恋より遠く、愛に近い-第38話-
もったいをつける意味がまず、まったくなかった。時間の無駄もいいところだ――
いい年こいてもなんでもとにかく、彼らはココアが大好きなのだから。
ことに、名無星カイトのつくるオリジナルなオーダーメイドココアであれば、大半の事象は彼方へ消えゆかせるほど、好きだ。
今泣いたカラスがもうという話で、明夜星がくぽはきっらきらに輝き、まさに王子に相応しいなにかを放っていた。対象はココアである。あとは、おそらく、ココアをつくってくれる名無星カイト――
とはいえ『明夜星がくぽ』とは、出宵ほど現金を極めた手合いでもなかった。
名無星カイトの計略にうかうかと嵌まって気を取り直しはしたものの、それで大好きな兄にしでかした、自らの仕打ちまでをも忘却の彼方とやってしまうことはない。
そういうわけで気を取り直した明夜星がくぽがまずやったことといえば、そんなことをせずとも心象は小揺るぎもしないだろうブラコン→違う、兄への謝罪だった。
「ぇえと、あの、ごめんなさい、兄さん…兄さんも疲れてるだろうに、俺のこと迎えに来てくれて、ありがとう」
迎えに来てくれたかもしれないが、帰りは手を繋いでやらないときっと、高確率で迷子になる兄である。
迎えに来てもらったおとうとが手を引いて先導してやらなければ、当日中に家に帰りつけるかどうかが大いなる賭けである兄である。
そんなことはむしろ傍観の名無星家のきょうだいより理解している明夜星がくぽだったが、それはそれのこれはこれなのであった。
そもそも本来的に困ったりこわい思いをするのは実際に迷子となる兄であり、その危惧を圧して、安否不明な(おおげさではない)おとうとのために来てくれたのだ。いったい感謝以外のなにがあるというのか。
ゆえにおとうとは兄へと向かい、とても素直に頭を下げた。
――とても素直に頭を下げはしたのだが、名無星カイトを盾に、半ば隠れるようにしての謝罪であった。
指が名無星カイトの服をきゅうきゅうつまんで、完全に頼り縋っている。幼稚園児くらいがよく見せるしぐさだ。親だとか先生だとかに縋って、おともだちに謝るという。さていったい、明夜星がくぽとはそんな年齢層であったか?
「かわいいっっ!!」
――で、これが、おとうとの謝罪を受けた明夜星カイトが最後に残した言葉であった。もちろん冗句である。
いや、冗句であるのは『最後に残した』という部分のみだ。むしろここからが始まりなのだから。
そう、つまり冗句でもなんでもなく、『かわいい』という感想は実際に叫んでいる。それもまず、ひと言目に(そういえば第35話では、名無星がくぽも明夜星がくぽのこういったしぐさにノックアウトされていた。明夜星がくぽの必殺技として登録してもいいのかもしれない。いったい登録先がどこであるのかが不明だが)。
叫んでから、明夜星カイトはかっと、目を見開いた。
「あ、まちがいた!ちがう、まちがいてないけど、まちがいた!」
――明夜星カイトが自分で気がつき、訂正してくれたことは幾重にも幸いだった。なぜか。
今、ここにいるすべてのものが、こういった明夜星カイトへ適切なツッコミをしてやれないからだ。
そういうおまえがいちばんかわいいわと、悶絶するだけの贔屓筋しかいない(名無星カイトは悶絶まではしないが、しかしこういった場合、だいたいが『おまえかわいいな』で流してツッコミを面倒がる傾向にある)。
「がくぽがかわいいのはほんとだから、そこはおにぃちゃん、まちがいてないけど。でも、えと…」
頼りにならない誰かをあてにすることはなく、明夜星カイトは自ら立ち直り、おとうとへ向けてぺこんっと頭を下げた。相変わらず腰に(支えとして)恋人の手が回ったままではあったが。
「おにぃちゃんも、がくぽにごめんなさいっ。がくぽ、すごくがんばってたのに、きつい言い方しちゃったっ」
それで、終わった。
なにがといって、明夜星家のきょうだいの諍いである。互いに頭を下げ、相手の謝罪を容れるだけでなく自らの非をも認めて謝り、あるいは感謝を告げて。
――そういえば自分たちは謝ったことがあっただろうか。
奇しくもそのとき、名無星家のきょうだいが考えたのは同じことだった。
きょうだいで諍うといえば名無星家のきょうだいの十八番だが(こういったものは本来、十八番と表現しない)、その終わり方だ。終わらせ方だ。
明夜星家のきょうだいが今、してみせたように、互いへ頭を下げたことがあっただろうか。
頭を下げないまでも、『ごめんなさい』を言ったことはあっただろうか。いや、そこまではっきり告げないまでもせめて、非があったのは自らであったと告解することは?
――頭で思うことはした。
あれは自分が悪かったとか、あちらが売ってきた喧嘩にしてもこういう態度を取るべきではなかったとか、ああまで言う必要はなかったとか。
けれど、ならばそれを言葉にするか、態度に表すかして相手へ伝えたことがあったかといえば――
「…?」
腰を抱く腕に力が入ってわずかに痛み、明夜星カイトは不思議そうに恋人を見上げた。その花色の瞳が痛みとともに見つめる先を追い、けれど追いつくより先に瞳は逸れて、明夜星カイトへ戻る。
花色の瞳は揺らぐ湖面の瞳と穏やかに見合い、笑んだ。
「離すぞ?」
「ぇう?」
痛みはあっても奥深くへと仕舞いこまれて、もう明夜星カイトには見えない。
名無星がくぽはいつもの、頼りになって優しい恋人の表情で笑い、明夜星カイトの腰を軽く叩きながら警告する。
とはいえそんなことは別に、逐一言葉にして断るものでもないはずだ。
きょとんとしてから、明夜星カイトは思い出した。どうして恋人が自分の腰を抱いていたのか、その理由である。
『いらっしゃいませ』の、歓迎のハグではなかった。
最愛のおとうとからかまされた『つうこんのいちげき』に頽れた自分を、恋人が支えてくれたのだ。
だから離す前に、訊かなければならなかった。今、明夜星カイトはおとうとと仲直りをしたし、ならばずいぶん回復したろうから自分の足できちんと立てるだろうけれど、もしかしてということもあるから――
きょとんぱちくりとして一連の流れを呑みこみ、明夜星カイトはことりと首を傾げた。ついと上がった手が、腰に回された恋人の腕をきゅっと掴む。
「え、はなしちゃうの?」
「ん゛んっ………っ」
『頼りになって優しい』仮面は呆気なく落ちて、恋人は耳からうなじまでを瞬時に染め上げた。のどをおかしなふうに鳴らしながら、羞恥に歪む顔を軽く、逸らす。
顔を逸らしながらも、答えを待つことなくすでに浮き気味であった手が、再び強く腰を抱き戻し――
「んー♪」
ついと上がった名無星カイトの手がやわらかに頭を撫で、明夜星がくぽは機嫌のいいねこの声を上げた。服地をつまんでいた手が腰に回り、また、名無星カイトの腹にむぎゅふと顔を埋める。
ぐりぐりと痛いほど擦りついてくる明夜星がくぽの頭を撫でながら、名無星カイトは目を細めた。細めた瞳は一度、完全に瞼の下へと隠れ、再び出てきたときにはすでに気分の切り替えが済んでいる。
なにはともあれとにもかくにも、今の優先事項の第一はなにかという話だ。
ココアだ。
なにしろつくり手は名無星カイト、彼ひとりしかいない。彼ひとりでここにいる人数分の、それも各人の好みに合わせたココアをつくらねばならないのである。
が。
「………そういえば、マスターはどうした」
言いながら首を巡らせ、名無星カイトがまず確認したのは部屋の隅だ。
部屋の隅、リビングダイニングのリビング側、ソファベッドの近くに置かれたマスター専用屋内シェルター、通称:たまごきのこに『中身』があるかどうかをだ(出宵専用屋内シェルターについては第12話以降を参照されよ。ところであの日からこのシェルターは『たまごきのこ』と改名した。理由の詳細は第13話近辺である)。
しかしカラはカラらしくからっぽで放り出されており、目的の人物は少なくともリビングダイニングの内には見出せなかった。
一巡させた流れで最後、腹に組みつく明夜星がくぽへ目をやった名無星カイトなのだが、そう、深い意味も理由もなく流れだけでやってしまったわけだが、正直に言おう――
まったくもって不適、人選が悪かった。
名無星カイトの問う目線を受けた明夜星がくぽといえばひと瞬きし、ふた瞬きした。半身を浮かせるとごく無邪気に首を傾げ、まったくためらいもなく、その目線を名無星がくぽへ投げた。
「だそうだけど」
「…………………機材部屋だ。譜面に大分、手を入れただろう。俺たちが音入れする前に、一から調整し直すと言って」
名無星がくぽは最前、三か月ほど前の顔合わせの際の記憶が鮮明だ。
大方こうなるだろうと読んでいたので(あのときもいろいろあった。が、名無星がくぽが今回の反応を予測するに参考としたのは、第13話と第14話である)、若干の苦悩を浮かべつつも(以前と比べれば)すぐに答えた。軽く、リビングの奥手にある機材部屋と繋ぐドアへ、顎をしゃくって示しもする。
釣られたように、マスターがいるという部屋へ目を向けた名無星カイトだが、その直前、おとうとの言いに合わせて目をやったのは、明夜星カイトだった。おとうとの『大分、譜面に手を入れた』という、そのフレーズで咄嗟に見た。
一瞬の、少しでもタイミングがずれれば気がつかずに流しただろう反応を機敏に拾い、名無星がくぽは今日の兄たちの打ち合わせの様子をうすうす察した。
明夜星流の洗礼を、兄ももれなく受けたのだ。
ロイドであるのに<マスター>がつくった譜面にあれこれ口を出すという、名無星家には馴染みのないやり方の。
それを兄がどう感じたかが微妙に気になるのが、ひとつ。
もうひとつは、いろいろおっとりしている恋人であってもやはり、うたのこととなるときちんとマスターへ意見を言うことをするのだなという、背筋を正したくなるような、しかしなんだか力いっぱい抱きしめたくもなるような、ひどく複雑な――
「じゃあ、まあ……五人前、つくってもいいか」
名無星カイトといえば、さすがに今はココアつくりのことでいっぱいいっぱいであった。いつものようにおとうとの敏さを危ぶむ余裕もなく、上目で指を折り、そう結論する。
方針が出れば、あとは実行あるのみである。名無星カイトは未だ腹に組みついたままの明夜星がくぽの額を軽く押し退けた。キッチンへ行くから離れろというしぐさだ。
ところで明夜星がくぽというのはころもこ毛玉ボール期のこいぬであるが、対名無星カイトに限っては背後霊の疑いも濃厚であった。
腹からは素直に剥がれたこいぬ、もとい明夜星がくぽだったが、椅子からも未練なく腰を上げた。それで、キッチンへと踵を返した名無星カイトのあとをもれなくついていくわけである。背後霊並みの距離感で。
以前に検討したように(第12話だ)、もしもペットフェンスを設置したとしてもだ、これだけぴったり張りつかれていては、締め出す隙がない。
そしてうまく締め出したとしても、この器用なこいぬは自分で開けて入って来てしまうのだ。しかもここぞとばかりきゃんきゃんきゃんきゃんと、盛大に文句を吠え散らかしながら――
面倒を天秤にかけた結果、やはり張りつけておくしかないのだろうと、今日も名無星カイトは諦めを成型して服を着せたものと化した。
ただしこれは『明夜星がくぽに関しては』である。
「あっ!カイトさん、ココア?!おれもおれもっ!」
ほんの少し前、それこそ数分前の話だ。五分も経っていない。離すと言った恋人を引き留めたのは、明夜星カイトであった。
が、薄情以外のなにものでもなく、明夜星カイトはあっさり恋人を捨て、もとい離れ、名無星カイトのもとへぱたぱたと小走りで寄って行った。
その瞳の爛々たること、獲物に向かうこねこである。名無星カイトが向かうのはキッチンである。
こいぬもだが、こねこもお断りだ。
「ああ、もちろん、おまえの分もつくるから…」
恋人もとい、おとうとのそばにいてやってくれよと。
しゅーーーんと垂れた耳としっぽが見えるようなおとうとに、名無星カイトは堪えきれず、あからさまに憐れむ視線を向けてしまった。
ちなみに今回、恋人がKAITOころりでKAITOキラーな兄のもとへ走ったというのに、おとうとが耳としっぽを垂らすだけ(比喩である)というおとなしい反応であるのは、諦めが過ぎたとか、疲れているからということではない。
より公平に見たとき、恋人が向かった先は兄のもとではなく、『ココア』であるからだ(どのみち恋人に去られたことに違いはないのだが)。
そのココアだが、先に数えた『五人分』の内訳には当然、明夜星カイトも入っている。
しかしこういった数の問題がKAITOにとって無為であることを、名無星カイトはよく理解していた。
だから苛立つこともなく、KAITOにも理解しやすい言い方へ直したのだが、駆け寄ってきたこねこもとい、明夜星カイトはぶんぶんと首を振った。勢いのいい横振り、否定だが、そう、つまりである。
「じゃなくってっ!つくり方、おしえてくださいっ!あ、もちろん、ちゃんと全員分、お手伝いもしますっ」
なんということだろうか――
べったり張りつきじゃれついて邪魔するばかりのこいぬと違い、こねこのこころ構えの見上げたものであることよ!
違う。
いや、違わないが、違う。そうではない――
自分の思考傾向を少し是正する必要性とも併せ、名無星カイトは軽く、眉をひそめた。
「つくり方?」
言われた以上の意味もなく、これ以上、かみ砕いて説明してもらう必要もないといえばないのだが、このあとの展開というものがある。
まずキッチンだが、成人済の男が三人も立って不足がないほどの広さではない。であれば入れ替わりでひとりに外してもらうのが無難というものだが、その外す候補となるひとりが、いくら大好きな兄の言いつけであってもそう素直に聞くかということと、素直に聞いて離れられたら寂しいということと――
困惑含みの、あまり歓迎の意のない名無星カイトの態度にも、明夜星カイトがめげることはなかった。まったくもって元気いっぱい、希望にきらきらきらと眩くきらめいて頷く。
「そしたらうちでも自分でつくって、飲めるようになるでしょ?!」
「ああ…」
眩しさに(幻視のはずである)目を細めつつ、なるほどと納得した名無星カイトへ被るようにその背後霊、ではなくこいぬ、もとい明夜星がくぽも思い出したように頷いた。
「ああ。そういえば兄さん、最近、うちでもよくつくるよね、ココア」
「うん。なんだけど、いろいろ調べたりもしてるんだけど、なんでか、おんなじにならなくて…」
おとうとの指摘に、明夜星カイトはひと息でしゅんとなり、ぽそぽそと続けた。
明瞭さのない説明ではあったが、なるほどと、名無星カイトはさらに納得した。
最近よくつくるようになったという明夜星カイトのココアの、その目指す先、『おんなじにならない』というココアだ。
最前、二度目の顔合わせの際、名無星カイトがつくって供したものだろう。その奇跡の味加減についての詳細は第20話あたりを参照いただければと思うが、奇跡が奇跡たる由縁である。
どうがんばっても再現できない明夜星カイトは、とうとう、つくり手たる名無星カイトに直接、教えを請うこととした――
そこで名無星カイトは悩む必要もなく、すべての問題がきれいに片づいたことを知った。
ために、名無星カイトは常と比べると妙に活気づいて、明るくきっぱりと頷いたのである。
「うん。それなら却下だ」