恋より遠く、愛に近い-第37話-
束の間顔を上げた明夜星がくぽだが、またすぐ、名無星カイトの腹に戻った。ただし今度は、埋めこまない。脇から顔を出し、名無星カイトの背後、リビングの扉口へ非常に訝しそうな目を向けた。
「んで、まあ、なんでもいいけど…兄さんがいるように見えるんだけど。なんでいるの兄さん?なんか用なの?」
「けっふうっ!」
「っとわ、カイト…っ」
溺愛するおとうとのあまりにあまりな『歓迎』ぶりに、リビングの扉口に張りついていた明夜星カイトが口から魂をがっ飛ばした(ロイドに魂があるかどうかも未だ結論の出ていない議論ではあるのだが、絶対的になにかを吹き出した明夜星カイトのその『なにか』とは、少なくとも泡ではなかったし、涎でもなく、胃液や、まして胃袋や口蓋では決してなかった)。
いや、そう、リビングの扉口には明夜星がくぽの兄、明夜星カイトがいた。
その溺愛するおとうとはまるで存在に気がついていなかったが、溺愛するおとうとにまったく目に留めてもらえないがためにリビングの扉口に張りついて歯噛みがみがみしていたりしたりしたのだが、帰宅した名無星カイトとともに明夜星カイトも来ていたのである。
で、名無星がくぽである。こちらはさすがに、兄の後ろからついて来た恋人の存在に気がついた。それですぐ、明夜星がくぽの前から退き、恋人を迎えにリビングの扉口へ向かいもしたのだ。
おかげでなにが良かったといって、魂的ななにかをがっ飛ばした衝撃で頽れる恋人を受け止めてやることができたという。
意識が飛びかけでぐにゃぐにゃとした軟体動物化している明夜星カイトを、名無星がくぽは多少慌てはしたものの、危なげなく支え、抱えこんだ。
その頼もしい恋人に、明夜星カイトはびぃびぃと泣きながら縋りついた。
「ぉに、おにぃちゃ、ぅええええっ、『なんれいゆの』ー?!っぇえうええっ!」
――非常に複雑な状況であった。『ほかの男』にフラれたと、恋人は泣き縋ってきたわけである。
その『ほかの男』とは(少なくとも明夜星カイトの認識上では)おとうとであり、自分の考えのほうがどうかしているのだとわかってはいても、名無星がくぽはやはり、どうにも複雑な心境にならざるを得ない。
それで、泣き縋る恋人をしっかりと抱えてあやしなだめるように背を撫でつつも、浮かぶのがどうしても苦い笑みだ。
「どうにも、すまんな…歓迎の気持ちは勝れども劣らずという自負はあるのだが、――まあ、なんだ。うむ。あのテンションは、………俺には無理ゆえな」
「がくぽはこのままれすてきらもーーーっ」
「ああ、うむ………」
未だべえべえと泣きながらではあるが、一応、褒められたというか、認められた名無星がくぽである。恋人甲斐のある話である。
が、それはそれでやはり複雑にならざるを得ない。なぜならすぐそこに、恋人を『取り合った』相手がいる――
さてその、名無星がくぽをありとあらゆる意味で全方向から複雑な心境へと陥らせる相手、明夜星がくぽである。
「おまえなあ…」
いくらどうでも、さすがに名無星カイトも少しばかり非難含みの声を上げた。
自分に対する歓迎ぶりから、もしかして『大好きな兄』の存在に気がついていないのではとは、うすうす勘づいていた。
が、まあ、気がつかなかったところまではいい。
問題は、気がついたあとの対応だ。
だからいくらどうでも、さすがに今の言い方はない。
しかしてこの惨状を起こした本人である。名無星カイトの腹に食いついたまま離れる気配のない明夜星がくぽ、自分が愛されているということに関しては自信しかない、あまえんぼうのわがまま王子である。
「だってそうでしょ。今日は兄さん、マスターとあんたと打ち合わせしてたんだから、終わったんだったらマスターと帰るのがふつうってもんじゃないの?このあとデートの予定だったとか、僕、どっちからも聞いてないし…わざわざあんたについて来たって兄さん、帰りひとりだったら、迷子になるだけなんだから」
非常に確信に満ちた、力強い断言であった。
逆ギレして言い訳を吐く(さすがに自分の態度は良くなかったと思いつつも素直になれず、逆ギレ的に言い訳を吐くという、よくある泥沼対応のことだ。いや、別に名無星がくぽの日常となにか比較しているとか非難したいとかいうものではない)というのではなく、明夜星がくぽはひたすら正しく、確信に満ちて溢れていた。
とはいえこのあまえんぼうのわがまま王子が根拠不明な自信に満ち溢れているのは、いつものことである。
そろそろこれくらいのことでは言葉を失わなくなってきた名無星カイトだが、反論のために口を開いたところでふと、思い出した。
なにをと言って、あれは第2話のことである。もとい、KAITOのイベントで兄同士、なし崩し的に初顔合わせとなったときだ。
名無星カイトが呼び止めたことでステージからの戻りが遅れた明夜星カイトを、このおとうとはやはりそういったことを言いながら探しに来たのではなかったか。
――だって兄さん、いつまで経っても帰って来ないから。これはどこかで迷子になったか、アイスに釣られて知らないひとについていったか、とにかくろくでもないことになってるんだろうと思って…
あのときも確か、明夜星がくぽは真顔だった。
大好きな兄さんをからかってやろうとか、甘ったれてふざけたとか、あるいは叱られるのを避けようとしたというのでは決してなく、ただほんとうにそうだから、そうという。
つまり、嘘がないのだ。以前も、今も。
嘘がないというのはどういうことかといえば、だから、明夜星がくぽが言ったままということになる。
明夜星カイトは、迷うのである。道に。
もはや初めてというわけではない恋人の家からであっても、きっとひとりで帰したなら迷うのだ。高確率で。
そしてそれを探して迎えに行くのはいつでも、『しっかりもの』のおとうとの役目――
「…だからって、真っ向から指摘してやるな。情けってもんを持て」
「諦めたな、兄?!」
――思い出してしまった以上、全面的に非難もできないがそうとはいえという、非常に対応に苦慮するところへ追いやられた名無星カイトは結局、そう言うのが精いっぱいだった。
恋人を抱えたままのおとうとが振り返って非難を叫んだが、兄だとてこのあまえんぼうのわがまま王子は手に余るのである。投げるときはためらわず、全力で投げることにしている。
さてところで、思わず頽れたりなんだりしていた明夜星カイトである。名無星家のきょうだいの手に余る、あまえんぼうのわがまま王子をお育てになった兄である。
さすがと言おうか、この程度で簡単におとうとを投げることはなかった(とはいえ足は未だによぼよぼしていた。恋人が支えてくれているから、ようやく立っているという有り様だ。ただ、それでも投げることはない)。
明夜星カイトは懸命に顔を上げると、自分と同じような格好で(しかしはるかに元気いっぱい)名無星カイトに甘ったれているおとうとを、きっとして睨んだ。――まあ少なくとも、明夜星カイトの主観上ではきっとして、兄としての威厳とともに睨んだんである。
「がくぽっ、だってっ……!こっち終わったから帰るけどって連絡入れたのに、うんともすんとも返してくれないんだもっ!がくぽっからもなんにも連絡ないからだいじょぶなんだろうけど、カイトさんだってきっといっしょけんめー練習してるんだろっていうけど、でもシンパイだったんだもっ!そりゃ、おにぃちゃんはすぐ迷子になるかもだけど、がくぽといっしょなら迷子ならないんだし、じゃあ様子を見にいってもいいですかってっ」
「ええ……っ」
明夜星がくぽが思わず潰れたような声を上げたのは、兄の態度が実際はこの支離滅裂な訴え通り、めそめそのべそべそで威厳もへったくれもないものであったからではない。
支離滅裂であっても、兄への愛情(あるいは単に、馴れ)からきちんと文意を理解してみせたおとうとは、ひどく驚いたように切れ長の瞳を見張った。次の瞬間には滅多になく慌てた様子で名無星カイトから離れ、自分の体を上から叩いていく。
そんなことをしなくとも、【がくぽ】だ。どこになにがあるかなど忘れるはずもないのだが、それだけ慌てているということだ。
上前から順にぱたぱたぱたと、背後まで含めた全身を忙しなく叩いていって、明夜星がくぽの手は腰のところでようやく止まった。それで目的のブツ、携帯端末を取り出すと、画面を見て、――
毛を逆立てた(比喩である)。
「ぅっわあ…うそでしょ?!全ッ然、気がつかなかったとか……!俺が兄さんからの連絡、流すとか落とすとか」
タイミングというものがある。なにをどう設定しておいたところで『気がつかない』ということは当然、あり得る事態なのだが、明夜星がくぽの受けたショックは本物だった。本物であり、深刻でもあった。
ロイドに血の気が引く機能はないはずなのだが、もとよりぬめるように白い肌がますます白く、一瞬でやつれたようにすら見えた。
失恋した当初よりよほどにショックを受けているのではないかと危ぶみつつ、名無星カイトはそっと手を伸ばし、明夜星がくぽの頭を慎重に撫でた。
それでなんの気もないふうを装い、言う。
「がんばっていたんだな」
「あのねっ!」
そういう問題ではないと、反射的に咬みついてきた明夜星がくぽへ、名無星カイトはやわらかな笑みを返した。
「がんばったんだから、ご褒美やらないとな?…ココア飲むか?」
――これに、明夜星がくぽはなんと答えたか?
「のむっ!!ココアっ!!」