そういったふうに、名無星がくぽのうちでなにかの決着がつき、明夜星カイトがその、さらなる『被害』とでも言うべきものに晒される、ほんの少し前に戻る。
恋より遠く、愛に近い-第41話-
名無星カイトは無造作に明夜星がくぽの頭を掴み、押し退けた。そう力を入れたわけでもなかったが、明夜星がくぽはそれで素直に引いた。顔だけは。
顔は素直に引いたが腰に回した腕は離さない相手を、名無星カイトは呆れたように見た。
「ココア、飲まないのか?」
「のむっ!」
途端、きっらんぴっかんに表情を輝かせ、明夜星がくぽはぱっと腕を開き、身を離した。だからといって名無星カイトが完全に解放され、自由を取り戻したかといえば、そうではない。
開いた腕はすぐに戻り、明夜星がくぽは名無星カイトの方向転換を手伝った。もちろん、手伝いなどなくとも名無星カイトは方向転換できるし、これはむしろ勢いがつきすぎて危ない。
しかし明夜星がくぽは方向転換を手伝ってくれたし、キッチンへの移動も背中を押して手伝ってくれた――
くり返すが、その手伝いはいらない。ではなんの手伝いがほしいのかと訊かれると微妙に困るのだが、とりあえずこの手伝いがいらないものであることだけは、まったく確かだ。
確かであったのだが、真なる問題はここからだった。
キッチンへ入ると、まさに勝手知ったるである。明夜星がくぽは迷うこともなく、棚から鍋を取った。以前も使った、大人数のココアを一度につくるときに使う鍋だ(だからといってココア専用というわけではなく、日常のさまざまな料理に使われてもいるのだが、とにかく第12話でも出てきた、あの鍋だ)。
で、作業台に鍋を置くと、今度は人数分のカップを手際よく取り出していく。
自分は冷蔵庫へ行ってミルクと生クリームのパックとを出してきつつ、しまったなと考えた名無星カイトである。
明夜星がくぽともあろうものが、普通にお手伝いができる子ではないか。
たとえば名無星カイトと明夜星がくぽとふたり分だけであれば、この王子はほとんど動かない。完全なる背後霊であり、動かない以上にとても邪魔だ。
背中にべったり張りつくし、腕を絡めてくるしで、もうほんとうに、邪魔以外の言葉が思いつかないほど、邪魔でしかない。
しかしである。
ここがなんだかんだ背後霊やこいぬと根本的に違うところで、やろうと思えばやれるのだ、このあまえんぼうのわがまま王子。
いや王子ならふんぞり返って座って待っていろよと、名無星カイトは若干、混乱しながら考えた。
そして混乱しながら作業台に戻ると、ココアパウダーも砂糖も塩も、必要な材料はすべて出して並べてとしてそろえられているという。
名無星カイトがキッチンに入り、冷蔵庫から作業台までの非常に短い距離を移動する間に、準備万端、整えられているわけである。
名無星カイトはミルクと生クリームしか持って来ていないというのに、それ以外の材料が不足なく、しかも使いやすいよう、きれいに並べて置いてあるのだ。なんたる手際の良さか、明夜星がくぽ――
ただあえて言うなら、計量はされていない。袋ごと、あるいは缶や瓶といった容れ物で置いてあるだけである。ここから先はさすがに、いかに優秀なお手伝いさんであっても手の出せる領域ではないからだ。
そうとはいえ、明夜星がくぽが思っていた以上に有能なお手伝いさんであったことは確かだ。完全に油断していたと、名無星カイトはほぞを噛んだ(ところで一般的なロイドにはほぞ、もといヘソはあったりなかったりとまちまちだが、芸能特化型ロイドには基本、ヘソがある。なぜなら『芸能特化型』であり、ヘソの造形も重要な需要品だからである。どういう意味か、多くは語らないが)。
明夜星がくぽの常とは、背後霊としてべったり張りついているか、まとわりついて危なっかしいこいぬであるかのどちらかか、どちらでもあるかだ。
逐一頼まなければひたすら見ているだけであるので、名無星カイトはこの相手がいっさい学習していないものと思いこんでいた。
そんなわけがない、【がくぽ】なのだから。しかし思いこまされていた。
やはり明夜星がくぽ、油断してはいけないのである。
――といったふうに、どうしてか警戒心を強めた名無星カイトであるが、今回の場合、それが功を奏した。
だからつまり、相手は明夜星がくぽだということなんである。意味不明を成型して服を着せた、いくら警戒したところでどうせ防ぎようもない。
防ぎようもないわけだが、衝撃を受けるこころ構えができているかどうかでほんのわずか、差が出る。
たとえば、こういった具合にだ。
「ああ、そうだ、でも、カイト」
準備万端整えられた作業台をほんの瞬間だけ唖然と眺めたものの、いつまでもそうしているわけにもいかない。手間が省けたことはいいことだと強引に結論し、名無星カイトが鍋を手に取ったところで、明夜星がくぽがふと思い出したというように声を上げた。
作業片手間に聞き流すのではなく、反射的に顔を向けて聞く態勢を整えた名無星カイトのしようは、高まった警戒心ゆえだったろう。
ぱっと顔を向けた名無星カイトを、その勢いを、明夜星がくぽはきょとんと迎えた。無邪気な様子だ。名無星カイトのことを信頼しきって、疑いもない――
警戒心が高まっていたがゆえに、名無星カイトはいつもより微に入り細を穿って、相手のことを読みこんでしまった。
微に入り細を穿って読みこんだ明夜星がくぽから読み取れたことといえば、名無星カイトに対する幼いほどに無垢な信頼と情愛だ。
ああしまったと。
凝然と見つめる目を離せないまま、名無星カイトは思考の片隅で考えた。
胸の奥できゅうきゅうしていたものが、収まりきらなくなって出てくる――
そのままなにも起こらなければ、キッチンでひと騒動起きたことだったろう。
どういった騒動であったかはともかく、名無星カイトと明夜星がくぽとを中心とした、結構な騒動が起こったはずであった。
しかしタイミングといおうか、キッチンの外で先に、ひと騒動起きた。
「ぴぁうっ!!」
――まずは、なんとも言えない悲鳴が上がった。
そう、小さな声ではあったが、性質としては悲鳴に近かった(回りくどい言い方をするのは、それが明夜星がくぽには『悲鳴』と認識されたであろうが、名無星カイトには若干、性質の違う声であると認識されたためだ)。
意味もわからないまま、少々、お互いに見入ってしまっていた名無星カイトと明夜星がくぽだ。すっかり入りこんでしまっていたのだが、唐突に上がった悲鳴にびくりと体を揺らした。
それでようやく我に返って、互いに見つめ合ったまま、瞬く。ほんの刹那そうしてから、もぎ離すように互いから視線を外し、その声の発生元を辿った。
発生元はキッチンの外であり、カウンタの向こう側であり、声質から判断するに明夜星カイトであり、で、明夜星カイトだ。いったいなにがあったというのか?
いや、――なにがあったか正確なところは不明だが、明夜星カイトは顔のみならず手の甲まで真っ赤に染め上げ、名無星がくぽの両頬をつまみ、捻り上げていた。かけらほど窺える表情は肌の色にふさわしく、羞恥に歪んでいる。
「ぁく、ぁくほ……っ!おみ、ぉみみみ、めっ、ぃひましっ!たっ!っねっ?!」
わなわなしながらなにか言おうとしているが、わなわなし過ぎてうまく言葉になっていない。
で、それに対する名無星がくぽの対応、もしくは返答である。
「ぅあぃ…ふみぁへん……」
――こちらもこちらで、うまく言葉となっていない。これはほんとうに思いきり両頬を捻り上げられているせいだ。
とにもかくにものとりあえずだが、名無星カイトは不肖めなおとうとが恋人を相手になにかしら、やらかしたらしいことを察した。
が、だからといって口を挟みに行こうとはしなかった。
なぜなら明夜星カイトがきちんと反撃していたし、おとうとの背中は完全に丸まって、おそらく尻尾があったら股に挟まっているであろう、降参ポーズ(あるいは反省の態度)であったからだ。
ので、やらかした相手の兄としてなにか反応の必要は感じなかった名無星カイトだが、とはいえしかしだ。かかしのほうだ。
あの温厚な明夜星カイトが反撃するような事態ではあるわけだ。
かかしもとい、『兄さん大好きっこ』の反応が若干、気になった名無星カイトだが、こちらは名無星カイト以上にドライだった。いや、ドライと言おうか、なんと表現したものか――
反応を確認するためわざわざ視線をやるまでもなく、本人のほうから名無星カイトの前に来たのである。
といってもこいぬらしく、あるいはあまえんぼうのわがまま王子らしく、『ぼく!ぼくぼくぼく!ぼくのほうこそみて!』と主張しにきたわけではない。そうであればどれほど微笑ましかったか知れないというのに。
そう、『そう』であれば微笑ましかったのにとつい思うやり方で、明夜星がくぽは名無星カイトの前に来た。
――いったいどんなふうに?
明夜星がくぽは振り返って見ていたカウンタから作業台のほうへ、体の向きを戻した。それだけだ。
なにしろまさにこれからココアをつくるのだし、作業台に向き直らなければどうしようもないのだから。
実に自然でさりげなく、なんの気もない動きだった。明夜星カイトであれば、そこに思惑を読み取ることなどなかっただろう。
けれどそのほんのわずかな、実に自然な動きでまったく不自然に、明夜星がくぽは自らの体を盾と置いて名無星カイトの目を塞いだ。
仲良くじゃれ合う恋人同士が、名無星カイトの視界に入ることがないよう――
「だから…どうしておまえはそう、過保護なんだ」
呆れたように吐き出しつつも返答を待つことはなく、名無星カイトもまた、作業台に向き直った。
もとより、答えなど求めていない。堪えきれずこぼしてしまったが、いわばわかっていてもこぼしたい慨嘆だ。
【がくぽ】とは『そう』いうものだと、名無星カイトは理解している。
明夜星がくぽも、答えようとはしなかった。答えようとはしなかったが、口は開いた。そもそも会話の途中だった。途中も途中、口を開いたばかりで、本題にまるで入っていなかったのだから。
それで、なにごともなかったかのように続けた言葉である。本題である。
「でさ、でもさ、カイト…ああは言ったけど、さ?ほんと、どうしてもってときは、シてもいいからね?」
「――あ?」
――名無星カイトの返しがほとんどカタギの範疇ではなく、あからさまにそういったスジのごとくなったのは、なんというか、致し方ないと言うべきか。
まだ『その話』は続いていたのかということが、ひとつ。比率として、およそ10%ほどか。
そしてもうひとつ、残り99%といえば(計算ミスではない。タイプミスでもない。超えたのである)、続いていたとしてもだ、なんだその提案はという、刹那的に胸座を掴み上げたくなるような――
そう、胸座を掴み上げたいというか、ちょっと覚えがないほど、名無星カイトの腸は煮えくり返った。
おとうとなどもっとかわいげのないことを、もっと厳しい、激しい口調で言うものだが、これまでにくり広げたけんかのうちでも、名無星カイトがここまで腹を立てたことは片手の指が余るほどしかない。
それでも、だから『警戒心』だ。これがここで、功を奏した。
間に余計なものを挟んだのでずいぶん薄まってはいたものの、完全に消え失せていたわけではない。こころ構えがあったおかげで、相手の胸座をいきなり掴み上げるような失態は犯さずに済んだ。
思いきった失態は犯さずに済んだが、さすがに堪えきれず殺伐とした目を向けてしまった名無星カイトにも、明夜星がくぽが怯えることはなかった。
どころか、ますますまじめな顔つきとなって、こっくんと頷く。
訳すなら、『僕わかってるから』だ。
ではいったい明夜星がくぽは、名無星カイトのなにを理解しているというのか?
「セックスしたひとって、もう、オナニーじゃイケなくなるんでしょ?」
「…………………………………………………………………あ?」
――名無星カイトが発したのは、表記上こそ先と同じ音ではあれ、そこに含まれるものも響きも雲泥の差だった。
瞳が湛えた殺伐さも霧散したものの、その空白になんの感情を入れればいいものか決めかね、名無星カイトは空漠を晒した。
決めきれないまま唖然と、呆然と、愕然として明夜星がくぽを見つめる。
明夜星がくぽといえばいっさい臆することなく、名無星カイトの視線を受け止めた。もう一度こっくり、頷く。『僕わかってるから』――『わかって』?
「人間ほどじゃないけど、ロイドだってあんまり、溜めないほうがいいっていうでしょう。でも、シちゃだめで、だからってオナニーもできなくて――ってなると………あんたが僕のこと大事にしてくれるのは当然なんだけど、でも、それであんたが具合悪くするのは違うからね。だからその前にシてねって」
どういう懇願だと。どういう思いやり方なのだと。
名無星カイトはたぶん、自分が叫びたいのだろうと思った。叫び、喚いて、相手の胸座を掴み――
「……いや、そんなわけあるか。ヌケるわ、フツウに」
しかし名無星カイトがしたこと、ようやくできたことといえば、掠れそうなほど疲れきった弱々しい声で、そう返すことくらいだった。それ以外、やりようがなかった。
【がくぽ】だ。
【がくぽ】だ――明夜星がくぽとは、【がくぽ】なのだ。
スペックの高さに物言わせ、起動当初からもっさりと知識を詰めこまれた機種だ。もっさりだ。
当然『こう』いったことに関しても、KAITOなどよりよほど豊富に詰めこまれている。初期段階からだ。起動当初からだ。後学ではなく、いわば誕生前の刷りこみで。
の、はずだ。
稼働期間は関係ないし、童貞であるとか処女であるといったことは、もっと関係がない。ただ、あるのだ。知識だけはもっさり、いわばデフォルト仕様として。
少なくともおとうとはそうだった――
なにをどこまで知っているか、微に入り細を穿って逐一確かめたわけではないが、だがしかしだ。かかしだ。ほんとうにかかしだ!!
「へえ、そうなの?」
力ない反論を明夜星がくぽがどう受け止めたのか、名無星カイトにはもはや顔色を読む気力も残っていなかった。
座りこむこともなく自力で立っている自分がもう、偉い。途轍もなく偉い。それしか考えられない。
名無星カイトがずいぶん衝撃を受けていることは明夜星がくぽにも明白なはずであったが、あまえんぼうのわがまま王子がその舌禍を治める様子はなかった。無邪気に、続ける。
「でもね、あんまり無理しないで。シていいから、ほんとに」
無邪気にくり返して、にっこり笑う。
「ただ、シたらね、教えてほしいんだ。隠したり誤魔化したりしないで」
「それは」
名無星カイトが反射的に開いた口は、すぐ閉じた。なぜか?
明夜星がくぽの笑い方が、『にっこり』であったからである。『にっこり』笑って、無邪気な声音で続く――
「そういう日はさ、いっしょにお風呂、入ろ?それでさ、僕に洗わせてね、カイト――カイトの全身、隈なく、僕の気が済むまで」