恋より遠く、愛に近い-第76話-
さて、第66話である。今が何話めであるかはともかく、蒸し返すのは第66話である。
あれこれと中途半端にして進んでいる話ではあるが、あのときも結論に至ることなく中途で終わった話があった(なぜならその話題が出てすぐ、今日のイベント用衣装をどうするかという、あの一連の騒動に兄組も巻きこまれたからである。そして有耶無耶のうちに戻ることなく忘れ去られた)。
つまりあの直前、明夜星カイトは名無星カイトの言動にひとつ、物申していた。
――やるやらないとかより先に……
まず好きだと相手に告げて、それから『やる/やらない』を語るべきではないかと。
対して、名無星カイトである。『少し違う』と返していた。
そして、いったいなにがどう『少し違う』のかということを説明しようとしたところで、あるいは説明するかもしれなかったところで、不肖のおとうとたちが乱入し、話は途絶えた。
蒸し返すのはここだが、実はそう、複雑な話だったわけではない。
問題は言い換えなのである。
名無星カイトが明夜星がくぽへの想い、あるいは対価としてくり返した『やらなければ』という表現、これを、より正確に捉えるにはどう言い換えればいいのかという。
物申した明夜星カイトは、『する/しない』に置き換えた。なにを『する/しない』かといえば、セックスである。
対して、『少し違う』と返した名無星カイトが、もしもより気を遣って言葉を選んでいたならだ。
それは『上げる/上げない』に変換されるものだった。
――まあ、オトナである。精神年齢や稼働年数といったものはさておいて、とにもかくにも名無星カイトも明夜星がくぽも設定上、オトナである。
であればこれもまた、最終的に行きつくところとしてセックスをするかしないかということも関わってはくるだろう。
ただ、明夜星カイトが取り沙汰したのがセックス単体であるのに対し、名無星カイトはもう少し、広い意味を持たせていたというだけのことだ。
セックス単体ではなく、名無星カイト全体を対象と。
だから違いは『少し』――ただし『最終的に』、ひどく遠い意味にもなりかねない『少し』。
どのみち明夜星カイトが腹の奥底から絶叫することにも変わりない『少し』である。
なぜか?
――いや、なぜかと訊くか?訊くのだろうか、あなたは。おそらく訊かないことだろう。
恋ではないなら『むしろ』自分のすべてを与えてやれると歓ぶ名無星カイトに、明夜星カイトが絶叫せずにおれるはずもないのだから。
さてそれでは、その、この世の終わりレベルで絶叫してしまうだろう兄を持つおとうとである。
恋情はないと伝えたなら、ならばやると返されてしまった明夜星がくぽである。会話がキャッチボールだとするなら、誰がどう聞いても失敗しているキャッチできていないボールである。
「へえ?くれるの?」
――いつもの、『あんたはほんとにひとの話を聞かないよね?!』といった嘆きもなく、明夜星がくぽは本心からおもしろそうに受けた。
これもこれで兄の絶叫を呼ぶ態度ではあるのだが、ひとつだけ先に指摘しておこう。
明夜星がくぽは名無星カイトの意図を正確に掬い取ったうえで、受けていた。
『セックスできる』ではない。
『自分を上げる』だと。
「ああ。おまえが欲しいならやれる。恋じゃないんだから」
くり返して、カイトはがくぽの頬をやわらかにくるみ、撫でた。表情はやはり、笑みだ。ここしばらくの肩の荷がやっと、すべて下りたといった。
いや、いったいなにがそれほど名無星カイトの肩に伸し掛かっていたというのか?
「俺はな、………俺も、おまえがかわいいんだ。かっこいいところも含めて、全部、かわいい。かわいいから、強請られるならなんだってやりたい。するなっていうなら聞くし、したいっていうなら………」
そこでふと、カイトの眉はひそめられた。言葉は続かずに消えて、がくぽの頬を撫でていた手も止まる。
ほんのわずかな沈黙、逡巡を挟み、くちびるはようやく小さく開いた。
「………おまえがしたいっていうなら、聞いてやりたい。けど………俺はおまえがかわいいだけなんだ。おまえがかわいいだけで、――恋じゃない。たぶん」
「ちょっと」
語尾についた曖昧に、がくぽが眉を跳ね上げる。先の、第75話で見せたカイトの反応とよく似たそれだ。
一度は沈んだ笑いを戻して、カイトはがくぽの頬を再び撫でた。
「おまえの兄は、かわいいな?俺のことまで心配して、いろいろ言ってきた。それで、もしかしてと思って俺も、俺なりに考えはしたけど………でもやっぱり違うな。おまえを相手に『恋』って当てはめると、『違う』としか思わない。それより、もっと………俺はおまえのすべてが全部、かわいいのに」
「あのね」
やわらかな笑みに対し、明夜星がくぽは半眼を返した。
「兄さんがかわいいことは絶対的に否定する要素がないし、兄さんに育てられた以上、僕も相当にかわいいことは確かだけどね。それでもこうやって全力で『かっこいい』に振り切ってるときに、そうくり返しくりかえして『かわいい』って連呼しないでくれる?あんたの僕は今、『かっこいい』なの。はいっ」
「わあがくぽかっこいいー(→)」
リピートアフターミィと促され、カイトはほわほわとした笑みままのくちびるから果てない棒読みを返した(逆に器用である)。
しかして言わせた相手は誰かと言えば、明夜星がくぽであった。明夜星がくぽなんである。
曰く、名無星カイトのものである――
「ん。良しッ」
「よしよし……」
すんでのところで口に出すのは控えたが、カイトはいかにもかわいげに、ふんすと胸を張るがくぽの頭を撫でてやった。
「で?恋じゃないならあんた、かわいい僕にあんたのこと全部、くれるんだね?」
――かっこいいと言えと言ったその舌の根も乾かぬうちにである。同じ口でである。
いや、言うべきことなどなにもない。なにせ明夜星がくぽである。明夜星がくぽなんであるから。
そして今や、そういった相手にすっかり馴れ、挙句、そういうところも含めてすべてがかわいいと主張する名無星カイトである。
ただ、頷いた。
「ああ。欲しいなら欲しいだけ、全部、やれる」
迷いもなく言いきって、名無星カイトは身を伏せた。こつりと、がくぽと額を合わせる。近すぎて逆に見えにくい花色が、それでもしっかりと自分を見つめていることを感じた。
胸がきゅうきゅうとする――きゅうきゅうとして、けれど窮々とはしない。追いつめられ、追いこまれる感覚もなく、ひたすら安らいでいられる。
「おまえがもし、恋していて、それで俺としたいっていうなら………俺は体はやれるけど、恋は返してやれないからな。おまえのことがどれだけかわいくても、――どうあってもかわいいから、どうしても恋は返してやれない。それで体だけやったりしたら、おまえがどれだけ傷つくか、わかんないわけじゃないし………もしも恋なら、どれだけ望まれても、体はやれない」
「イタズラはしてもね」
混ぜっ返したがくぽに、カイトはわずかに額を離した。笑う。
「しないぞ?――確定したらな。『そう』ならもう、絶対にさわらない」
笑って吐く言葉はやわらかく、けれどうちに秘めた意思は固かった。きっとほんとうに『そう』であったろうと、疑いも霧散するほど。
ぱちぱちと花色を瞬かせたがくぽは、すぐ、げっそりしたようにカイトの肩に懐いた。
「そんなことされたら、僕が泣くとは思わないの。かわいいかわいい僕が泣いたりしたら、あんた、すごくつらいでしょうが」
それは、そうされる自分がかわいそうだという話ではない。
そうされて傷つくであろう自分が問題なのではなく、そうすることでより深く傷つくであろう、カイトを案じた――
カイトは笑ったまま、がくぽの頭を抱えこんだ。懐く頭にことりと頭を凭せ掛け、よしよしと後ろ首を撫でる。
「いいだろ。どっちみち、『そう』はならなかったんだから」
さばさばと、起こらなかった未来の悲劇を切り捨て、カイトはがくぽの頭に懐いたまま目を閉じた。
かわいい男だ。愛おしさもある。
それでもこの愛おしさは、『恋』とは一線を画す――どうしても相容れない、相違するもの。
であっても、そう。
「まあでも、大団円ってもんだよね。そうでしょう?これでめでたく間違いなく、僕とあんたは『両想い』ってことだもの」
――なぜか明夜星カイトが、腹の底の底から絶叫する声が聞こえた気がする。
それでふと、モニタを見たカイトは目を細めた。なるほど、おとうとの出番であった(おそらく、だからといって上げた絶叫ではないだろうし、それで上げるだろう絶叫と今の絶叫は方向性が違う。まったく違う。挙句にそもそも、幻聴である)。
釣られたようにがくぽも目をやり、なぜかステージに立つ相手の実兄たるカイトより緊張したふうに、腰や背に回していた手に力をこめた。
どうしたのかと目をやったカイトを見返すことなく、がくぽはモニタを見つめている。さらに、さらにその手に、腕に、力が入った。
「………そういえば、今がおとうとってことは、おまえの出番も近いな」
ぽそりとつぶやき、カイトは片手を上げた。拳にして、ふるりと振る。
「緊張か?気合い入れるか?」
――第73話を参照されよ。
その拳を見て、一拍遅れて明夜星がくぽはいやそうな顔となった。膝上でたのしげなカイトへ目をやり、ちらりとまた、拳を見て――
「わかった。いいよ。入れて」
「良し」
なんの諦念なのか、目を閉じてくちびるを引き結んだがくぽに、カイトは上機嫌で返した。ふるりと振った拳がほどけて開き、同時にもう片手も上がると、がくぽの両頬を挟む。
次の瞬間、がくぽが意図を察したときにはもう、くちびるにくちびるが重なっていた。
「ちょ、むくっ………っ」
しかもの挙句の果てで、抗議に思わず開いた口のなかに、カイトは遠慮のえの字もなく舌まで捻じこんできた。
べれべれべろべろと好き勝手に口のなかを掻き回され、舌をしゃぶられ、――
「ぁ………あんた、僕、これから、でば………っ」
「心配するな、明夜星がくぽ」
ようやくくちびるが離れたときには、取り返しもつかないほどがくがくぶるぶるになっていた明夜星がくぽへ、名無星カイトは濡れたくちびるを舐めずりつつ、会心の笑みを閃かせた。
「おまえが今日、もしも失敗したりしたら、俺がきっちり責任とって抱い…慰めてやるし。ちゃんとうまくやれたならご褒美に俺のこと、抱かせてやるから。どっちに転んでも、おまえに損はないだろ」
「その流れで『損はない』って結論に辿りつくとこ、あんた、ほんとKAITOだよねっ!」
やっていられないとばかりに叫び、がくぽは仰け反った。椅子の背に思いきりもたれ、首も逸らせて天井を眺める。
「でもなんか、できそうな気がしてきた」
それはいつもの明夜星がくぽの言動から考えれば、しょうしょう意想外な言葉だった。本番前は誰であってもナーヴァスとなりがちだが、だとしてもだ。明夜星がくぽが、明夜星がくぽもまた、『そう』であると。
カイトは腕が緩みさえすればすぐにも膝から下りる姿勢を整えつつ、ふぅんと鼻を鳴らした。
「つまりおまえ、俺を抱く気だと」
「あんたが抱きたいなら、好きにすればいいと思うけどね。だってあんた、僕がかわいいんでしょう」
「まあ、そうだけどな」
気負いもなく言うがくぽの手は、未だカイトの腰にある。離れる様子も見えず、カイトは小さく肩を落とした。
改めてといった調子でがくぽに向き直ると、仰け反る胸をとんと軽く叩く。
「ほら。口…ぱげはげだろ。行く前に直してやるから」
口のなにが『ぱげはげ』かといって、つや感うるみ感を増し増しにしてくれていたグロスである。どうして本番も直前になってそう無残に『ぱげはげ』となったかといえば、カイトが容赦なくべれべろと舐め回したからである。
「なにをひとごとみたいに…」
ぶつくさと言いつつも、それでようやくがくぽは手を離した。もはや手遅れとしか思えなかったものの、カイトは衣装にこれ以上、しわやよれをつくらないよう、慎重に下り――
鏡台の前に行き、グロスを手に取ったところで落ち武者もとい、あとを追って来たがくぽに背後から伸しかかられた。
「おい」
伸し掛かられてはグロスを塗れない。鏡越しに渋面を返したカイトを、その顔を、花色が覗きこんだ。
「聞いて上げるよ。あんたが言うならね。どっちがいいの?」
「…」
鏡のうちで、カイトが瞳を瞬かせる――
意味を探る、考えこんだ時間はわずかで、カイトはすぐ、瞳に光を戻した。鏡越しにがくぽを見返して、わずかに仰け反り、抱えこむ花色と直接に見合う。
「慰める気はあるけど、おまえがヘコむのはあんまり好きじゃない。泣き顔もかわいいし、そそるけど、俺が慰めるのはおまえにまた笑って欲しいからだ」
迷いもなくはっきり言い渡し、そこでカイトは笑った。やわらかに、甘く、これ以上なく熱っぽく――
「なによりおまえから先にもらうなら、処女より童貞だろ。『おまえ』はそっちのほうが喪失率、高いんだから」
くり返す。カイトが浮かべ、がくぽへ向けた笑みはやわらかに甘く、これ以上なく熱っぽいものだった。それで言ったのが、これである。これを言いながら、やわらかに甘く、これ以上なく熱っぽい笑みを。
しばし陶然と、呆然と見入ってから、がくぽは疲労困憊とばかりにカイトの肩に額を懐かせた。
「おい?」
まるで他人事扱いにどうしたと訊いた名無星カイトへ、明夜星がくぽはどう返したか?
――そんなこと、ほんとうに知りたいだろうか。
いや、まあ、そうだ。出宵のときとは違う(比較対象は第70話である)。きっと知りたいことだろう。
ひとつ確かに言えることがあるとしたならだ、この結果、名無星カイトは(ステージ袖ながら)明夜星がくぽのライブをナマで観覧することとなった。
そして戻って来た明夜星がくぽをいのいちばんに迎えると、頬を上気させ、瞳を潤ませての熱烈なハグとともに『かっこいい』と――
で、さらにこの結果だ。
クロにあと一歩のグレーであった噂、ふたりが『お付き合いしている』ことはもはや疑いようもない、まったく揺るがない事実として周囲に認知された。然もありなんである。
それで一部のKAITOがまた、『カイトさんのヒミツをまもる会』みたいなものを結成したりしたわけだが、そしてその後、案外とても機能したりした会であるわけだがしかしだ。かかしだ。
遠目ですら『そう』としか見えない雰囲気をまったく憚らず振りまいている時点で、この会の活動の困難さがまず慮られるわけだが、しかして結成メンバーにしろ途中入会者にしろ、誰ひとりとしてそこを問題視しなかった。
会員は全員がかかしなのか?
――いいえ、全員がKAITOです。