前回よりおよそ一ヵ月後である。
名無星家のキッチンに、憧れのカイトさんとようやく並んで立てた明夜星カイトはちょっと、死に態となっていた。
なぜか。
恋より遠く、愛に近い-第65話-
「………いや?特に進展とか、そういったことはないな」
名無星カイトがそう、答えたからである。
しかも、あからさまに『がーーーん』という表情となった明夜星カイトへ、(おそらく慰めようとしたのだとは思うが)こう、付け加えたのだ。
「心配するな。イタズラはしているから」
「むしろ心配しかないッ?!ですよねっ?!」
そう、まったくもってほんとうに、心配しかない――なにせ名無星カイト曰くの『イタズラ』とは、若干、微妙に、ほんのり結構めに性的な意味合いを含むのだから。
挙句、その『イタズラ』している相手とは明夜星がくぽ、明夜星カイトが溺愛するおとうとである。これでいったいなにを心配するなというのか。
明夜星カイトがわりと本気の涙声で叫んでしまったのも無理からぬというものだろう。
そして至ル→死に態である。
淀みなき結論とはこういうことを言う(たぶん)。
なにせあれから一ヵ月だ――一ヵ月だ(二回言うのは大事なことだからである。三回言うのは、それが真実だということだ)。
名無星家と明夜星家のコラボ企画は順調に進み、すでにロイドたちのうた録りはほぼ終わった。
手始めにやった馴らしのカイカイ曲とがくがく曲はもちろん、その次のロイド⇔マスター入れ替え曲に、兄とおとうとを取り換えての曲、それに最後の、名無星家きょうだいと明夜星家きょうだいの四人全員でうたう曲――
すべて終わった。
終わっちゃったのである。
ほかはともかく、後半の兄とおとうとを取り換えての曲など、つまり明夜星がくぽと名無星カイトのふたりきりだ(実際はマスターもいる。うた録りの場合、決して真なる意味での『ふたりきり』はない)。
ふたりで声を合わせ、こころを重ね、ついでに手とあれこれも――
だというのにだ!
それでおとうとと名無星カイトの間柄になにも進展がないなど、あの日(だいたい第46話から前話までである)、明夜星カイトが振るった蛮勇がほんとうに蛮勇でしかなかったと、そういうことになるではないか。
そう、あの日の明夜星カイトはわりと意識的に、返品も覚悟でお節介を焼いた。いつものように突き抜けた無邪気さゆえの、直感頼りの言動ばかりではなかったのである(その企みにKAITO特異の直感様のものが大いに助けとして働いたこと自体は否定しない)。
もとよりおとうとから名無星カイトへの気持ちはうすうす察していた。機微に疎いKAITOとはいえ、明夜星カイト、伊達のブラコンではない(ブラコンゆえ、自分への愛は逆に『当然過ぎ』て恋だと思わない)。
それが、だからあの日だ。
話を聞いていてみればどうにもこうにも不審が募り、おそるおそる探りを入れてみればどうやら、名無星カイトもおとうとを憎からず思っているようなのである。憎からず思っているというか、『そう』でないならもう、この世にそんな感情は存在しないというほどの。
こういった、両片想いとでもいうべき期間なら、明夜星カイトにも覚えがある。名無星がくぽとの間でだ。あのころのことを懐かしく、甘酸っぱい気持ちで思い出すこともある。
しかしだ。かかしではない。はっきり言おう。
『甘酸っぱい』と思うのは、過ぎ去ったからだ。
無事、両想いとなった『今』であるからこそ、思い出がおいしい違う→うつくしい。
懐かしめるのはあくまでもことが済んだ『今』だからであって、当時は必死だった。甘酸っぱいどころか、ニガ酢っぱカライだ。毎日がオッフェンバックだった。
多少、経験するのはいい。あとで振り返ればときめきを思い出すよすがともなるし、多少は経験しておいてもいいだろう。
が、多少だ(二回言うのは大事なことだからである。三回言うのは、それが真実だからだ)。
そんなにいっぱいはいらない。
――と思ったから蛮勇を振るって余計なお節介もしたというのに、まったく甲斐がなかった。
人間にしてもロイドにしても、馴れないことはするものではないと――
いうわけでもない。
崩れ落ちそうになってキッチンの作業台に縋りつつ、明夜星カイトは懸命に自分へと言い聞かせていた。
『なにも進展がない』というのはあくまでも主観的な話であって、客観とは異なるからだ。
なぜなら一ヵ月後の現在、明夜星がくぽと名無星カイトとは、対外的には恋人同士ということになっているからである。なぜか。
「ほ、ほんとになんで………こんなことに」
ぐすべそと力なくぼやく明夜星カイトから、名無星カイトはふいと顔を逸らした。それは後ろめたさだ。
なぜならどうも、自分が失敗した結果らしいからである。
つまりだ、名無星カイトはこの一ヵ月のうちに、何人かから訊かれたのである。
――明夜星がくぽと付き合ってるってほんとう?!
だいたい、こんなような意味合いのことをである。
で、名無星カイトである。なんと答えたか?
いや、――答えなかった。言葉では。
肯定の言葉も否定の言葉も発することはせず、名無星カイトはただ、にっこり笑ったのである。にっこり笑って、立てた人差し指をくちびるに当て、『しー…』と。
先に言っておけば、名無星カイトとしては『まだはっきりしないから、静観してくれ』というお願いのつもりだった。
まだ、自分の気持ちも相手の気持ちもはっきりしないから、騒ぎ立てて掻き回さないでほしいと。
ただ、質問した側だ。『(付き合ってるけど)ヒミツの関係だからナイショにしてv』と受け取った。
なぜならそうとしか見えず、聞こえなかったからである。
名無星カイトの笑みだとか、しぐさの含む色香であるとか、口調に声音、あとはそもそも、だからここしばらくの明夜星がくぽとの距離感や接触や、こうした質問をせざるを得なくなったすべてのことが。
それで、名無星カイトが自分が失敗したらしいと気がついたころにはもう、なにか、取り返しがつかないことになっていた。確定しきっていたのである。
名無星カイトは明夜星がくぽと恋仲となったのだと。
で、とても温かく――
――だいじょぶ、心配しないでっ!カイトさんのヒミツ、ちゃんとまもるからっ!!
なんでこうなったと相応に慌てた名無星カイトに、友人知人たち(名無星がくぽ曰く、親衛隊かフリークかグルーピー)は拳を握り、ふんすふんすと力強く請け合ってくれたものだった。
あなたは彼らの篤き友情に涙ぐんでもいい。こうなったKAITOにはもう、決して話は通じない。もはや涙ぐむくらいしかできることはないのだから。
おかげでちょっと珍しくも意識を飛ばしかけた名無星カイトに、明夜星がくぽは呆れ返ったとばかりのジト目を向けたものだった。
――もう、あんたはほんと、KAITOなんだから………仕様がないな。
ところで名無星カイトと明夜星がくぽ、両人は与り知らぬことであるのだが、結局、噂を最終確定させたのはこの明夜星がくぽの言いであり、態度であった。
だから明夜星がくぽも、肯定も否定もしなかったのである。
対外的に反応したことといえばほんとうにあれだけで、受け取り側の前提条件によっては『ヒミツを漏らしちゃうなんて仕様がないなw』としか聞こえない。
しかもそのときはいわば『外』であり、複数人と立ち話をしていたわけだが、明夜星がくぽは委細構わない様子で名無星カイトの腰を抱いていた(そこでもう『ヒミツ』などどこにもないように感じるのだが)。
本人曰く、倒れられたら困るでしょうとのことだが、周囲の証言曰く、その話題となる以前、会った瞬間からわりと普通に腰に手が回っていたという。
だけでなく、周囲からはわかりにくいが実は意識を飛ばしかけに動揺している名無星カイトを守る形を取り、ごく自然と自らの体を盾とした(初めのころ、だいたい29話あたりまでだが、名無星がくぽ相手によくやっては反感を煽っていたあれである。いや、今でもけっこう、名無星がくぽを非常に複雑な気分に陥れているが)。
ジト目と言ったが、最終的に名無星カイトへ向ける眼差しであり、対して周囲を睥睨し、牽制する目つきだ。
『がくぽあるある』である。
恋愛によってバランスを崩し、『マスター』相手にすら平然と牙を剥く、あの、狂気にも近い――
さらには、その明夜星がくぽの態度や扱いを当然と容れる名無星カイトの様子だ。
『そう』でないならもう、この世に『そう』であるものなど存在しなくなる。
という。
だというのに本人たち曰く(そう、『たち』、複数形である!)、『そう』なった覚えはないと。
しかしてだから、ならばどうしてまず噂になったのかという話である。
三日と空けず会っていたからだ。暇か。
――ではないから、噂にもなるのである。
一ヵ月前のあの日までも、確かに彼らはよく会っていた。ただし互いのオフが重なったとき、重なった日に、明夜星がくぽが名無星家を訪れるという形がメインだった。それこそ彼らの関係は家族にすら明確でない、『ヒミツ』のものであったのだ。
それがあの日以降、外でも会うようになった。外で、たとえば次の仕事への移動を少し遠回りし、相手の仕事場へ顔を出していくといった。
五分、捻出できたら会いに行く。
明夜星がくぽから名無星カイトへ、名無星カイトから明夜星がくぽへ、あるいは明夜星がくぽと名無星カイト、ふたりの中継点となるところで待ち合わせ――
どういうことかお分かりになるであろうか。あなたはこれをどういうことか、ご理解いただけただろうか。
つまり彼らはお互いの予定を、場所も時間もすべて完全に把握している、いや、『し合っている』ということである。下手すると分数単位で把握している。でなければ、とてもではないができるわざではない。
こういう話もある。
あるとき明夜星家三人で行った仕事が急遽、先方の都合で場所替えとなったことがあった。
急遽だ。皆が皆、ばたばたと慌ただしく移動準備に動き回るなか、兄はふと心配になり、おとうとへぽつりとこぼしたのである。
――カイトさん、ここに来ちゃったらどうしよう。
それに、おとうとが返した答えである。『なんで?』だった。
――来ないよ?移動先なら、俺が顔出すほうがスムースでしょう。そう伝えたらあのひとも『じゃあ待ってる』って。
当然のこととばかり、明夜星がくぽはなにに手をつけるより先に名無星カイトへ連絡を取り済みだった(ちなみにこの会話はこのあと、マスター:甲斐ともやっている。もしかしてカイトくん来ちゃうんじゃないがくぽ、連絡しておいたほうがと言いに来たマスターに、今さらなに言ってんの以下略)。
まあ、このころにはつまり、彼らが互いの予定を完全に押さえたうえで逢瀬を重ねていることが周知の事実と化していたという話でもあるのだが。
ところで周囲の認知のみならず本人たちも自覚ある恋人同士、名無星がくぽと明夜星カイトである。
同じ期間、彼らの逢瀬は一週間から十日に一回程度だった。お互いのオフがうまく重なった日、重なった時間だけである。
途中、おとうとがやっていることを知った明夜星カイトもなんだか発奮し、同じことをやれないか、考えてみたことがある。五分で挫折した。
いや、こんなことで見栄を張るべきではない――
三分ともたず、めげた。考えただけで、である。
なぜなら考えてみてほしい。あなたは考えられるだろうか。こういったことが平然とできるタイプだろうか。ならば言うことはなにもない――
相手のスケジュールを完全に把握したうえで自分のスケジュールを確認。それで互いの場所からの移動距離、あるいは移動手段と移動時間を割り出し、最終的にどこで、どの程度の時間が逢瀬に割けるかを考え、行くと決めたらルートを最終確定してそれを相手にも了解してもらい、かつ、相手の立てたルート選定も改めて把握し、すり合わせ、以下略。
「ムリですごめんなさい。おれ、おれ、――愛が、たらなぃの……っ?」
ちょっと考えただけでも必要データの膨大さ、煩雑さと計算量に、もはや顔色というか、瞳からも光を失った明夜星カイトへ、名無星がくぽは諦念も色濃い顔でゆっくりと、首を横に振った。
「すまん。正直、俺も無理だ。兄も兄でそれでどこがKAITOかという話だが、おまえのおとうともどうなっている……」
お互い、一ヵ所に留まってする仕事ではない。あちこちのスタジオや局、会場や店舗を渡り歩くし、その滞在時間など、一定であることがいっそない。しかも完璧に組み上げたとしても、先に述べたような、突発事態は日常で起こる――
名無星がくぽと明夜星カイトの愛がうすっぺらいわけでも、根性が不足しているのでもない。ふつう、無理なんである。
が、三日と空けず、顔を合わせていた。名無星カイトと明夜星がくぽだ。忙しい仕事のさなかを縫って。
しかも相手が来るとなれば、どうしても気がそわつくものだ。見られるとなれば、力が入り過ぎて逆に空転してしまうこともある。
結果、ろくでもない失敗をやらかし、もう二度と顔を合わせられないと思うほど落ちこむ――
毎回まいかいそうではなく、いい格好を見せられるときもあるだろう。
とはいえリスクが高いことは、間違いない。
そういった観点からも、名無星がくぽと明夜星カイトにこの方式は無理だった。たとえどれほど相手を恋しく、ひと目でもいいから直接に逢いたいと思う日が続いたとしてもである。逆に精神的負荷が高過ぎる。
名無星カイトと明夜星がくぽ?
彼らは平気だ。パフォーマンスは変わらない。いっさい狂わない。上がることもないが、下がることもない。
淡々とこなし、淡々と相手を迎え、あるいは淡々と相手に向かう。
淡々と、どこのおばかっぷるさんと比べても熱烈に、過ぎて深く、強く。
正直に言おう――明夜星カイトはもういやだった。ほとほと、嫌気が差していた。
いったいどうしてこれで『そう』ではないのだ。どうしてふたりして口をそろえて『ではない』と答えるのだ。仲良しか。そうだ仲良しだ、過ぎて仲が良い。けれど『そうではない』という。
意味不明にもほどがあって、もはや狂気の沙汰だ。
「いったいなにしてるの、ふたりとも…っ」
他人事ではあるが微妙に他人事とも言いきれないふたりのやりように、明夜星カイトは本気の涙声で呻いた。
逸らしていた顔のうち視線だけちらりとやり、名無星カイトはまたすぐ逸らした。カウンタの向こう、リビング側を見やる。くちびるがうすく開き、ため息にも似た声がこぼれた。
「そうだな。――なにしてるんだろうな、ほんとに」