恋より遠く、愛に近い-第72話-
「っ?!」
普段を考えればおそろしいほど遠慮がちに、おどおどとしたふうにぽそっとこぼされ、明夜星がくぽの表情は盛大に引きつった。
然もありなん――第67話でひとを嵌めようと掘った墓穴に、自らこそがまんまと嵌められたのだから。
古人はよく言ったものである。ひとを呪わば穴二つと。
そして美事なまでに嵌められた明夜星がくぽである――
そう、嵌められた。
とてもよく嵌まった。
かいしんのいちげきもいいところだった。ゲージはエンプティ間際まで削られた。現実にいったいなんのゲージがあるものかは知らないが。
引きつり仰け反る明夜星がくぽの肌が、見る間に赤く染まり上がっていく。いや、嵌められたことへの怒りによるものではない。
非常に珍しいことながら、完全に羞恥だった。羞恥と言おうか、中てられたと言おうか――
「なんなのあんた………なんなの。本気なの?」
「まあ…」
いろいろこみ上げるものがあるらしい。明夜星がくぽは口元を押さえ、のどにかかって引きつる声で吐きだした。
それへ返す、名無星カイトである。その熱量の差である。
先のあれはなんだったのかという、醒めきった表情と声で、いつも通りかより以上に淡々と返した。真っ赤に染まり上がってわなつく明夜星がくぽから上手に目を逸らし、手に持っていた衣装を掲げて矯めつ眇めつとして。
明夜星がくぽは潤む花色の瞳を眇め、そんな名無星カイトを睨みつけた。こくりとのどを鳴らすと、口元を押さえていた手を名無星カイトへ伸ばす。
肩を掴んで引き寄せると、深く沈んで揺らぐ湖面の瞳を間近から覗きこんだ。
「じゃあ、あんたの言葉で言って。そしたら考えてあげる」
「………」
非常に高みから降りてきたご託宣に(もはや『上から目線』では『低い』と思うほどの高み感だった)、名無星カイトは湖面の瞳を瞬かせた。きょときょとと、間近にあって揺らぐことのない花色の瞳を確かめる。
しばらくそうして見合い、結局、先に視線を逸らしたのは名無星カイトのほうだった。
肩を掴まれ逃げられないなか、視線だけを泳がせ、くちびるを迷いにもごつかせ――
「………いらない気を遣うな、甘ったれが。おまえはいつもみたいに胸を張って堂々と、いっちかっこよければそれでいいんだ」
どういうわけか、名無星カイトの表情は悔しげに見えた。吐き出す声も言葉も投げるようにぶっきらぼうであり、合わせず逃がした目を眇め、――
同時にその目元が、ほのかな色を刷く。
この名無星カイトに、明夜星がくぽはなんと返したか?
「いいよ。――あんたがそう言うなら、聞いて上げる」
「………」
即答だった。間断を置かず、熟考どころかまともに思考した形跡もなく、明夜星がくぽは即座に返した。
声音は甘く、あまりに蕩けて甘く、熱っぽく、名無星カイトは完全に意想外を突かれ、明夜星がくぽへ愕然と顔を向けた。
そんなふうに見返されたところで、明夜星がくぽだ。明夜星がくぽなのである。まるで動じることなく、しかし先に上らせた朱は未だ色濃く、名無星カイトの視線を受け止めた。
「かっこいい僕が見たいってことでしょう?いいよ。あんたがそう望むなら、いくらでも魅せて上げる」
声は甘く、蕩けて熱っぽく、そしてどこまでもはるかに高みからの上から目線で、明夜星がくぽは自信たっぷりであった。いや、そもそもこの、あまえんぼうのわがまま王子が自信なく発言することがまず、ほとんどないわけだが。
なにしろなんのスキルもなかったとしても、愛されて育った自分にだけは常に自信満々である明夜星がくぽだ。
スキルもなにも関係なく、明夜星がくぽはただ自分が自分であるだけで、自信に満ち溢れていられる――
しばらく愕然と眺めていた名無星カイトだが、ふいに笑いほどけた。いつの間にか肩から腰へと回っていた腕に体を預けると、声に相応しいだけの熱量で見つめる花色の瞳を、ふわりとほどけて見返す。
「たのしみにしてる」
負けず劣らずの甘さと熱量を返され、明夜星がくぽの表情が莞爾と裂ける。その笑うくちびる、紅を塗らずとも艶やかに朱を刷くそこへ瞳が吸い寄せられ、名無星カイトは手を伸ばした。
その手が届くことなく半端に止まったのは、なんのこともない。つまりである。
「すごく納得いかないんです……なんであれで『ちがう』っていうの?おれまたなんか、話、置いてかれてる?ます?」
「えっとごめんなさいねほんとうちの子がっていうかあれ今のうちの子?うちの子だけ?なんかがっくんもそれなりに」
「マスターよ、五十歩百歩だ」
「えぇとじゃあ、謝るの私のほうってことですか?でもカイトくんもなかなかけっこうめに」
「マスターどもよ…五十歩百歩だ」
――この一幕のうちに、たまごきのここと簡易シェルターのそばには全員が集合し、猿人座りで円陣を組み、頭を寄せ合って会議を踊らせていた(三人寄れば文殊の知恵と言うが、人数は四人だ。あるいは人間二人にロイド二人であり、どのみち『三』ではない。ゆえに踊るのである。もちろんかの格言の意味はそういうことではない)。
いや、『全員』とは言ってもより正確には、名無星カイトと明夜星がくぽは除く。
ところでそもそもたまごきのこもとい、簡易シェルターとはなんのための『シェルター』であったかという話である。
「つまり喧嘩両成敗で三方一両損だ」
「あんたさそれ、誰と誰がいつした喧嘩のなにを三等分割してどこの三方向になに名目の負債として抱えさせたわけ?」
平静な顔で重々しく締めながらも、実はもっとも目をぐるぐるとさせている名無星がくぽへ、明夜星がくぽは容赦なく突っこんだ。なにせ明夜星がくぽである――
相変わらず名無星カイトの腰を抱きこみつつも、明夜星がくぽの体はソファのほうへ半歩、出ていた。自らを盾とする、いつもの構えだ(名無星がくぽ曰く『ナイト』であり、名無星カイト曰く『過保護』な)。
それで非常にいやそうに訊いた明夜星がくぽだが、目も思考もぐるぐるになっている名無星がくぽが答えることはなかった。その兄のほうが先に口を開いたからだ。
「がくぽ、おまえ、情緒不安定な相手を追いこむんじゃない」
――そう、名無星家においてたまごきのここと簡易シェルターとは、いかなるときに運用されるものかということだ。
情緒不安定なときである。
不安定に陥った情緒を落ち着かせるための『シェルター』なのである。
つまりそこに集っている以上、名無星カイトにとっては現状、全員が全員、情緒不安定であった。
全員だ。絶望的な状況もあったものである。そう陥った理由はまったく知らないし、知る必要があるとも思っていないが。
端然と諭した名無星カイトを、明夜星がくぽはひどく不満そうに見た。
「あんたはすぐそうやって、おとうとの肩を持つ」
「兄だからな」
ほとんど言いがかりでしかない明夜星がくぽの言葉にも平静に返した名無星カイトだが、ふと気がついた顔となった。
ぱちりと瞬くと、ひどく無邪気に明夜星がくぽを見つめる。
「でもどれだけおとうとを庇ったとしても、――おまえとおとうとがおんなし顔でもな?俺はおまえにキスしたいと思ったり、実際したりするが、おとうとにはないぞ」
無邪気というか、なんだかちょっと得意げな言いだった。ゆえに反って無邪気であるという。
こんなことを言われた明夜星がくぽといえば咄嗟に返すこともできず、凝然と名無星カイトを見た。
その周囲では、明夜星カイトがきゅううっと拳を握り、固唾を飲んでおとうとの答えを待っていた。その隣では名無星がくぽがなんとも表現し難い表情を晒してくちびるをわなつかせ(なにも言うべきではないがなにか言いたいがなにを言えばいいものかという――少なくとも名無星がくぽは恋人ほど素直に、全面的には兄と義弟とを応援してやれていない)、傍らに座るマスターふたりは手のひらをきつく口に当て、迂闊にも迂闊なことを言ったりしたりすることがないよう、動きどころか息すら止めていた。
そう、各々の思いは違え、この場に集った全員が、明夜星がくぽの答えを待っていた。
名無星カイトの、このあまりに無邪気な『告白』に対し、明夜星がくぽはいったいなんと返すのか――
明夜星がくぽが凝然と、名無星カイトをただ見つめていた時間は実は、そう長いことではなかった。
誰にとっても永遠と同じほどに長く感じられたものだが、息まで止めていたマスターふたりが限界を超えることはなかったのだから。
明夜星がくぽは答えた。名無星カイトを凝然と見つめたまま。
「情緒不安定なのって、もしかしてあんたのほうなんじゃない?」
「っがくっむぐagggg!!」
――ちょっとあんまりにもあんまり過ぎるおとうとの返しに、明夜星カイトは思わず叫んだ。そしてほぼ同時に、傍らにいた恋人とマスターふたりの、三人がかりで押さえこまれるという憂き目に遭った。
そういった、咄嗟に三人がかりで明夜星カイトを押さえこむという非道に出た名無星がくぽ、出宵、甲斐であるが、こころは同じだった。
いくらどうでもあんまりにもあんまり過ぎるだろうという。
いったいこの世に返しがいくつあるとしても、ここまでのものもそうはない――
さて、名無星カイトである。肝心要、言われた当人である。彼はどうしたか?
笑った。
いや、そう、『笑った』だ。『嗤った』のでも『嘲笑った』のでもなく、『笑った』。
それで手を伸ばすと、真剣な面持ちで覗きこんでくる相手の頬に触れる。話を逸らしたのでもなく、からかったのでも、悪ふざけでもない、ただほんとうに真剣にまじめに案じる花色と見合って、改めて笑う。
「かもな?」
こちらはからかうような、軽い口調の名無星カイトの返しに、一瞬、明夜星カイトを押さえこんでいる団子が膨れ上がった。猛烈に異議申し立てを行いたい明夜星カイトの力に、押し負けかけたのである。三人がかりである。
大丈夫、三本の矢は折れにくいだけであって、まったく折れないわけではない。
そんな周囲の静かな(音としては静かなんである)攻防に構うことなく、明夜星がくぽはただひたすら、名無星カイトだけを見ていた。
「休むなら、ベッドに運んで上げるけど。そこの椅子でもいいし」
「そうだな」
適当に返しながら、名無星カイトは目を伏せた。ことりと首が傾いで、明夜星がくぽの肩に懐く。頬を撫でた手も落ちて、明夜星がくぽの肩から腕へとやわらかに辿った。
甘えるしぐさにも見えるし、強請るようでもあり、――
少なくとも『そう』ではないとは、決して見えない。
しぐさ同様、やわらかな笑みを浮かべる名無星カイトに、明夜星がくぽは瞳を細めた。くちびるがきつく引き結ばれ、腰を抱く腕に力が入る。
「っと……」
体を撓められそうな力に、名無星カイトが顔を上げるのとほとんど同時だった。上げた顔はすぐに下がって、名無星カイトは首を傾げた。
ふしぎそうにしている名無星カイトを見上げ、その体を軽々抱いて腕に乗せた明夜星がくぽは眉をひそめた。
「それで?どうするの。どっち希望なの」
「ああ…」
どうやら『運んで上げる』ために抱えられたらしいと察し、名無星カイトは曖昧な声を返しつつ、明夜星がくぽの首に手を添えた。
これはあまえんぼうのわがまま王子であるはずなのだが、たまに単なる王子へと堕するよなと思いつつ、キッチンへ顔をやる。
「まだココアができてないから」
「あーーーっ!ココアぁっ!!」
――明夜星カイト、こころからの叫びである。これはもう、恋人もマスターも、三人がかり程度で止められるものではなかった(一応まだ、『団子』の状態は維持しているが)。
なんだかんだばたばたしてすっかり忘れていたが、そういえばココアをつくり始めたところだった。
それも初めの初め、だまを潰すところで苦戦して、飲める状態にまったく持っていけていないのである。せっかくのココアが!ようやくなし崩しに、名無星カイトからつくり方を教えてもらえていたというのに!!
さすがに明夜星がくぽもちらりと目をやり、くんずほぐれつ折り重なっての団子となっている四人の様子に(いや、くんずほぐれつはしていない。どちらかといえば固まって動きがない)わずかに眉をひそめた。
が、すぐに名無星カイトへ視線を戻す。一歩、足を引いた。ただし、『ではキッチンへ』ではない。
「疲れてるときに、ひとのことやろうとしないでくれる?ベッドでいいね?」
「『情緒不安定』っていう相手を、ひとり寝させようとするなよ。寂しくって、もっと不安定になるだろ?」
「………」
笑って頬を撫でる相手の言いように、明夜星がくぽはさらに眉をひそめた。他意もなさげに笑う名無星カイトを見つめ、窓辺の椅子へ目をやり、キッチンへ、廊下との境界たる扉、その先へ――
一巡して視線を戻し、明夜星がくぽはひどく胡乱な声を上げた。
「もしかしてだけど、あんた…………………情緒不安定な理由って、溜まってるから?」
「ごっふっ!!」
――吹いたのは、名無星がくぽである。なにを吹いたかと問われると難しいが、少なくとも『吹き出した』=『笑った』と同義ではないことだけは確かだ。
そしてその名無星がくぽに、無垢な恋人のほうは意味がわからず首を傾げていたが、出宵は肩に手をやってなだめるようにぽんぽんとあやし叩き、甲斐は甲斐で上手に目を逸らしたうえで合掌していた。
そういったふうに、まったくもって外野がやかましいことこのうえない現状である。
ちらりと確かめた名無星カイトは、揺らぎもせず自分を腕に抱え上げたままの明夜星がくぽへ身を撓めると、その頭を覆うように抱きついた。
「ちょっと…」
きゅうっと締め上げられ、明夜星がくぽがくぐもりながらも抗議の声を上げる。聞く耳を持たず、名無星カイトはささやいた。
「だったらおまえ、どうしたい?」
「っ」
この問いに、明夜星がくぽは固まった。完全に固まって、けれど名無星カイトを抱えた腕は揺るがない。離すことはなく、力が緩むこともなく、――
覆っていた頭を解放してやり、名無星カイトは凝然と見つめる明夜星がくぽの、空白に近い花色の瞳を覗きこんだ。促すようにとんと、胸を押し叩く。
「ココア飲むだろ?ほら…」
下ろせと。
やわらかな笑みとともに乞われても、明夜星がくぽは微動だにしなかった。揺るがず名無星カイトを抱え上げたまま、離すことも力が緩むこともなく、離してやろうとも、力を緩めようともせず――
花色が刃に似た光を放ち、名無星カイトを見上げる。
刺し貫かれて目を離せなくなった名無星カイトに、明夜星がくぽはわなつくくちびるを開いた。
「……れ、は」
強い、あまりにも強くつよい思いに負けたのどが潰れて掠れ、そういう声で明夜星がくぽは唸るようにこぼした。名無星カイトをきつく、強くつよく見つめたまま。
「俺は、あんたのほうが、ずっと大事だ――あんたが、大事なんだ、カイト」