恋より遠く、愛に近い-第73話-
「さてそれから、なにもないままなし崩しにとうとう、本番の日です」
「ぉ、おお………?」
控室に入った途端、両手を胸の前で組んだお祈りポーズの明夜星カイトに潤む瞳で迫られ、珍しくも名無星カイトは完全に圧倒された。
呑まれてつい、一歩下が――りたかったが、扉を閉めてしまっていた。下がりようがない。
やられたなと、名無星カイトは内心で舌を打った。打開策を探し、室内に素早く視線を巡らせる。
だからそもそも、『控室に入った途端』なんである。これはまったく言葉通りであり、字義以外に読まねばならない行間はなにもない。
よってゆえに、いったいどこからどうつなげたなんの話であるのかがまず、まったく不明なわけだが。
ところで『そもそも』を言うなら、そもそもだからまずいったい、今はいつで、ここはどこかという話である。
これに関しては実は、明夜星カイトの言葉がほぼほぼ答えとなっている。
本日は『本番の日』であり、今は会場の控室である。
なんの本番かといえば【がくぽ】を集わせて行うイベントの本番であり、名無星家と明夜星家のコラボ曲お披露目の本番である。
というわけで、『会場』というのはそのイベントが行われる場所であり、その演者用の控室が現在地となる。
ところで先回、KAITO絡みのイベントに出演した際は(第1話である)、基本的に演者は数組ずつ合同で控室を利用していた(少なくとも明夜星カイトは合同利用だった。名無星カイトは一組一室であったが、これは主催がかのチートスキル、KAITOころりなKAITOキラーによる無用な混乱を避けるため設定したものだ。この特別待遇について、名無星カイト以外からはことに異論も反論も上がらなかったことを付記しておく)。
対して、今回である。名無星がくぽと明夜星がくぽは、ふたりで一室をもらっていた。ひとり一室ではないが、格段の扱いには違いない。
これはソロ曲のみならずコラボ曲までやるということについて、運営側が過大に配慮した結果である。
各ソロ曲はともかく(ともかくなんである)、コラボ曲に関しては今回のイベントの目玉のひとつとされている。ために、打ち合わせや諸々がやりやすいようにと、こういった扱いになったわけだ。
で、名無星カイトである。
本日はヘルプなお手伝いさんとして、裏方入場した。
それで今の今までどこでなにをしていたのかといえばだ、とりあえず知り合いに片っ端から声を掛けられ、捕まり、なし崩し的なあいさつ回りを済ませてきたところであった。
本来的にはKAITOころりでKAITOキラーである名無星カイトだ。
顔がもっとも利くのもその界隈ではあるが、つまり彼らにも家族がいたりするし、あるいは友人の友人は友人といった図式で、KAITOに限らず相当に顔が広い。
なかには関係を持ったことのある相手もいたりするわけだが、基本、後腐れない形でしか付き合わない名無星カイトだ。特に面倒なことも――
ないこともなかった。
なぜなら現在、名無星カイトは渦中のひとなんである。あの名無星カイトにもとうとう『本命』ができたと、もっぱら噂なんであった。
少なからず名無星カイトへ好意があればこそ関係を持った相手もいたりしたりしたから、おかげで今回はそこそこ面倒な思いをしないこともなかった。
で、そういう、いつもより微妙に疲れるあいさつ回りを終え、ようやく控室に逃げられたもとい、辿りつけたと思ったらだ。
これだ。
「なにも…なんにも進展がないって、あそこまでヤっておいて、今日までなんにもないって、……っ」
「あー……」
言い方である。『あそこまでヤっておいて』と明夜星カイトは言うわけだが、あそこまでとはなにをどうしたことを言って、ヤったとはなにをどうしたことを言うのかという。
そんなたいそうなことをヤった覚えは、名無星カイトにはない。ヤられた覚えもだ。きっと明夜星がくぽも『そう』答える。
で、その明夜星がくぽである。肝心要の、この控室の主のひとりである。
すでにほとんどの準備を終えた彼は、なんだか妙にひだるそうな様子で椅子の背に凭れ、座っていた。
ところで余談とはなるが、名無星カイトは扉を開けるや否や明夜星カイトに絡まれたわけだが、明夜星カイトはならばいつ、扉の前にスタンバイしたのか?
――答えは『名無星カイトが扉を開くほんの数秒前』である。
名無星カイトと同じく、本日はヘルプなお手伝いさんとして入場した明夜星カイトである。
そしてこちらはまっすぐ控室へ行き、ヘルプなお手伝いさんとして正当的にふたりの着つけだの、スタイリングだのといったことの面倒を見ていた。
が、ふと顔を向けたかと思うや、てってってーと扉の前に行きスタンバイ→至ル冒頭↑↑↑である。
兄にはそういうところがあると、明夜星がくぽは知っていた。ロイドにありやなしやで未だ結論の出ない議論のさなか、直感様のもののひとつである。
KAITOは非常に正確に、的確に、必要なひとの来訪を必要以上に捉える。
だからきっと、あのひとが来たのだろうと――
「まともに相手にしなくていいよ、カイト。兄さん、最近たまにヘンになるんだよ。無視していいから」
「ぅううっ、がくぽ……っ」
初めこそひだるそうに座っていた明夜星がくぽだ。が、珍しくも名無星カイトがたじたじとなってうまく対応できていないことを察すると、なかなかに薄情なことを言いながら立ち上がった。
溺愛するおとうとの酷薄も過ぎる評価に、そうでなくとも潤み目であった明夜星カイトの瞳がますます潤む。わりとはっきり恨みがましい目を向けた兄だが、おとうとは一顧だにしなかった。
その花色が一途に見つめ、映していたのは、兄が絡んでいた先、名無星カイトだけであったからだ。
珍しくも素直に圧され、背を扉に張りつかせていた名無星カイトの前に立つと、明夜星がくぽは当然のようにその腰へ手を伸ばした。
ほんの一瞬、されるがままに抱きこまれた名無星カイトだが、すぐに相手の胸を押すと体を離させた。とはいえつくれたのはわずかな隙間で、腰に回った手はがんとして離れそうもなかったが――
「………これで『完成』か?」
「ああ、うん。見違えるでしょう」
上から下までゆっくりたっぷりといった感じに視線を流す名無星カイトに、明夜星がくぽはほんとうに若干ながら、体の間につくった隙間を広げてくれた。
結局、ほとんどあの日の(あの日とはいつかといえば、第65話から前話までである)話し合い通りの衣装となった明夜星がくぽである。
白を基調とした軍服(もどき)は、飾緒や徽章をふんだんに配置して豪奢に飾り立てた。長い髪は細かく編みこんだブレイズ仕立てであり、さらに花飾りやリボンでデコレーションまでしているという。
主に髪型の効果だろう。軍服ではあるが、いわゆる『お堅い帝国軍人』といった雰囲気ではない。
が、さすがに【がくぽ】だ。こうもパンキッシュに仕上げながら最後のさいごで上品さを失わず、雅やかですらある。意味不明も極まるとはこのことだ。
とはいえこれは【がくぽ】であるからというより、『明夜星がくぽ』であるからだろう。
つまり、第67話で言っていたことである――ああいった、根拠不要の自信に満ち溢れていればこそ、どんなスタイルも負けることなくこなせるという(根拠不明=わからないのではない。不要=いらないのである。『それ以外の思考処理を禁じる』のであれば、根拠などあってもなくても『それ以外の処理はできない』のであるから、もはや根拠などいっさい必要ないではないか)。
可能な限りで下まで眺め、名無星カイトは瞳を細めた。
「別に見違えはしないけど。おまえはいつだってかゎ…かっこいいんだし。でも今日は、いつもよりきらきらしてるな」
「そういうのを見違えたっていうんだよ」
ふんと傲岸に鼻を鳴らし、明夜星がくぽは隙間を埋めんとばかり、名無星カイトの腰を抱く腕に力をこめた。観賞もひと通り済んだのだからいいだろうというのと、あとひとつだ。
「言っておくけど、僕のこと『かわいい』なんて言っちゃうのは今だけだからね。いくらあんただって、ステージに出た僕を見たら『かっこいい』しか思わないし、言えなくなるんだから」
――そういうことをこう、つけつけしながらも言ってしまうからさらに『かわいい』評価がうなぎ上りで胸がきゅうきゅうなのだが。
むしろ反って呆れたような心地となり、名無星カイトはいつものように腰を抱く明夜星がくぽへ眇めた目を向けた。
まず目に入ったのが、くちびるだ。紅を塗らずとも朱を刷くくちびるだが、それでもさすがに今日はグロスを塗って光沢を増している。おかげできらきらしているし、うるぷるつややんとしていかにもうまそうだし――
ついうっかり見入り、名無星カイトは片手を上げた。
が、その手が届くことはなかった。
なんのことはない。ここは扉前であるという話だ。出入りがあれば必然、邪魔にされるという。
で、いったいどこの勇者がこのふたりを邪魔扱いしたのかといえばだ。
「………すまんが、そろそろスタンバイしたいのだが」
道を開けてはもらえまいかと――
より正確に言えば、『邪魔扱い』というほどの強さはなかった。名無星がくぽである。
こちらのほうは結局、あれこれと衣装が変遷した挙句、最終的には深藍色を基調とした衣装に落ち着いた。モチーフコンセプトは相変わらず夜会服なわけだが、上着を飾り立てて派手にするのではなく、下に着るシャツ(の襟や袖)を華やかなフリル仕立てとすることで落ち着いた(とはいえ上着の生地はラメ入りであるので、ライトが当たればきらきらと輝き、相応に派手ではある)。
そういうわけで袖と襟をびらびらさせている名無星がくぽである。びらびらの襟をきれいに結んでくれたのは恋人である。意気軒高と――
「ちょっとなにこのカオ悪いの!あ、違った、顔色悪いの!」
「………カオが悪いで問題ない気がするが」
「がが、がくぽっ!カイトさんもっ!!」
思わず盛大に引きつり、明夜星カイトが叫ぶ。が、まったくもってそれも仕方がない。
相も変わらずオトナゲの片鱗もないことを叫んだおとうともおとうとだが、その腕に抱えこまれた名無星カイト、名無星がくぽの兄もである――
とはいえ名無星がくぽは実際、とても顔色が悪いもとい、カオが悪かった。色の問題ではない。表情、あるいは醸す雰囲気がもう、悪い以外のなにものでもないのである。
今にも吐きそうな風情で、瞳は死んだ魚、背は丸んで撓み、まったく覇気がない。
どうしたのかともしも訊かれるなら、今、本人が言った通りだととりあえずは返す。そろそろ出番が近いのである。コラボのほうではなく『名無星がくぽ』個人の。そう、つまり――
頑強に名無星カイトの腰を抱いたままではあるが、明夜星がくぽは片手を上げた。拳にして、軽く振る。
「なんなの、ほんとに…緊張してんの?気合い入れて上げようか?」
珍しくも慈悲溢れる声音と表情の、あまえんぼうのわがまま王子であった。
上げたのは拳で、振っているのも拳で、おそらく曰くの気合い入れとやらは、きっとその拳で行われるのであろうと推測するが、通常、そういった種類の『気合い入れ』とはせめて平手で行うものではなかったかというか、この期に及んでどこにどれだけの力でもって入れる気なのか。
さて、提案を受けた側である。名無星がくぽである。花色の瞳を死んだ魚に、虚ろな空洞と化している名無星がくぽである。
当然のように、思考も虚ろの空洞であった。
明夜星がくぽが振る拳を見て、その背後の扉を見て、うつむき、腹を押さえてその手を見る。
ふいと顔を上げるとこっくり、頷いた。
「そうだな。入れてもら…」
「待ってがくぽ待って!」
ボケに大ボケを重ねる【がくぽ】に、明夜星カイトはKAITO従来の処理速度を超え、素早く間に割り入った。
この場合、彼が制止したのは恋人とおとうと、両方だ。
もちろん明夜星がくぽは本気ではなく、気つけのジョークのつもりで提案している。
兄であれば、明夜星カイトもそれは理解していた。しかして兄であればこそ、明夜星カイトはさらに深くおとうとを理解していた。
であっても、おとうとは乞われればやる。
『ジョークなんだけど?』などといって興醒めすることもなく、そうまで追いこまれている相手であればむしろ慈悲のこころをもって――
本番直前?どこにどう、どれだけのダメージを?
――大丈夫、明夜星がくぽである。いっさい加味しない。いっっっさい!
「かぃっ、かいとさ…っ」
自分ひとりで【がくぽ】ふたりを止められる気がしていない明夜星カイトが、恋人とおとうとの間に割り入って万が一に備えつつ、みゃあみゃあと鳴き縋ってくる。
名無星カイトは眉間に寄ったしわに指を当て、揉んだ。
どいつもこいつもどいつもこいつもこの立てこんでいるときに不思議と余裕があるように感じるのだが、気のせいだろうか。
いろいろ嫌気が差しつつも、名無星カイトは時間をそう、無駄にはしなかった。眉間からすぐ指を離すと、その手で腰を抱く明夜星がくぽの腕を軽く、叩く。
解放を求められ、不承不承ながらも明夜星がくぽは手を緩めた(離すことはなかった。しかし出ようと思えば出られる程度には緩めた)。
そこから未練もなくすんなり出た名無星カイトはことさらに背を撓め、憔悴するおとうとを下から覗きこんだ。くちびるが開き、烈火のごとき喝が――
「がくぽ。俺はここにいる」
こぼれたのはやわらかに、静かな声だった。
感情の起伏もなく淡々と、だからといって冷たさもなく、名無星家の長男は凪いだ湖面のような静けさでおとうとに告げた。
「俺はここにいる。――ちゃんと、時間までには戻って来ただろ?おまえがやってる間は、ずっと必ずここにいるから――さっさと行って来い」
「……兄」
死んだ魚の目がわずかに揺らぎ、覗きこむ兄を映す。それへ、名無星カイトはふふんとせせら笑いを返した。
「モニタでは観てるからな。まさか、気の抜けたパフォーマンスなんかやってみろ?」
こんな腑抜けのままステージに出たなら、どうなることかわかっていようなと――『名無星カイトのおとうと』であるに恥じない振る舞いを見せろよと。
こじれるほどに尊ぶ兄から発破をかけられ、名無星がくぽの瞳に見る間に光と生気が戻る。覗きこむ兄を鋭く見返すと、不敵にくちびるを開いた。
「当然だ。っと…」
――言い返す途中で腕に恋人が飛びつき、名無星がくぽは口を噤んだ。
咄嗟に見た恋人はぷくうと頬を膨らませ、どこか懸命に名無星がくぽの腕に組みついていた。
「おれは、ナマで観に行くからねっ。ナマで観るからっ、がくぽ!」
目を合わせないまま、反対されても聞かないという頑強さで言い張った恋人に、名無星がくぽはやわらかく瞳を細めた。
「……それはそれで、当然だろう?でなくば張り合いもない」
空いているほうの手が上がり、組みつく恋人の頭を撫でる。尖らせた目を細め、明夜星カイトは恋人の腕に擦りついた。兄が好きで、兄を尊敬していて、ともすれば兄にこころ奪われがちになる――
片がついたと見て伸ばした名無星カイトの腰に、即座に明夜星がくぽの腕が絡みついた。ぐっと引き寄せられ、名無星カイトは半ばよろけるようにして明夜星がくぽの胸に背を預ける。
「おい」
危ないだろうと顔だけ振り返らせた名無星カイトに、明夜星がくぽは『にっこり』笑った。『にっこり』笑って、改めて握った拳をひらりと振る。
「あのさ、やっぱりこいつ、殴っていい?いいよね?本気で殴る。一発だけだし、もちろんいいでしょう?」
――『にっこり』にこにこと承認を求められた、名無星カイトの答えである。
「終わったらな…………………ふたりで改めて、話し合え」
先に治めたはずの頭痛がぶり返したといった風情で眉間に指を当て、名無星カイトは疲労困憊とばかりの力のなさで吐き出した。