出宵はなんというかほんとうにそういうところ、現金だ。裏表もなく、現金なのである(ドライであるとか、ビジネスライクであるとかいうのとは、微妙に違う。もっともしっくり来るのがやはり『現金』という表現だ)。
ために【がくぽ】にとっては余計な気を回す必要や言動を深読みする必要もなく、仕事相手としてなら実際のところ、相性は悪くない(これもただし書きつきで、ただし、あくまでも仕事相手としてならである。私的に付き合うということであるなら、たとえば明夜星がくぽの出宵に対する普段の反応であるとか、あるいは名無星がくぽがここまでに見せた苦労の片鱗から汲んであげてほしい)。
さて、話は戻ってその、手間暇労力のかかっている曲である。山ほどだめ出しを食らった譜面である。
出宵は明夜星がくぽへ該当箇所の譜面を渡し、頭を掻いた。
「っても、あんまりやってみたことない流れでさ、ちょっと確信が持ちきれないんで、とりあえずやってみま、ていう程度なんだけど…あ、でもさ、言ったらアレだけど、そういや今回ってがくぽとがっくんで、『ふたり』ではあるけどおんなし【がくぽ】なんだよね。これくらいしないと『同じだけどふたり』っていうコンセプト的に、逆におもしろ味ないかとは、なんか気がついた」
「ほんと今さら気がつくとかアレだけど、じゃあ…」
殊勝らしく言う出宵相手にも、明夜星がくぽはいっさいの容赦なく眉をひそめる。自分のマスターではないということもあるが、ただ明夜星がくぽであり、ただ相手が出宵であるというところがもっとも大きい(それがどういう意味であるかの説明は割愛するが)。
自分のアイディアが容れられたというのに表情が冴えることはなく、明夜星がくぽは渡された譜面のうち、もう一枚を上にした。合わせるように、出宵が頷く。
「でもがっくんの、ソロパートのほう?ここはこのコード進行でいかして。そこ折れちゃうと、なんか、ええと、ボクの曲じゃない。って感じがする。別にがっくんのコードも悪いってことじゃなくて、ちゃんといいんだけど、でもとにかく、それじゃボクの曲じゃない」
出宵ともあろうものが珍しくも説明に苦慮しているようで、しどもどと言う。しどもどとした言い方ではあるが、含まれる意思は強い。
つくり手の熱い思いに触れ、さて明夜星がくぽはなんと答えたか?
「うん。さすがはいよちゃんだよ…」
こっくり、きまじめな顔で頷いた。
頷き、持つ手に力が入り過ぎたがために、譜面をぐしゃりと潰す。
堪えきれないとばかり、あまえんぼうのわがまま王子は全力で叫んだ。
「俺がいちばん変えて欲しかったとこ、ほかはどうでもここだけはどうにかなんないかなって、そこんとこピンポイントでキョヒってくるんだから!!そういうとこ外さないの、ほんっっっと、いよちゃんだよねっ?!クオリティ高くてびっくりするっっ!!」
「やったあほめらいたぁっ!!」
――もちろんこの場合の、明夜星がくぽ曰くの『クオリティ』云々とは、皮肉である。皮肉で嫌味であり、同時に慨嘆だ。
ついでに出宵の叫びは反射であり、言い替えるなら自棄であり、さらに言い換えれば逆ギレである。
なぜかといえば、謝ったところで折れられないからだ。折れられないのに謝るのは誠意がないと、ならばどちらかが折れるまで角突きあうことが誠意となると考えるのが、出宵という人間であった(強制はいっさいしておらずとも、端々で窺えるマスターのそういう姿勢が結局、名無星家ロイドきょうだいの過去と現状をつくってもいる。ロイドである。良くも悪くもマスターの影響が大きい)。
当然ながら、まるで反省のない出宵の叫びに明夜星がくぽも治まるどころではない。
「ほめてないでしょっ!だからいよちゃん、いやなんだよっ!」
「ボクはがっくん好きっ!ボクのことも好きっ!」
「そこは俺だから当然だしいよちゃんだから当然なんだけどっ!でもさあっ」
――まあ、なんと言ったものか。
これこそまさに、あまえんぼうのわがまま同士で議論などしようとすると、意味不明が極まっていくばかりという好例ではあった。ツヅク→