さておかげで明夜星カイトがまた、憔悴しきった。
恋より遠く、愛に近い-第77話-
なんとかかんとか、個人曲もコラボ曲も成功裏に終わった『がくぽ』イベントから、およそひと月である。
いや、――まあしかし、おかげで憔悴しきった明夜星カイトである(しかして件の会にはすぐさま入会した。さすがに結成メンバーとまではならなかったが、それはそれのこれはこれで即入会した。ちなみに件の会であるが、会費無料、特に会員証も定期会報もないが、『カイトさん』のナマ情報は日々、専用SNSを通じて大量に回る。いや、大丈夫だ、心配はいらない。ストーカもパパラッチもいない。ただ名無星カイトが付き合いにまめであり、ついでに『知り合い』が多いだけである)。
自分が席を外していた間にどういった話があり、どう展開し、こういった結論に陥ったものかはまったく不明だが、それにしてもだ。
「カラダの関係ばっかり、進んでる………ッ」
「あー……うむ」
どうしても浮かぶ涙を健気に堪えて呻いた恋人に、名無星がくぽは曖昧に頷いた。
なぜ曖昧かといって、名無星がくぽにとって兄の『貞操』はとても軽い。なきに等しい。
その兄が、たとえどういった意図であれ、相手をひとりに絞ったのだ。これだけでもう、名無星がくぽにとっては驚天動地であり、それ以上を望むなどおこがましいと言おうか、欲がり過ぎてそれすら失うほうがおそろしいと言おうか――
その絞った相手にしても、知らない仲ではない(これはいわば、ツンデレがツンを発動しているときのものの言いといっしょだ。照れ隠し的な表現と言おうか)。
兄を任せて安心かといえばまったくそんなことはないが、というより誰かに任せっぱなしになるような兄ではまずないわけで、そういった意味ではたとえいかなる相手であろうと『任せて安心』となることだけは決してないわけであるが、――
大丈夫、名無星がくぽも恋人に負けず劣らずの勝るとも劣らずで動揺している。
そういう、動揺しきりの恋人同士がいる場所である。毎度おなじみ、名無星家のリビングダイニング、そのカウンタに据え付けの椅子である。いや、膝には乗せていない――
名無星がくぽは明夜星カイトを膝に乗せることなく、隣り合って座っている。
だからといって別に言いたいことがあるわけではないが、明夜星カイトは三脚あるうちの真ん中の椅子にひとりで座っているし、名無星がくぽもその隣、窓側の椅子にひとりで座っている。
いや、だから、言うべきことがなにかあるわけではない。カウンタに据え付けの椅子はひとり掛けだ。カウンタ用の椅子なので座面も広くない。たとえ熱烈な恋人同士とはいえ、ひとりひとりが個別に座ることはむしろ当然の常識であって、逐一取り沙汰するほうがどうかしている。
しかして逐一取り沙汰しなければいけない事態に陥らせてくれる、名無星カイトと明夜星がくぽである。名無星がくぽと明夜星カイトの動揺の原因であり、元凶であり、元締めたるふたりである。
彼らは今日も今日とてキッチンでいちゃいちゃべたべたとしていた。
いや、だから――名無星カイトも明夜星がくぽも、いちゃいちゃべたべたするためにキッチンにいるわけではない。主目的はココアつくりである。
しかしてこちらもある意味まったくいつも通りの通常営業で、主に作業する名無星カイトの背に背後霊もとい、ころもこ毛玉ボール期のこいぬ、あるいは明夜星がくぽがべったり張りついたままであるという。
いつも通り――なにもかもがまったくすべて、これまで通りだ。
明夜星がくぽは相変わらずひどく無邪気であり、邪魔だ。いや、――まあ、あれだけべったりどこまでも張りついたままであると、台所作業としてはもう、邪魔としか言いようがない(これでもソフトな言い方をしたほうだ)。
そしてその、邪魔でしかないはずのものを負った名無星カイトもまた相変わらずで、たまにあごで使うがそれ以外は基本、明夜星がくぽのやりたいようにさせている。
結果、ひと目をいっさい憚らぬいちゃべたを見せつけるおばかっぷるが、これ以上なく美事に完成していると。
しかして本人たち曰く、『そう』ではないという。
「まあ、なんていうんでしょうね…『うまくいったお見合い結婚の夫婦』って感じかな…」
「ああ。それな!」
でき上がってカウンタに置かれたココアを取りに来たマスターふたり、甲斐がそうぼそりとつぶやき、出宵が目からウロコが落ちたとばかりの表情で手を打った。
めそべそになっていた明夜星カイトといえばきょとんとして、傍らに立ったマスターを見る。
「おみゃあいケッコン?」
「あれ?カイトは知らない…?」
こちらこそきょとんとしたように甲斐はつぶやき、その奥に座る名無星がくぽへ目をやった。
確かに近年、『お見合い』というのはそういった専門機関に登録した人間か、さもなければ創作物のうちでしか触れ合わない単語となった。もはや一般的、常識とは言い難い面がある。
ので、明夜星カイトの反応もありといえばありではあるのだが。
目を向けられ、その意図を察して、名無星がくぽは一度ちらりと、キッチンのうちへ視線をやった。
すぐ戻すと(見ていられなかったからではない。と、名無星がくぽはこの場合、意固地となって主張する)、軽くふるりと、首を横に振る。
「『お見合い』や『お見合い結婚』という概念は知っている。が、実態、どういった夫婦となるかまでは知らん」
「ああ…」
「おれはほんとに、あんまりしらないっ!ですっ」
「うんうん」
――名無星がくぽの答えに頷いたのは甲斐であり、次いだ明夜星カイトの得意満面での主張にうれしそうに頷いたのは出宵である。
ココアのカップを鼻先に持っていって香りをたのしみながら(出宵は猫舌である。味はもうしばらくしないとたのしめない)、やに崩れた顔でうんうんうんうんとしきりに頷いた。
「こういうときのKAITOって、すごくいきいききらきらしててかわいいよねえ!うちの子はあんまり見せてくんないから、たまに見られると有り難みが…なんかもう、拝みそう」
「概ね同意だが、俺の恋人だ」
「うんそんで、マスター相手にも容赦なくジェラって捻じこんでくる【がくぽ】がセットだともう、ご褒美としか思えない。んだけど、まだ『ごちそうさま』には足らないかな。わんもあ、ぷりーづ、じぇら」
まったくもって救いようもなく本心からの求めに、そうであると察することのできる名無星がくぽ、こういうマスターを持ったロイドは、非常にナナメな表情となった。
「マスター、厚顔無恥という言葉は…いや、愚問だったな。知っているうえで踏みにじってくるのが俺のマスターだった」
やさぐれ感も満載にけっと吐きだしたロイドへ、そのマスターはなんと返したか?
「愛がふかいっ!」
「『愛が深い』っ?!」
震撼したように叫んだ出宵へ、そのロイド、名無星がくぽのほうこそ震撼して叫んだ。
が、出宵である。もちろんそんな、己のロイドの反応などまるで構わない。立て板に水とまくし立てた。
「愛が深いよ、がくぽ?!なんだその理解度!ちょ、今ボクを泣かせるとか、ナニが狙いだっ?!おこづかい増額?!それともカイトくんとのうっきー☆らっぶなお泊まり旅行?!マスター今なら、なんでも聞く気分っ!」
「聞かでいいっっ!俺がそんな媚び方するかぁあっ!」
――といった感じに、名無星家の主従漫才にオチないオチがついたところで、明夜星カイトは改めて自分のマスター、甲斐を見た。
「で、マスター…」
「え、カイトも希望ですか、うっきー☆らっぶなお泊まり旅行?!じゃあなにか、泣かせてもらわないといけないの、私も?!」
ぎょっとしたように返され、明夜星カイトはにこにこ笑顔で首を傾げた。
「うん、なにいってるのかさっぱりわかんないけど、マスター…どこか知らないけど、ことと次第によってはこのあとすぐ行くよ、おれ?おみゃいケッコンてなに、マスター?」
にこにこ笑顔で淡々と訊く明夜星カイトに、名無星がくぽはわずかに後ずさった。いや、後ずさろうとしたが椅子の上なのでできず、ただ、仰け反った。
対して、本来この笑みを向けられた側、甲斐である。まるで動じることはなかった。
「『おみあい』ね、カイト」
概ね無駄なのだが修正しておき(KAITOの大概は情報の修正や上書きといった作業をしない。手間だからもとい、突き抜けておっとり鷹揚だからである)、甲斐はちらりとキッチンへ目をやった。
すぐ戻すと(見ていられなかったからではない。いや、ほんとうに――甲斐はむしろ、『こう』いうのはかぶりつきで見ていたい性質だ)片手を上げ、親指と人差し指だけを立てた形にする。それでなにかをつまむようにぐにぐにと、関節を曲げ伸ばした。
「今は夫婦になるっていったらまず、『恋愛』ですけどね。わりと最近の昔までは、夫婦になるっていったら『お見合い』が主流だったんですよ。恋情関係なしで、誰かが選んで寄越した相手と結婚するっていうね」
「ぇえ……っ」
――まあ当然、端折りに端折って短絡化した甲斐の説明だと然もありなんというもので、明夜星カイトは非常に渋い顔となった(その隣に座る名無星がくぽも甲斐へと渋い顔を向けたが、これは微妙に意味が違う)。
「それで、だいじょぶなの…?」
なにとは明言できないまでも、しかし不安しか覚えなかったらしいカイトへ、甲斐はこっくりと頷いた。
「『だから』、うまくいったときが強い。『盛り上がって』ない分、『盛り下がり』もないっていうね。フラットに、ヒビ入る余地なく泰然と情が続く」
言って、甲斐は上げていた手を『銃』の向きにし、『バン』となにかを撃ち抜くしぐさをした。
それに素直に瞳を見開いたカイトへ、穏やかに笑うと手を開き、その指を伸ばす。不安を兆してもきらめく瞳で見つめてくるうちの子の頭に置くと、くしゃりと前髪を梳き上げ、掻き撫でた。
「運命のひとっていうのはね、なにも自分でないと見つけられないものじゃないんですよ。よく言うでしょう?『自分のことは他人に訊け』って。存外、『自分』のことって自分ではわからなかったりするし…だからといって、常に成功する方法でもないけどね。こういうのを見分けられて、うまくカップリングできるひとを称賛する言葉もあるくらい……稀有な例ではあるかな」
「…っ」
それで明夜星カイトが反応したのは、『稀有』という言葉だった。『稀有な例』という――
それこそ、うちのおとうとだ。まさに、明夜星カイトのおとうと、明夜星がくぽを表す言葉だ。
なにしろあまえんぼうのわがまま王子には育ったけれど、同時に、とてもできる子であるのが明夜星がくぽというものであるのだから。
そして、その相手となった名無星カイトである――『憧れのカイトさん』である。
これはもう『なにが』ではなく、なにもかもが稀有以外のなにものでもない。なぜならだからこそ、『憧れのカイトさん』であるのだから。
「んっ……っ」
非常に力強く納得した明夜星カイトの隣の席で、名無星がくぽが軽く、額を押さえていた。いや、――まあ、なにしろ甲斐の説明だ。きっと言っていることはそう間違っていないとは思うのだが、言うならつまり、言い方というか。
恋人の懊悩にはいっさい気がつかない明夜星カイトは、その力強い表情をキッチンへも向けた。
すぐそこに『カイトさん』とその背後霊違う→おとうとがいて、駆動系がすべて停止するかと思うほど驚いた。
「ぴっ……っ」
「おまえたちは」
まさになにかのスイッチが切れるような音とともに震え上がった明夜星カイトに、より正確にはカウンタ向こうに集合している面子全員に、名無星カイトはうんざりしたような声を上げた。
「そういうことを陰に隠れて話し合うというスキルはないのか。この距離なんだ。聞かないふりにも限度があるんだぞ。それとも全部、聞いてて問題ない話だったか?」