そういったわけで、本日のおやつはようやく判明した名無星カイトの大好物――
ではなく、明夜星がくぽの好物だった。
恋より遠く、愛に近い-第43話-
スティックタイプでお手軽に食べられるチーズケーキの詰め合わせだ。プレーン、いちご、ブルーベリー、ブルーチーズの4種が、各2本ずつ入っている。
甘さ控えめながら、味も食感もみっしり濃厚に仕立てられたケーキはおやつはもちろんだが、ワインや日本酒といったお酒のおともにも向くと評判だ(実はラムレーズンがもっとも人気であるのだが、名無星カイトと明夜星カイトはこれを上手に省いた。つまり、都市伝説的なKAITO酒癖問題である。ひと口の酒で極限まで悪酔いするという――ちゃんとしたブランドになればなるほど、菓子に含まれる酒精とて油断ならないのである)。
「で、おまえのお薦めは?」
キッチンからカウンタを覗きこんで訊いた名無星カイトに、傍らに立つ明夜星がくぽは迷うこともなく、薄ピンク色のスティックを示した。
「いちご」
きっぱり言って、しかしすぐ、その指先が微妙にぶれる。ぶれた指先が伸びてつまんだのは、ところどころに特徴的な青い斑点のあるケーキだ。
「でもブルーチーズがなんか、……なんか、おいしくはないんだけど、ほんと別に、ぜんぜんおいしいわけじゃないんだけど、――ヘンに病みつきになるんだよね…」
ぶれるのは指先だけでなく、つぶやく声音も微妙な困惑にぶれて揺れていた。
その発言に、カウンタに据え付けの三脚の椅子のうち、真ん中の椅子に座った明夜星カイトも頷く。
「うん。がくぽいっつもヘンな顔しながら、でもぜったい食べるんだよね、ブルーチーズ。マスターはふっつーに好きだから、そんなカオするならくださいよとかいうけど、上げないで、ぜったい自分で食べる」
「どうでもいいが、それでどうして俺の前にブルーチーズを置く、明夜星の?いくらおもたせとはいえ、俺に選択権は」
まあ、もはや補足する必要もなく名無星がくぽが言った通りなのだが、兄が説明を補足している間に、明夜星がくぽはつまんだブルーチーズ入りのケーキを名無星がくぽの前に置いていた(ちなみに名無星がくぽもまた恋人の横、カウンタに据え付けの椅子に腰かけている)。
頭痛を兆しているような顔で訊かれた明夜星がくぽといえば、むしろきょとんとした顔を返した。他意もなく故意もなく悪意もない、無邪気そのものの。
「なんで?食べないの?」
「いや、そういうことではなく…」
そう、そういうことではないのだが、そう、『そういうこと』ではないのだ。
「てか、だから『手土産』でしょう、兄さん?なんで俺の好きなもの買ってるの。せっかくいっしょに行ったんだからこのひとの好きなもの訊きだして、買ってきてくれればいいのに」
自分の好物が目の前にあるのはうれしいが、しかし状況というものがある。状況というか、まあ、状況だ。
本日のおやつも『おもたせ』、明夜星カイトが律儀に持参した手土産である。ここは重要だ。くり返そう。
明夜星カイトが名無星家訪問に際して用意した、手土産なのである。
自分のおとうとの好物を贈ってどうするのか。
いろいろ抜けているところも多い(そこが愛らしい)兄ではあるが、こういったところはきっちり押さえて外さない。
――はずなのに、どうしてか買ってきたものが自分のおとうとの好物である。
いや、名無星家にも【がくぽ】がいる。明夜星【がくぽ】の好物はもしかすると名無星【がくぽ】の好物ともなり得るかもしれないが、しかしだ。かかしもいいところだ。
常に手ぶらで訪問しているおとうとからの詰問に、毎回手土産を持参する兄のほうといえば、とても素直にしゅんと肩を落とした。
「ぉ、おにぃちゃんだって、いったも…『せっかくだし、カイトさんの好きなもの買わせてください』って。でも気がついたらなんでかこんなことに」
「いずれ、いいように言って丸めこんだのであろうよ」
責めるというより、ただいつものことだと慨嘆する様子で、名無星がくぽがあとを継いだ。明夜星がくぽからの『お薦め』、ブルーチーズ入りのスティックケーキをつまんで矯めつ眇めつとしながら、その視線をちらりと兄へ流す。
「どうせ思いつかなかったのだろう」
腐すおとうとに、明夜星がくぽが眉をひそめて気配をちりつかせたが、名無星カイトは端然と返した。
「連絡にも気がつかないくらいがんばってるおまえたちへのご褒美なのに、俺の好きなものを買ってどうするんだよ」
「ほらな?」
――この『ほらな』は、名無星がくぽから明夜星がくぽに向けて投げられたものであり、いわば先に、第40話で明夜星がくぽが名無星がくぽに投げたものと、だいたい同じ使い方であった。ほとんど答えの確定している仮定の推論が、やはりその通りであったという。
名無星カイトはつまり、『好きなもの』を訊かれたが思いつかなかった。
それでこの論理で(純情な)明夜星カイトをうやむやに誤魔化し、明夜星がくぽの好物を買わせた――
兄からの言い返しがただ端然としており、呆れだとか小ばかにするといった調子を含まなかったところで、名無星がくぽにはそうと確信できた。
以前であればこんな言い方をしても、きっと通じなかった明夜星がくぽだ。とはいえ今日の一日を通して、名無星がくぽに対する『理解』も進み、『警戒心』もわずかに緩んだ。
相変わらず名無星カイトを守ろうとは動くものの、滅多やたらと威嚇するまでではなくなり、少しは言葉が通じるようになっている。
明夜星がくぽは眉をひそめながら名無星がくぽを見返し、対してただ端然とする名無星カイトへ視線を移して、さらに眉間にしわを寄せた。
「ええ…まじか………」
「がくぽ?」
ひとり、話が呑みこめないのが明夜星カイトだ。
こういった行間を読み合うような会話は、KAITOのもっとも苦手とするところである。耳を塞がれず、すべて聞こえてもまるで意味がわからない(ので、名無星がくぽのやりようは過保護だし、夢見がちともいうのだ。たとえ先の会話をすべてつまびらかに聞いていたところで、果たして明夜星カイトがどの程度理解できたものか、疑いしかない)。
未だしゅーーーんとしている兄を見て、また名無星カイトを見て、明夜星がくぽはことさらに身を屈めた。
名無星カイトをわざわざ下から覗きこんだうえで、しゅんとしている兄へちらりと視線を流し、誘導する。
「あんないたいけな兄さん見て、なにかひと言、言いたくならない?」
自分のやりようは棚の高いところに上げる明夜星がくぽから良心が痛まないのかと責められ、名無星カイトは端然としたまま明夜星カイトを見た。こっくり、頷く。
「慰めてやれると良かったんだけどな」
「兄ぃいっ!!」
「ほぇっ?がくぽ?!」
名無星カイトの意味したところを非常に正確に読み解いたおとうとが堪えきれない怒声とともに腰を浮かせ、まったく意味がわからない明夜星カイトがその勢いにきょとんぽかんとする。
咄嗟の、ほとんど反射的な動きで名無星カイトと激昂したおとうととの間に身を割り入らせた明夜星がくぽだが、表情は冴えなかった。
なぜなら明夜星がくぽもまた、名無星カイトの意味したところをきちんと理解していたからである。
「あんたは、さあ…」
反射で庇いはしたもののすぐに振り返り、しかも渋い顔を向けた明夜星がくぽに、名無星カイトが反省した様子はなかった。端然と受けて、流す。
「言っておくが、寝取りはやったことないからな。面倒くさい」
「……そうなの」
「くっ……っ」
訊きたくはなくとも、明夜星がくぽが冴えない顔を向けたのは名無星がくぽであり、いわば兄のいつもの冗句だと、なんとか気を落ち着けて椅子に座り直していた名無星がくぽは顔を覆って天を仰いだ。
自分で蒔いたたねというもので、もちろん泥を被る覚悟はしていたが、まったく足らなかった(そもそもたねというのは蒔いたら泥を被るものではなく育てて刈り取るものであるのだから、まず覚悟の方向性が間違っていたという話なのだが)。
「……ええっと?」
なにもかもの話題に乗り遅れて困惑しかないのは、明夜星カイトだ。首を傾げ、不安そうな声を上げたところで、名無星がくぽも我に返った。
この体勢だと無理があるということもあるが、いくらどうでも日に三度も耳を塞ぐようなことはしたくない。
それは恋人に隠しごとを量産していると白状しているも同じことで、誠意がないことこのうえない――
がしかしだ。かかしだ。もういっそ、藁になりたい。さもなければおがくずだ。
亜光速で思考を空転させた名無星がくぽは、結局、非常な早口をこぼした(あまりにも早口だと、KAITOはきれいさっぱり聞き流す癖があるからだ。もちろんらしからずらしからぬの兄、名無星カイトは滅多に聞き流してくれないのだが)。
「破綻を決定的にしたことはある」
兄からも恋人からも顔を背けての、早口だった。誠意などどこにもないが、しかしだ。
身を屈めたままじろりと睨み上げた明夜星がくぽを、名無星カイトはきちんと受け止めた。悪びれない――わけでもないとも言いきれないこともない場合もありそうななさそうな。
明夜星がくぽは厳しい眼差しを緩めると、やれやれと吐きだした。
「うんまあ、いいんじゃないの…『決定的にした』ってことは、すでにうすうす話が出てて、でも決定打が足りなくて、あとはきっと、お互いにどれだけ傷を増やすかって段階の話だったってことでしょ。まあ、あんたが刺されさえしなけりゃ、僕はどうでもいいな、それ」
体を伸ばした明夜星がくぽを、名無星カイトは少し、不思議そうに見た。
未だ顔を逸らしたままのおとうとをちらりと見て、また明夜星がくぽへ目を戻す。おとうとと同じ、【がくぽ】である相手へ。
「なに」
きょとんと、確かに『どうでもいい』からもう忘れたという顔で見返してきた明夜星がくぽへ、名無星カイトは小さく、首を横に振った。
「マスターとおんなしこと、言うんだなと思って」
これに、明夜星がくぽはどう答えたか?
「んぇえええ……っ、ぃよちゃんんん……っ?!」
――不名誉しかないという渋面だった。嫌がるにしても、これはきっと最上級であろうという。
美貌が無為以外のなにものでもないその顔に、名無星カイトは笑う。笑ってしまう。胸がきゅうきゅうきゅうきゅうして、そういう場合ではないと思うのに、笑わずにはおれない。
堪えきれず笑いながら、名無星カイトは踵を返した。
「まあ、どっちみち過去のことだ。これからはしない。言っただろ」
「僕は賢いからね。何回も言ってもらわなくても、ちゃんと覚えられるんだよ!」
くしゃりと前髪を掻き撫ぜてコンロ前に戻る名無星カイトへ、明夜星がくぽは胸を張って言い返した。
ふふんと傲岸に鼻を鳴らしてから、さてあとを追おうと足を踏み出しかけ、やめる。名無星カイトがすぐ、戻ってきたからだ。
ただしその手にあったのは完成したココアではなく、味見用のティースプーンだった。
ところで現時点で、ココアはすでに4人分できている。【がくぽ】ふたり分に出宵分、名無星カイトの4人分である。
あとは最後のひとつ、明夜星カイト用のココアに仕上げの味付けをすればいいだけなのだが、そう、『すればいいだけ』だ。まだしていない。
その、最後の味付けの済んでいないココアを名無星カイトは持ってきた。
そしてしゅーーーんとしてしまっている明夜星カイトの鼻先にスプーンを運ぶと、こぼれないように注意しつつも揺らし、香らせる。
「兄?」
名無星がくぽが不審の声を上げたが、これはいつものような、KAITOころりでKAITOキラーの兄が、迂闊に自分の恋人を誘惑するのではという、そういった危惧からのものではなかった。
名無星カイトはおとうとの不審に応えてやることなく、釣られて顔を上げた明夜星カイトに向かい、ふわりと微笑む。手に持つスプーンをゆらゆら、再度揺らして注意を呼んだ。
「『あーん』」
「ふぁ、っんっ?」
声に、やはり素直に釣られて開いた明夜星カイトの口に、名無星カイトは持ってきたスプーンを差しこんだ。反射でかぷりと咥えこんだ明夜星カイトが、一拍置き、こくりとのどを鳴らす。合わせてぱちりとひとつ、瞬いた。
「ぇと、ココア………だけ、ど?でも…」
大好きなココアの味見をさせてもらったわけだが、明夜星カイトの表情が冴えることはなかった。
それだけ、話題に置いていかれたことが寂しい――ことも多少はあれ、そうではなく、先にも言った通りだ。
これは未だ、最終調整前なのである。『味が足らない』。
「兄さん、合ってるよ。まだそれ、最後の味付けしてないから」
「ああ…」
兄の困惑を素早く見て取った明夜星がくぽが入れたフォローに、明夜星カイトもわずかに愁眉を解いた。そうなんだと頷こうとしたが、その直前だ。
「あ、待て兄っ!」
「ふゃっ?!」
またもや名無星がくぽが腰を上げ、叫んだ。しかし制止が間に合うことはなく、名無星カイトは明夜星カイトの口から抜き出したスプーンをちろりと舐めたところだった。これは以前、第16話でもやらかし、同様におとうとの不興を買った癖だ。
そう、癖というか、別ごとで頭がいっぱいになっていて判断力が疎かになった挙句のやらかしである。名無星カイトに深い意図も理由もなく、さらに言うなら『やらかした』ことを意識すらできていない。
意識すらできていないので以前同様今回もまた、名無星カイトはおとうとの抗議をきれいに流した。きょときょとんとして恋人と、その兄とを見比べている明夜星カイトへふわりと笑みかける。
「おまえもいい加減、気難しいな、明夜星カイト。そこがまた腕の見せ所で、かわいいけど」
「ほ、ぇ?」
「兄?」
――明夜星カイトがあまり言われたことのない類の感想をこぼし、名無星カイトはコンロ前へ戻った。まずはシンクへ、今の味見スプーンを投げこむ。
「ちょっと、さっきからあんた、なにや……え?カイト?」
背後霊であるので、不平不満があったら容赦なく吐きこぼしながらついてくる明夜星がくぽだが、しかし先を続けられず、困惑しながら口を閉ざした。その困惑は実は、カウンタに残された明夜星カイトと名無星がくぽにも強かった。
だから、コンロ前に戻り、最終調整を行うはずだった名無星カイトだ。三者三様の困惑の視線やら気配やらといったものはいっさい気にせず、まずはハチミツと生クリームを手に取った。そう、両方同時に取って、蓋を開けることもなく、元の場所に戻した。ハチミツは棚に、生クリームは冷蔵庫に。
代わって冷蔵庫から取り出してきたのがチューブタイプのコンデンスミルクだ。それを特に計量する様子もなく鍋に絞り入れる。あとはいつも通りで、ていねいにかき混ぜてからカップへ注ぎ入れ、完成――
ようやく空になった鍋をシンクに置き、乾かないよう水だけ張ると、名無星カイトはほこほこと湯気を立てるカップを持ってカウンタへ戻った。
きょときょとと見つめる明夜星カイトへ、軽く、掲げて見せる。
「とっておき、飲ませてやるって言っただろ?」
「ふわ、あ…」
飲んでいないうちから、明夜星カイトの表情はもう輝いた。いわば信頼の為せるわざというものである。
幻視で錯覚のはずだがまばゆいほど輝く明夜星カイトへカップを渡し、空いた手で、名無星カイトはその前髪をやわらかに掻き撫ぜてやった。
「なに話してたか、あとでちゃんと教えてやるよ、明夜星カイト。次のとき…過保護どもがいないとこで」
「あ…」
わくわくとカップを見つめていた明夜星カイトが、はっと顔を上げる。いや、『はっと』顔を向けたのは明夜星カイトだけでなく、曰くの『過保護ども』、名無星がくぽと明夜星がくぽもであった。
「いや兄…っ」
「教えるって、あんた」
案の定で騒ついた【がくぽ】を、名無星カイトは端然と見返した。端然と、揺るがず、強く。
その、ほとんど一瞬の視線で自覚ある『過保護ども』の口を塞ぎ、名無星カイトは明夜星カイトへ顔を戻した。
名無星カイトの提案を理解するにつけ、寂しさにしけ気味であった明夜星カイトの表情がきらきらぴかぴかと、まばゆいばかりの輝きを取り戻していくのがおもしろいほどわかる。
言ってもほんとうに光を放っているわけではないのだが、実際に眩しいような気がして目を細め、名無星カイトはもう一度、明夜星カイトの前髪を掻き撫ぜた。
「おまえは『兄』だっていうのに…生意気なおとうとどもだよな」
こなれた手つきで前髪を掻き撫ぜる名無星カイトに、明夜星カイトは機嫌のいいねこの顔で笑った。
「でも、そこもかわいいもっ!」