対して言われたほう、明夜星がくぽと見合い、実際に対している名無星カイトである。
「だから、やめただろ……おまえがあんまりにもいやがるから」
端然と返した。
恋より遠く、愛に近い-第40話-
若干の疲れは滲んでいたものの、いつもと大きく変わるところはない。口を挟む気はもとよりなかったとはいえ、だとしても言葉を失ったおとうととは対照的だ。
いや、この兄の返答まで聞いて、おとうとは言葉を失うだけで済まなかった。
名無星がくぽはひゅっとのどを鳴らし、自分のその動き、上げた音(とても小さい音で、本人と、あとは目の前の恋人くらいにしか聞こえないだろう音量だ。その恋人は名無星がくぽによって耳を塞がれており、ふつうに話した声すら聞こえない状況なわけだが)、それらすべてに怯えたように口を閉じた。
代わりというわけではないが、切れ長の瞳が丸く、見張られる。これから起こるなにものをも見落とすまいとするかのように。
おとうとの反応などいざ知らず、名無星カイトは改めてといった調子で明夜星がくぽを上から下から眺めた。
腰に片手を当てふんぞり返り、非常にお偉そうなもとい、立派な態度で名無星カイトを睥睨している相手である。
じろじろと見返したところでめげないその姿を眺め、名無星カイトは小さく肩を落とした。
敗北宣言だ。
だからといってこの立派な態度に屈したわけではない。割合としてまったく含まないとは言わないが、そうではなく――
「したって知らないはずなのに、昨日の話だったりもするのに、おまえ、絶対、落ち着かなくなるんだから……なんだかわかんないけど甘えるに甘えられないってなって、甘えたいのに甘えられないってなって、イライラして、無茶苦茶なこと言いだすだろ。――一回だけならたまたまだけど、二回目もおんなしだったからな。ああなんか、誰かが俺に『さわった』ら……俺が誰かに『さわった』の、だめなんだろうなって思って」
だからここ二ヶ月くらいはクリーンなはずだぞと。
言うだけでなく、名無星カイトはハグを迎えるときのように両手を広げてみせた。
先に、帰って来た名無星カイトを迎えた明夜星がくぽも同じようなしぐさをしてみせたが、もちろんこれはハグのお誘いではない。『潔白』の強調だ。探られて痛い腹などないのだという、探りたければ探るがいいという。
念を押された明夜星がくぽはこの主張に、さて、どう答えたか?
「うん。知ってた。ありがとう」
――破顔した。
にっこり笑って言い、だから別にハグのお誘いではなかったのだが、これ幸いとばかりにぎゅうっと、名無星カイトに抱きつく。名無星カイトもだ、ハグの誘いではなかったのだがと思いつつも、そうされると反射で相手を抱き返さずにはおれない。
きちんと容れられ、受け止められて、明夜星がくぽはますます安心したように身を寄せてきた。
「でもあんたはKAITOだからね。ちゃんと言っておかないと、わかんなくなるでしょう」
痛いほど、苦しいほどにきつく抱き竦められ、肩口に擦りつかれる。
痛いほど、苦しいほどの力で、密着度だ。
それでも名無星カイトは明夜星がくぽの言いに、『KAITOだから』というそれに、いつものあの妙なむず痒さを感じた。笑いたい気分ではないはずなのに、どうしてもくちびるが緩んでしまう。
「………そうか」
「そうなんだよ」
言いながら、明夜星がくぽはぎゅうぎゅうと名無星カイトを抱きしめる。抱きこめて自由を奪い、擦りつくふりでわずかに顔を上げた。
名無星がくぽと目が合う。
知っていた。わかっていた。
だから明夜星がくぽは決してKAITOには見せない類の笑みを浮かべ、くちびるだけ、動かしてみせた。
――ほらね?
名無星がくぽがそう読み取ったところで、兄の手が明夜星がくぽの頭を掴んで押しやり、言葉はそれ以上、続くことはなかった。いや、たとえ押しやられなかったところで、明夜星がくぽがそれ以上、言葉を続けたかは疑問だが。
そう、つまり、そもそもいったいどこからどう繋がってきた結論、『ほらね?』であるかということだ。
ほとんど確信している仮説について、しかし上げられた反証があり、あるいは呈された疑義があり、ために検証して確認してみたが、その結論は『やはり』初めから見えていた答えと同じものだった――
そういう『ほらね?』だ。
答えは初めから決まっていた。出されていた。
確認してみたが、齟齬はなかった。その通りだった。
ゆえに求められているのは同意だ。だからいったい、なにに?
初めひそめられた名無星がくぽの眉だが、すぐに開いた。すぐに開き、先よりよほどにきつくきつく、ひそめられる。そう、第34話である。
――なんでそんななのか、逆に不思議だけど。だってさ…
係るのはこれだ。この『だってさ』だ。この直後、マスター:出宵が割り入ったことで中途半端に切られた、この『だってさ』から続いての、『ほらね』だ。
推測でしかなくとも、このあとに続いたであろう明夜星がくぽの言葉が、今、名無星がくぽにははっきりと聞こえた。
――『いやだ』って言ったら、あのひと、やめてくれるでしょ?あんたはさ、『俺が』いやだからやめろって、ひと言、言えば良かっただけなのに。なんでそういう言い方、しなかったのって。
マスターは実にいいタイミングで割りこみ、話を断ち切ってくれたものだと、名無星がくぽはほとんど初めてではないかというほど深く、出宵のやりように感心し、感謝もしていた。これが動物的本能というものかと。
そうでなければ今度こそ、名無星がくぽと明夜星がくぽとの間には埋め難い亀裂が刻まれ、この企画はそうそうに立ち行かなくなっていたはずだ。
これは今、こうして目の前で実際に見たからようやく名無星がくぽも事実として容れられるが、見ていなかった、推論でしかなかったあの時点では、決して容れられない、冒涜的とも言える判断だからだ。
自信がないと、明夜星がくぽは言った。名無星がくぽがだ、どうしてそんなに自信がないのかと。
もともと明夜星がくぽは『名無星がくぽ』というものを、尊大で自信満々で傲岸不遜ないけ好かない唯我独尊野郎だと思っていたそうなのだが(これもこれで申したいことでいっぱいだが)、なぜか急に覆った。
なぜか?なぜか――
言えなかったからだ。
名無星がくぽは『言えなかった』のだと、明夜星がくぽは察したからだ。たった、この、あまりに簡単なひと言を、兄へ。
きょうだいという確固とした関係性があってすら、名無星がくぽは自らの兄へそう、言えなかった。
『俺の兄なのに、どうして俺以外の、ほかの誰かに触らせるんだ』と。
『俺の兄なのに、俺以外の、ほかの誰かが触るのは赦せない』と。
たかがきょうだい、たかがおとうとの分際で兄へそう求めることは、名無星がくぽのうちでは理屈が通らない。
そもそも兄は自分へ淡い想いを抱いていたはずであるというのに、『そう』するのだ。ならばもう、自分の価値とはそういうことであって、兄への抑止力たり得ないのであるから――
しかしその、『たかが』の軛すらない、友人であるかどうかも微妙な、恋情を取り沙汰すればもっと微妙な関係であっても、明夜星がくぽはためらうことなくしてのけた。
その違いがなにかといえば、だから自信だ。自らをどれだけ信じているのかだ。
兄にとっての自分の価値以前に、まず自分で『自分』にまったく信頼が置けなかった名無星がくぽは、搦め手に非難した。倫理的、道義的問題を取り沙汰して、自らの執着や独占欲を盾とはしなかった。
なぜならそんな価値もない自分ごときの執着や独占欲が、抑止力たり得るわけがないからだ。
そう、初め兄に『おまえがいやなのか』と訊かれたとき、『俺の問題じゃない、社会的規範や道徳の話をしている』と返したことを名無星がくぽはまざまざと思い出せる。
対して(誰が相手であっても)『自分の価値』を強く確信する明夜星がくぽといえば、自らの執着と独占欲だけを盾として赦されると、疑いもしなかった。
それで飾りもしない本音を、無防備なほどの本心をぶつけた。
そして兄、名無星カイトだ。
おとうとの建前は容れず、通じなかったが、明夜星がくぽの本音はあっさり通じ、なにより自ら先に気がついて、改めてすらいた。
腕によりをかけて甘やかしている相手だから、特別なのではない。
それを言うなら彼らに出会う前の名無星がくぽこそ、名無星カイトにとってはなにより特別な相手だったのだから――
「こじれれば、こじれるものなのだな…」
ふっと肩の力が抜けて、名無星がくぽは知らず、つぶやいていた。
敬い過ぎた。尊び過ぎた。兄があまりに眩しくて、まともに見られなかった。
きっと端然としたあの面の皮の下で、兄とて相当に混乱していたのだろうに――であればこそ、おとうととの関係をうまく回せず、ぎくしゃくと悪化させるしかなかったのだろうに。
まともに見ていれば、望むと望まざるとに関わらず【がくぽ】だ。名無星がくぽとて兄の内心に必ず気がついたはずだが、存在を重んじ過ぎて見なかった。見られなかった。正視の不敬をこそ、おそれた。
どうしていいかわからなくなり、手詰まりに外へ逃れた兄を、非難できる謂われもない――
いや、逆だ。
真っ向から、きちんと本音で非難すれば良かった。
『どうして俺だけの兄でいてくれないんだ』と。
偉大な兄に、そんなやりようはあまりに稚拙で失望されると、言葉を呑んだ。
こじれれば、こじれるのである。
敬い、尊び、まぶしいほど偉大な兄がまず、とても甘やかに優しいことを忘れていた。
厳しいことを口にしたところで、肝心なところ、最後には、必ずおとうとの味方をしてくれる兄であるのに――
さてところで、その兄と同じながらまったく違う相手、明夜星カイト、名無星がくぽの恋人である。
抜けた肩の力とともに腕の力も緩み、耳を押さえていた名無星がくぽの手が落ちた。ようやく解放され、聴覚と自由が戻ったわけである。
「んっ…っ」
「あ…」
唐突に戻った聴覚に、明夜星カイトはわずかに眉をひそめた。ぷるるるっとねこか犬のように頭を振り、右に左にと軽く首を傾げて、調節するような動きを取る。
そして次の瞬間には、笑った。
強いた無体をどう償ったものかと狼狽える恋人と目を合わせ、にっこりと。
やさしくやわらかで、しなやかに強い笑みだった。まさかこの程度で償われなければいけないほど愚昧であると侮ってはいまいなと、脅迫されてすらいるような。
手が伸び、名無星がくぽの首に回る。きゅうっと抱きつかれ、肩口に擦りつかれて、名無星がくぽも反射で恋人の背に腕を回した。
回して、――
堪えきれないほど強く、つよくつよく想いが募り、名無星がくぽは瞼を落とした。明夜星カイトの肩口に自分こそ擦りついて、こみ上げるものを呑みこむ。
終わったことだ。
終わった、もはや取り返しもつかない。
だからこそ大切にしなければと、痛むほどに願う。紆余曲折の果てに自らの手が掴んだ、選び得たものをだ。
錆びた想いはあとは朽ちていくだけで、蘇ることはない。
名無星がくぽはもう、選んだ。誤解のうえに彷徨って見つけたものだとしても、今、湧き上がる想いはもう、ほかを選ぶ余地を与えない。
この手を失うこと、この手と出会えなかったことを考えれば、今はもう、そちらのほうがずっと、なによりずっとずっとおそろしい――
「愛している」
思いもせず、ただ募り過ぎたがために堪えきれずこぼした想いに、腕のなかの恋人がびくりと震えた。
震えて、回された腕から力が返る。
「ん。おれも」
小さく、ちいさくちいさく返された言葉は幸福以外のなにものでもなく名無星がくぽを満たしたが、明夜星カイトはそうでもないようだった。
回された指が立って服地越しに爪の感触があり、つまり抗議の表明があり、明夜星カイトはさらにさらに小さく、吐きこぼした。
「あのね、がくぽ…急に、耳のとこで、そいうこというの、禁止。です。かっこいー声も、禁止。禁止…禁止っていうか、………ハンソク?とにかく、だめ。おひかえください。好きがいっぱいで、パンクしちゃう。ます」
「………」
思わず顔を上げ、名無星がくぽは凝然と恋人を見た。肩口にぐりぐりと力いっぱい埋まり、まともに顔は見えない。
見えないが、『だめ』という耳が、これ以上なく染まっているのは見える。
そうか、『言う』のはだめなのか――『言う』のは。
と、思ったとか思わなかったとか、あとで恋人はしどろもどろに釈明したと明夜星カイトは言った。
つまり、自分自身ですら思ったか思わなかったか定かでないが、名無星がくぽである。好きがいっぱい過ぎて、すでにパンクしていた男である。
パンクと言おうか、ショートと言おうか、とにかく思考回路がまともでなくなっていた男だ。
名無星がくぽはぐあっと口を開けると、真っ赤に熟れ上がった恋人の耳朶に、ためらいもなくかぶりついた――