「ぅむ…」
名無星がくぽは今日、何度目か知れない頭痛を覚えつつ、明夜星がくぽの傍ら、譜面が見える場所へと移動した。
恋より遠く、愛に近い-第35話-
正直、こういうやり方はあまり馴染みがない。いや、わがままを喚き合いながらうたづくりに励む(励んでいるのだろうか)ということがではない。
つまり、『うたうたう』ものであって『つくるもの』ではないロイドの身で、うたう前から、つくられた曲にあれこれと言うようなことがだ(うたい始めると、うたいやすいうたいにくいということが出てくるので、名無星がくぽもそこは少し言う。が、『言う』だけであって改変まで求めることは滅多にない)。
馴染みはないが、ともにうたう曲である。まったく無関心でいるのもおかしいし、なにより興味があった。
だから、『うたうたう』ものであって『つくるもの』ではないはずのロイドが、明夜星がくぽが、いったいなにをどう干渉したのかがだ。
出宵が明夜星がくぽのため、甲斐経由で送った譜面データは、名無星がくぽも今日までに渡されて見ている。
だからといってすべて記憶しているかといえば、そこまで読みこんではいないわけだが、なんとなし、流れ程度なら覚えている。
なにより『マスター』の曲だ。
その得意とする旋律や構成はすでに理解しているから、見にくい譜面であっても(なにが見にくいといって、明夜星がくぽと出宵と、ふたりであれこれぐちゃぐちゃ書きこみ、先には明夜星がくぽが握り潰した。一応、がなり立てながらも広げ直しはしているが、しわくちゃであり、さらにさらに見にくい!)、後ろから微妙な遠目に眺めただけでどこのどのパートであるか、だいたいのあたりをつけることはできた。
くり返すが、『マスター』の曲だ。
「ああ。KAITO進行か」
「はあっ?!」
思わずといった調子でこぼした名無星がくぽを、とはいえ『こぼした』程度で小声であったはずなのだが、明夜星がくぽは耳ざとく拾った。
拾って、(おそらくほとんどは直前までの言い合いの影響であるはずだが)凄まじい形相で睨みつけてくる。
ひどく剣呑な視線を向けられたわけだが、名無星がくぽが怯んだり、あるいは気を悪くすることはなかった。なぜなら、つまり、『マスター』の曲だからだ(これで名無星がくぽは三度、主張した。『マスターの曲である』と。大事なことであれば二度言うが、三度言ったことは真実である。そう、名無星がくぽにとっては『マスターの曲である』ということのみですべて説明がつくのである)。
名無星がくぽはなんとなし笑えてくるのを懸命に堪えつつ、書きこみとしわとでぐちゃめちゃな譜面へ指を伸ばした。ついと撫でるのが、明夜星がくぽと出宵の書きこみが幾重にも重なり、特に見にくい箇所だ。
「おまえが『うたいにくい』と思うのは、特に、ここらへんだろう?」
「…そうだけど。なに、『KAITO進行』?初耳なんだけど」
(おそらくほとんどは直前の言い合いの影響のはずであるが)相変わらずとげとげしい調子の明夜星がくぽの返しに、名無星がくぽは軽く、肩を竦めた。
「正式なものではないゆえな。兄の…うちの造語だ。マスターの『得意』でな?たとえば兄、……KAITOであればなにも思うことなくうたいのけてみせるコード進行なのだが、俺は…【がくぽ】にはむつかしいというな。それを兄の、KAITOのパートのほうではなく、必ず俺の、【がくぽ】のほうへ振り分けてくるので」
「ああ、イヤガラセ命名ね」
「っくっ……っっ」
言いにくいことをためらう間を与えず、明夜星がくぽは名無星がくぽに続いてきっぱりと、身も蓋もない結論を吐いた。
それでとうとう堪えきれなくなり、名無星がくぽは吹き出した。しかし笑っている場合かという話でもある。そうでなくともこの相手は、自分への心象が悪いのだから。
懸命の努力で笑いを控えめに抑えつつ、能う限りはしらりとした様子を装い、名無星がくぽは続けた。
「逆に兄の、KAITOのパートに振られる『がくぽ進行』というものもある」
フォローである。おそらく。なに宛ての、誰へのフォローかは不明であるが。
これに対し、明夜星がくぽはどう応えたか?
「さすがだよいよちゃん!全方位細大漏らさず平等かつ均等なイヤガラセとか、少しはこっちの期待を裏切る努力をしたらどうなの?!」
――この最大級の賛辞にして嫌味な罵倒に、名無星出宵はどう答えたか?
「ボクはお約束大事派だからね!『お約束打破で期待を裏切る』?はッ!ヤクソクってのは守るもんだし、期待ってのも応えるものだよ!ボクは決してアナタの期待を裏切りませんッ!!」
まったく正しくないとは言わないが、明夜星がくぽ曰くの『裏切らない期待』にしろ、出宵曰くの『守らねばならないヤクソク』にしろ、一般論と大分、意味が違うはずである。この場合、むしろ期待は裏切らねばならないし、約束は守ってはいけない――
とはいえ今回、出宵が叫び返したのはいわば、つい、反射でというものだ。叫ばれたら叫び返すのである。こだまでしょうか。その疑いは濃い。
ために今回は出宵もすぐに落ち着くと、少しだけ明夜星がくぽへ歩み寄り(これは心理的な比喩表現ではなく、実際の行動である)、ついでに首も伸ばして譜面を覗きこんだ。
互いの書きこみとしわと角度とでほとんど読めないといえば読めない。
が、自分でかいたものであり、先まで見直しをかけていたところでもある。
出宵もうちの子の指摘を理解し、バツの悪い顔となってかりりと頭を掻いた。
「あー、えー………と。シツネンしてた。ました。その、………KAITO進行かー…そこ……………」
最後はぼそぼそと消えるようにつぶやく出宵へ、名無星がくぽは呆れを隠しもしない目を向けた。
「というふうにな。指摘しても指摘しても懲りずにやらかす。どうにもよほど好きらしくてな」
「そりゃ、いよちゃんだから」
「がっくんそれはどういう意味かなあっ?!あ、やっぱヤメていわないでごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっっ!!」
両手を合わせて平謝りしてくる出宵には構わず、明夜星がくぽは眉間にしわを刻み、広げた譜面をたんたんと、弾くように叩いた。苛立ちのしぐさであるが、なににどう、苛立っているのかだ。
「じゃあさ、もしかして、――あそこもそう?どうせあんたのソロパートだし、苦労するのは俺じゃないからまあいいやって投げたんだけど」
非常に素直な言いようである。明夜星がくぽである。
ところでひと口にソロパートといっても、いくつかある。該当箇所の譜面は手元にないらしく(なぜなら『投げた』)、曖昧な物言いに終始した明夜星がくぽだが、そもそも今、話題としていることだ。
さらりと流しただけで譜面のすべては覚えていない名無星がくぽでも、『ああまたか』と思った箇所の記憶はある。よりにもよってサビへ入る直前の、つなぎにもっとも気を遣うところで――
『ああまたか』である。
指摘しても指摘しても懲りずに毎回まいかいの、『ああまたか』。
それで終わって流して、今の今まで忘れていた『ああまたか』だ。
「そうだな。もれなくあったな、俺のパートにも」
「ぅおぉう……っ」
出宵は完全に固まり、万事休すといった感を醸した。おそらく今、頭のなかは光速で空転していることだろう。この場をうまく凌ぎ、収めるためにはどうしたらよいのかと。
さて一方、明夜星がくぽである。相変わらず難しい顔で、譜面を叩いていた。苛立ちのしぐさである。苛立ちのしぐさではあるのだが、いったいなににどう、苛立っているのか?
「でもなんにも言わないとか、今の態度とか………あんたあれ、うたいきる自信、あるわけ?」
こばかにしているようにも取れるが、これは単なる確認であると名無星がくぽは読み取った。それにしてもとげとげしい口調ではあるわけだが、今の状況を考えれば仕方がない。
名無星がくぽはだから、苦笑を返した。
「なんと思われようと構わん、決して『簡単だ』なぞとは答えんぞ。『問題ない』とも言わん。死ぬほど苦労する。たまに飯が食えなくなったり、食ったものを吐き戻すこともある。――が、まあ、うたえる」
「…っ」
言い切った名無星がくぽを、明夜星がくぽはほとんど反射で睨み据えた。それこそ名無星がくぽがつい、両手を掲げた程度には鋭い眼光、厳しい目つきだった。
が、一瞬だ。
明夜星がくぽはなにか、非常に気になることを思いついたように、きゅっとくちびるを引き結んだ。引き結んで、緩め、慎重に開く。
「『KAITO進行』なんだよね?KAITOには、カンタン――ってことはこれ、あのひとだけじゃなくて兄さんも、見ればすんなりうたえる?」
先ほどから再三くり返しているので今さら補記の必要もないとは思われるが、明夜星がくぽ曰くの『あのひと』とは名無星がくぽの兄、名無星カイトのことである。
ほうぼうから(ただし明夜星がくぽは除く)らしからずらしからぬと言われているが、しかし確かにKAITOである。
名無星がくぽも先の説明の際に少し言ったが、兄はおとうとの苦労を尻目にすんなりとうたってみせる。
そこからさらに進めて、明夜星がくぽ曰くの『兄さん』、明夜星カイトを考えてみる。こちらは迷うことなく標準的ないし代表的な、らしいKAITOである。
マスター:名無星出宵のつくったうたを明夜星カイトがうたうさまを見たり聴いたりしたことはないが、基本的な機能や性質から考えれば九割以上の確率で『すんなりうたえる』と結論して構わないだろう。
ので、名無星がくぽは素直に頷いた。
「ああ。うたえると思うが」
「で、あんたもうたえる」
「まあ…」
うたえることはうたえるが、だから簡単とは言わない、ひどく苦労すると――
念を押そうとして、名無星がくぽはすんでのところで口を閉ざした。小さく首を傾げ、明夜星がくぽの様子を確かめる。
その間隙に口を開いたのは、出宵だ。光速で思考を空転させた結果が出たのである。つまりだ。
「わか、わ、わかった、がっくんっ。今回は譲る。ここもコード、かえる………っ!」
比喩でなく血を吐くような、出宵の叫びだった。
イヤガラセだなんだと言われようがなんだろうが、出宵にとってはそれだけこだわりのあるコード進行だからだ(もちろん、『【がくぽ】がうたう』というところまで含めてだ。強調しておくが、ほんとうに悪気はない)。
先に、またもや自分がやらかしたのだと気づく前だ。却下の理由でも、説明した。
――ここを折れたら、ボクの曲じゃない。
それが、折れた。
そこまで言ったものを、折れた。
空転の天秤の結果である。
ここで自分が折れず、あまねく【がくぽ】に不評なコード進行で押し通した場合だ。明夜星がくぽがかねてからの宣言通り、途中リタイアする可能性が跳ね上がるということではないか。
途中でリタイアされたら、いくらコード進行にこだわったところで意味はない。なにしろ日の目を見ることなく、御蔵に入ることとなるのだから。
それくらいなら涙だろうが血だろうがいくらでも吐いて吐き戻して呑んだうえで折れ、確実に世に出るほうへ舵を切るべきだ――
大丈夫、出宵は現金だ。潔いのではない。プロ意識でもない。現金なのである(そして拝金主義でもない。実に説明に苦慮するところだが)。
それでもさすがに今回は苦渋の決断となったが、第30話でも述べた通り、戻りがあるかもしれないなら、その『かもしれない』の濃度を限りなく薄め、確定へと転じるための努力はいっさい惜しまないのが名無星出宵という人間なのである。
「そういえばカイトにさ、今朝も言われたんだよね……『仕事』にはなったけど、当初の目的がスキルアップだったってことは忘れるなよって。まさか成果も見せず、いつもと同じでお茶を濁す気なら俺が真っ先にボイコットするぞってさ…これだったらほんと、わかりやすくってちょーどいいし」
「いいよ、変えなくて。うたうから、これ」
「うんありがとがっくん、ボクがんば…うんっ?!え、『これ』?『これ』って、え?」
ごくごくごくごくと、涙やら血やらやら的なものを勢いよく飲み干していく出宵を止めたのは、ほかでもない明夜星がくぽであった。
車もそうだが、ひともすぐには止まれない。歩く走るといった動作だけでなく、回る口と頭もだ、急停止は難しいのである。
案の定で出宵は混乱し、反射的にうちの子がくぽを見た。
なにやらほうぼうから頼られてしまう名無星がくぽといえば、明夜星がくぽを見ていてマスターのことはまるで眼中になかった。
それで、明夜星がくぽである。
当然ながら、決死というほどの覚悟で折れた出宵を憐れんだわけではない。だからといって、そんな恩着せがましいことをしてほしくないと、疎んだわけでもなかった。
いや、多少、鬱陶しそうにはしていたが、そもそも出宵が空転の結論を出す前には、明夜星がくぽの腹は決まっていたのである。
――少なくとも名無星がくぽはそう見たから、口を閉ざしたのだ。
ではいったい明夜星がくぽはなにをどう、腹を決めたというのか?
「だってこれ、あのひともうたえて兄さんもたぶん絶対うたえてそれで………ってなると、うたえないのって俺だけってことになるでしょう。みんなうたえるのに、俺だけ」
いわば自分から『折れた』ものの、非常に不本意そうに明夜星がくぽは吐きだす。
そう、不本意そうではあるが、いったいなにがそうまで不本意であるかだ。
この不本意と、先までの苛立ち(譜面を叩いていた、あのしぐさのことである)とは、実は同じものに根差していた。
つまりだ。
「俺だけできないとか、悔しすぎでしょ…っ」
――ということであった。
衒いもなく素直に負けん気を吐露する明夜星がくぽに、名無星がくぽは瞳を細めた。
ほんとうに無邪気な機体だ。無邪気で素直で、――なによりつよい。
向けられる称賛を察することはなく、明夜星がくぽは名無星がくぽも出宵も見ず、言うとおりの悔しそうな表情で譜面をこそ睨んでいた。
「だから、仕様がないからね。今回は、俺が折れて上げるよ。折れてこのままで、うたって上げる」
「ぇええっと、がっくん…」
明夜星がくぽの言いようこそ、まさに恩着せがましいの見本だった。実際、明夜星がくぽはこれで出宵に恩を着せていた。
出宵もそうと察していて、しかし別に売りたいならそんなものはいくらでも売ってもらって構わないのだが、それよりなによりどうか途中リタイアだけはやめてほしいという。
途中リタイアの可能性を孕んでいる以上、これは逆転無罪と言えるほどのことでもなく、どうにも手放しでは受け入れ難いというのが実状だ。
戸惑って歓びきれない出宵の芳しくない反応を気にすることはなく、明夜星がくぽはきろりと、傍らに立つ名無星がくぽを睨み上げた(『上げた』である。同じ身長であるのに?――同じ身長であるのに、だ。明夜星がくぽはわざわざ背を撓めて下から目線の上目遣いとなったのである)。
「だからっ、――うたい方の、コツ。………あるんでしょ?教え。て。――クダサイ」
――さて、この明夜星がくぽの要望を、名無星がくぽはどう受け止めたのか?
彼は(こころの内で)天を仰いでいた。
そして(こころの内で)遠い空の下の恋人へ、高速で言い訳をつぶやいていた。
これは浮気ではないと。
なんの話であるかと、あなたは思うだろう。いや、名無星がくぽの名誉のためにも、あなたにはぜひそう思っていてほしいわけであるが、だから明夜星がくぽである。
このあまえんぼうのわがまま王子は、ただ言葉だけで要望を出したわけではなかった。
さすがに少しばかりためらいながらも上がった片手が、名無星がくぽの袖をちょんまりとつまんだ。それで、咄嗟に振り払われなかったことを確かめると、つまむ指先にはきゅうきゅうと、縋る力が入った。
ちょんまりつまんでから、きゅうきゅう縋られたわけである。明夜星がくぽに。
同じ機種のロイドである明夜星【がくぽ】に袖をちょんまりつままれ、振り払うことなく容れたら、きゅうきゅうと縋られた。
きゅうきゅう縋りながら、『お願い』までされたわけである。おねだりされちゃったわけである。
軽く言ってもどうしてか、犯罪級の愛らしさだった。ほんとうにもう、こんなことはどうかしている以外のなにものでもない――
これがいわゆるツンデレ効果というものではあった。
ここまですげなかった(=ツン)明夜星がくぽに急に頼り縋られ(=デレ)、先の出宵と同じかそれ以上に混乱したというだけの話であるのだが、この程度を『デレ』扱いで混乱するのであるから、名無星がくぽは少し、不幸馴れが過ぎる気がする。
とにもかくにも名無星がくぽはこころの内で天を仰ぎ、遠い空の下の恋人へ、なにより自らへと、懸命に言い聞かせていた。
かわいいかわいいかわいい恋人が手塩にかけて育てたおとうとが、明夜星がくぽである。
たとえ同じ機種とはいえ、ちょっと過ぎ越して愛らしく感じたところで、大した問題ではない。
なにせだから、かわいいかわいいかわいい恋人が手塩にかけて育て、いろいろチートなうちの兄が腕によりをかけて甘やかしているという相手だ。
そう、明夜星がくぽとは、最強のふたりがである、タッグを組んでリリースした『おとうと』という生物なわけである(ロイドが生物かどうかは未だ結論のつかない議論ではあるが、雰囲気だ。察してほしい)。
これはもう、ちょっとふらついてしまったところで、いやむしろ、ちょっとふらつく程度で済んだところで名無星がくぽの名誉は守られたし、永世、褒めて称えられてもいい――
それがどういった意味の、どういった形であれ。