「……は?」
声も一段小さく、ぼそりと付け足された不確定に、カイトは思いきり眉をひそめた。ご満悦であったせいながら軽く弾んでいたがくぽと対照的に、短く発した声にはドスまで利く。
恋より遠く、愛に近い-第75話-
その不機嫌に近い顔を臆することなくごく間近に覗きこんで、がくぽは曖昧にした笑みで首を傾げた。
「だって違うんだもの、兄さんのときと。あんまりあそこまで、なんか、追いこまれるっていうの?そういう気持ちにならないんだよ、あんたといても、あんたと離れてて、あんたのこと思い出しても…気になるし、大事にしたいって思うし、――独占して、誰にもさわらせたくないって、あんたは僕のものなんだからって、思うんだけどね」
思うだけでなく、明夜星がくぽは口に出しても『そう』主張するし、行動でも『そう』示す。
たとえば結局、今日まで彼らの行動が変わることはなかった。
三日と空けずに逢う。
いやもうそうだ、『会う』ではない。『逢う』だ。傍から見れば。ただ顔を合わせるだけでなく、必ずなにかしら、『そう』としか思えない爪痕を残していくのだから。
けれどふたりは言う。異口同音に、口をそろえて、『そう』ではないと――
しかして相変わらずふたりはもう、お付き合いしていることになっているし、否定も面倒だからと放置しているものだから、噂はどんどんずんずん広がってもはや、取り返しもつかない。
それでも家族が訊けば、言う。
『そう』ではない――
「まあ、あのときはまだ、そこまで思ってなかったと思うけど。でも、いやだなって、あんたのこと、僕だって大事にしたいなって思った初めは、あのときだよね」
なんとなし、一周回ったらしい。がくぽの話は始まりに戻り、さばさばと括られた。
「それで、まあ、でもどうしたらいいか、よくわからないし。とりあえず手あたり次第に試してみようと思って、ほら、行動って言葉遣いに引きずられるっていうでしょう。だから『俺』よりもやわらかい感じがする『僕』に一人称を変えたら、なんか、あんたにそんなに当たらないでも済むんじゃないかって…そこから」
――要するに、よくわからないまま当たってしまったことをあまえんぼうのわがまま王子なりに反省し、対策を練った結果が一人称の変化であったと。
そうだっただろうかと記憶を漁りかけたカイトだが、まだ少し早かった。うっかり括られたものとしてしまった話だが、まだ終わっていなかったのである。つまりだ。
「初めて言ったときはさ、あんた一瞬、さすがにヘンな顔したけど…でもなんか反応、こっちのほうが甘やかしやすいみたいだったから。なおさら、じゃあいいかって。だから別に、ムリしてないんだよ。ほんとに」
「ちょっと待て」
その流れでどうしてこの結論をつけたのかと、カイトの眉間にははっきりとしたしわが刻まれた。
どうしてこの流れで『だから別に』で『無理をしていない』という結論に繋げられるのか。
いや、確かにこの寸前の説明まで、反省して対処したというところまでであれば、繋がらないこともない。しかし補足だ。追加された、付け加えられた条件だ。
最終的に『そう』するとした決め手は、カイトの反応であったという。
カイトの反応がいいことと、がくぽに無理がかからないこととは等価とならない(なることもある。が、ならないことも多い。一概に言いきれないところである)。
いかに明夜星がくぽが意味不明を成型して服を着せたものだとしてもだ、この結論に関してはいつものように流してやれない。
しかして声に出して糾弾するまでもなく、渋面となったカイトからそういったことを読み取ったらしいがくぽはむしろ、呆れた顔となった。ごく間近に寄せていた顔を離すと、ことさらに上から睥睨してくる。
それではるかなる高みより明夜星がくぽ、言って曰くである。お聞き給え。
「気持ちよく甘やかしてもらったほうが、僕だって気持ちよく甘えきれるってものでしょう。たかがこれだけのことで思いっきり甘やかしてもらえるんだったら、なにが苦になるっていうの」
「ぅ゛んっ……っ」
――ぐぅの音は出なかったが、呻くことはできた名無星カイトである。
さすがにこれまでの付き合いがある。これが、ヘタな気をヘタに遣った挙句、明後日の方向へがっ飛んでしまった答えなどではなく、いっさいの嘘偽りも誤魔化しもない、明夜星がくぽ、こころから誠実な答えであると、カイトにもわかった。いや、誠実というか、真っ正直というか。
なんでもいいが、とにかく疑いの余地もなくわかったわけだが、今度こそほんとうに『ムリはしていない』というのに納得もしたが、しかしだ。かかしだ。
無性に田んぼの真んまん中に立ち尽くし、沈みゆく夕日を眺めたい気分である。BGMはただカラスの鳴き声のみ、而してもしもカエルが鳴こうものなら、途中であっても帰らねばならない――
いや、今さらである。今さらなんである。なんといっても明夜星がくぽである。明夜星がくぽなんである。むしろこの答えに落ちなかったなら、明夜星がくぽではない。
――といったふうに、うっかり迂闊に逃避へ飛ばしてしまった思考を戻すべくカイトが奮闘している間に、がくぽはまたその体を自由に抱き直していた。
囲いこまずともどうやら逃げられないという確証が得られたせいか、伸し掛かって押さえていた体を解放し、転がすのではなく座らせる形に変える。
それで今度、カイトが気がついたときには上にいたはずの相手が下にいた。下にいるのだからどうしたって上目遣いになるというものを、さらにことさらに背を撓めた下から目線の上目遣いで、がくぽはカイトを覗きこんだ。
「僕はちゃんと答えたよね?えらいでしょう?あんたに親切にしたよね。じゃあ今度はあんたが、答えにくいこと答える番だよね」
「………あー…」
錯視であり、幻視であって現実ではないことは、わかっている。けれどカイトの目には、そう得々として告げるがくぽの頭にいぬの耳が見えた。尻には尾だ。ぶいぶいぶいぶい振り立てられている。かわいいったらない(大丈夫、完全に投げている)。
そういえば話の腰を強引にへし折って、気になっていたことを先に吐かせたのだった。
とはいえどうしてそうも強引にしたかといえば、実のところ、答えにくいことを訊かれていたからではない。
思いついたときに勢いで捻じこまないと、またしばらく訊けずにいるような気がしただけのことだ。つまりKAITOにありがちな、記憶容量をそうそう食わせておいて堪るかという。
で、ならばなにを訊かれていたかといえばである、名無星カイトは明夜星がくぽのライブまでナマで観賞せず、モニタ越しで済ませる気なのか――
というのが、だいたいのところであった(より正確に思い出したいのであれば、第74話を参照されよ)。
名無星カイトがおとうとのライブをナマで観賞しないのは、そのほうがおとうとのパフォーマンスが上がるからだ。
明夜星がくぽのパフォーマンスがそれで上がると言うならナマで観賞することに抵抗はないし、――
素直にとても、うれしい。
そういうわけで、ぶいぶいぶいぶいと尻尾を振り立てて期待しているころもこ毛玉ボール期のこいぬには悪いが、カイトはためらいもなく答えを出した。
いや、『出そうとした』。
わずかに早く、がくぽが先に口を開いた。花色が揺らぐことなく、天上にある揺らぐ湖面を仰ぎ見る。
「あんた、溜まってるの?セックスしたいのに無理に我慢して、負担かかってたりする?」
「っ」
開きかけたカイトの口が反対に、きゅっときつく、引き結ばれた。ほとんど無邪気な――無邪気としか言いようのない瞳で覗きこんでくるがくぽを鋭く見返し、見合って、――
ふいに緩むと、カイトは引き結んでいたくちびるもほどいた。笑みの形にしながら、どうしても膝に上げて囲いたがる男にしなだれかかる。
「――答えにくいのは、俺じゃない。おまえのほうだろ、この質問」
以前も訊かれた。第72話だ。それで、名無星カイトは逆に訊いた。だったらどうするのかと。
先に問い、答えを待っているのはむしろ、カイトのほうだ。
溜まっていたとして、だとしたなら明夜星がくぽはどうするのか。
最前、第41話で言っていたように、誰か知らない適当な相手で発散してきたカイトとともに風呂に入り、気が済むまで洗えばいいのか、それとも――
しなだれかかった体を拒むことなく容れて、がくぽの手はカイトの腰から背を辿り、首筋を押さえた。後ろ首を撫でるように短い髪を梳きながら、口元にきた耳朶へ吹きこむ。
「だめだよ、カイト――あんたそうやって、この間も誤魔化したでしょう。まず、僕の質問に答えて。あんたはどうなの?」
「………」
しなだれかかり、懐いたまま、カイトは瞳をぱちくりと瞬かせた。
答えを待っているのは自分のほうだとばかり思っていたというのに、あまえんぼうのわがまま王子曰く、違うという。
待たされているのはカイトではなく、がくぽのほうこそであると。
きょとんとしながら思い返し、考えて、カイトはゆっくりと身を起こした。
起こしてしまえば、下から覗きこむ花色がある。きれいな色だ。きっとおとうととまったく同じ色合いであるというのに、濁ることも歪むこともなくカイトを見て映す。
触れたいと思って、手を伸ばすのはいつも名無星カイトのほうだ。触れられて、いつも拒まないのが明夜星がくぽであり――
わかりやすい訊き方に変えてくれたものだなと、カイトは考えた。がくぽである。あまえんぼうのわがまま王子で、説明無能力で、面倒はすぐ投げる。
そう思わせておいて、こういったときに【がくぽ】としての真価を発揮する。やればできる子なのである。
――あんたはどうなのと。
明夜星がくぽは答えた。先に。
『これは恋ではない』と。
ならば名無星カイトは『どう』なのか。名無星カイトはどうして明夜星がくぽに触れたがり、実際、触れるのか。それは単に覚え馴れた肉欲を堪えきれないだけなのか、募る恋心が溢れてのものであるのか。
「………おまえは、恋じゃないんだよな?」
「うん。じゃない」
まっすぐ見合って訊いたカイトに、まっすぐ見合う瞳を逸らすことなく、迷うこともなく、がくぽは返した。
『違う』と返しながら、背に回った腕に、後ろ首を撫で梳く手に、あえかな力が入る。堪えきれず、咄嗟に、どうしても。
『だからといって離さない』――
それでも恋ではない。恋ではなく、――
独占欲があって、けれど執着とも違う。慈しむこころがそこにあって、まず労わられる。庇い守られて、同時に頼みにされて求められる。
言うなら、愛はある。
ないのは恋だけだ。
そう、ないのは恋だけなのである。
誰と言うなら、――お互いに。
ふいにふわりと笑みほどけ、カイトはがくぽの頬へ手を伸ばした。包むようにやわらかく当て、撫でる。
「良かった。おまえが恋じゃないなら………俺はやれる」
浮かべた笑みは今までにないほどのしあわせに満ちて、きっと明夜星カイトが見ていたなら腹の底から絶叫していたことだろう。
どうしてその結論でこの笑みなのだと。