さて、よくよく考えてみるに(実はよくよく考えるまでもなく)、ここ数か月の明夜星カイトといえば災難続きであった。
恋より遠く、愛に近い-第46話-
ほとんどが明夜星カイトに対する周囲の過ぎ越した愛情からによるものであるわけだが、とはいえ耳を塞がれ話から置いて行かれ、挙句の果てには一服盛られる(この『一服盛られ』た件だけは若干の検証を要するが)――
そのうえ最愛のおとうとには微妙な距離を置かれたままで原因も解決のよすがもさっぱり掴めず(そう、明夜星カイトにはさっぱり掴めない)、しかもなんだか最近となれば『乗り換え』られた気配が濃厚芬々という。
その明夜星カイトの立て続く災難だが、本日この日、とうとう最高潮を迎えた。
で、まず『本日この日』がいつであるのかという話だが、名無星カイト曰くの『次のとき』であった。明夜星家と名無星家合同企画の打ち合わせ、あるいはうた練習のため、各マスターとともにKAITO同士、【がくぽ】同士で集まる日。
基本、集合場所はそのうたを担当するマスターの家だ。さもなくば指定されたスタジオか。
たとえば【がくぽ】同士であれば、当楽曲の担当マスターは名無星出宵であり、前述の通り、名無星家は簡単な機材なら置いてある。ために、だいたいのことが家でできる。
出宵の方針(経済的事情、あるいは経済観念とも言い換える)もあり、本録り以外はスタジオを借りないのが通例である。
ので、この日も明夜星がくぽが名無星家を訪れた。
そして例のあの、窓辺の椅子に明夜星がくぽが座り、その前の床に名無星がくぽが胡坐を掻くというスタイルで仲良く(ここは大事だ。非常に大事なところである。ゆえにくり返そう)、とても仲良くうたの練習に励んでいた。
前回と違うことがなにかあったかといえば、まずひとつには名無星出宵が不在であったということだ。
同時進行していた別の仕事が立てこんで時間通りに終わらず、一時間か二時間か、とにかく遅参するということになった(これは先方へ出向いての仕事だったから、そうなった)。
となるとまあ、企画も最初のほうでロイドが自主的に行えることといえば練習、譜面をもとにうたいこむくらいである。
今回はそうでなくとも、攻略に力を割かなければいけない部分がすでに判明している。
そういうこともあり、名無星がくぽと明夜星がくぽとは仲良く(そう、ここはやはり大事だ。大事なので何度でもくり返そう)、とても仲良くうたの練習に励んでいたわけである。
さらにもうひとつ、前回と違う――もとい、意図的に変えたことがひとつ、あった。明夜星がくぽの携帯端末の置き場所である。
ポケットだのバッグだのに仕舞いこむことなく、椅子のすぐ前の床に置いた(初め明夜星がくぽは、端末を椅子の肘掛けに置いた。そしてすぐに落とした。少し注意を怠ると肘を当ててしまう場所で、案の定、肘を当てたのである。で、拾って次、尻の下に敷こうとしたものだから名無星がくぽが見るに見かね、自分の傍ら、床へ置くよう促したわけだ)。
これで前回(この件は第37話に詳しい)の轍を踏まずに済む。つまり兄からの連絡に気がつかないという、『兄さん大好きっこ』である明夜星がくぽにとっては悪夢以外のなにものでもない失態――
念には念を入れてで、名無星がくぽの携帯端末もその隣にそろえて置いた。これでますますもって万全というものではないか!
なかった。
嵐は唐突に訪れた――備えはまったく役に立たなかった。これは実は、いい教訓である。
備えに備えたところで、嵐に遭うときは遭う。そして備えに備えたところで、まったく役に立たないこともままあるという(だからといってなにも備えなくていいということではないのが、実はこの教訓のネックである)。
どういったことであったのか、まず要旨だけ説明するなら、今回、兄たちはおとうとたちへ連絡を取らなかったのである。
連絡をくれなければ、連絡を受けようがない――これはまったき真理というものである。検証の必要もない。
が、いったいどうして兄たちは、おとうとたちへ連絡を寄越さなかったのだろう?
いや、連絡しないだけならまだしも、いったいどうしてそれが『嵐』とまで喩えられてしまったのか?
答えはやはり簡単で、『嵐』、災難としか言えない勢いだったからである。ことに、名無星がくぽと、なにより明夜星カイトにとって。
だから、名無星がくぽと明夜星がくぽとが例のあの『KAITO進行』について(ところで『例のあの』と言われても『KAITO進行』がなんであるか思い出せないようであれば、第35話が詳しい)、四苦八苦の練習を仲良く(さあ、これで三度目の主張である。つまり大事以上に真実であるということだが)、とても仲良くやっていたときである。
もうひとつ言うなら、そろそろ一度、休憩を挟もうかという頃合いでもあった。
これは少しポイントとなるところであるのだが、『終わらせようか』という時間ではなかった。休憩を挟み、熱の篭もった、あるいはこりこりに凝った頭をリフレッシュし、もう一度――
というところで、玄関が開く音がした。なぜか?
いや、『なぜか』とはなにか?
先にもポイントとしたが、時間だ。兄たちが終えて訪れるにも早く、遅参の出宵が駆けこんでくるにも、少し早い。
なにより、彼らの在所だ。リビングである。
しかもいるのは窓辺だ。廊下と繋がる扉からも距離があるが、そもそも扉は開け放しておらず、きっちり閉まって空間を遮断していた。ましてやふたりして声を上げ、うたっている最中だ。
ごく普通に玄関扉を開けたのであれば、ここまで音が響くことなどないのである。
それが、開けられたのだとはっきりわかるほどの音が轟いた(一応註記しておけば、マンションあるあるの空気圧の変化であれば、『ごく普通』と表現する。そういうレベルではなく、『音が轟いた』のである)。
――それだけでもなんとなし、嫌な予感を抱くに十分であるが、ほぼ間断を置くことなく、廊下とリビングダイニングとを隔てる扉も開かれた。それも叩き破るように乱暴にである。出宵がいたなら、『そこはオトコノコ仕様にしてないからふっつーに壊れるからぁっ!』とでも絶叫しそうな(ところでこの家でオトコノコ仕様にしてある家具はおそらく、第7話でも言っていたカウンタチェアのみかと推測される)。
が、くり返す通りに出宵は不在であり、代わりに(そういうわけでは決してないのだが、しかし結論的には代わりに)、怒声が轟いた。名無星カイトの。
「立てがくぽっ!この甲斐性なしのうつぼっ!!」
「ぅ、つぼっ?!」
――兄が怒り心頭であるということは名無星がくぽにも十全に伝わったが、しかし続いた意味不明も極まる罵倒語である。なんとなし、言いたいことがわからないではないが、しかし意味不明な接尾語の罵倒である。
ところで相変わらずややこしいことに、ここには名無星がくぽと明夜星がくぽと、【がくぽ】がふたりいるのであるが、名無星カイトがどちらを呼んだか、ふたりして聞き間違うようなことはなかった。
呼ばれたのは名無星カイトのおとうと、名無星がくぽである。
時間にもならず、なぜかそうそうに帰ってきたかと思えば、いきなり怒声である。
相手は兄である。
いつもの名無星がくぽであれば即座にキレて怒鳴り返していてもおかしくはない状況であったのだが、まあ、だから、罵倒なんである。その接尾語、締めくくりだ。
『甲斐性なし』で止めておいてくれればすっきりとキレるだけで済んだのだが、続いた『うつぼ』は微妙に脱力ワードだった。信じられないだろうか?あなたはそんなことがないと思う?
ならば一度、誰かに言ってみてもらうといい。結構めに、どうしてか脱力する。脱力と言おうか、気が削がれると言おうか(ただしこれは『個人の感想』である。もしかしたならあなたは脱力しないかもしれないし、気が削がれもしないかもしれない。が、『個人の感想』とはそういうものであるから了承いただきたい)。
とにもかくにも名無星がくぽはつい、気が削がれた。勢いに乗りきれなかった。
なにしろ、よく馴染んだ兄の人柄というものがある。
確かに名無星家のロイドきょうだいは(最近はずいぶん落ち着いたものの)寄ると触ると喧嘩をしたし、その喧嘩とは、掴み合いだの殴り合いだのとまではならなくとも、容赦のない怒声と罵倒の飛び交う激しいものだった。
とはいえそういったとき、らしからずらしからぬと常々言われる名無星カイト、名無星がくぽの兄は、やはりらしからずらしからぬで、非常に理路整然とおとうとを罵り、貶すのである。
KAITOによくある思考の突飛さはなく、むしろ【がくぽ】の得意分野で堂々、おとうとを蹴り下す(ためにますます、おとうとの劣等感やらあれやらこれやらがすくすくと育ったりするわけだが、それは今回、脇に置いておく)。
それがいったい、なにがあったというのか――
たかがひと言とはいえ名無星がくぽの受けた衝撃はそこそこのもので、一瞬、束の間、気が削がれた。
一瞬で、束の間だ。
そしてその一瞬の束の間に、次の瞬間には勢いを取り戻せただろう炎を完全に鎮めるものが続いた。
明夜星カイトである。ねこみみ付きの。
「ちょ、ちょーーーっ!カイトさんカイトさんカイトさん待ってまってま……っ!」
勢いよく扉を蹴り開けた(そうとしか思えない勢いで、音だった)名無星カイトのすぐ後ろから、こけつまろびつといった有り様で、明夜星カイトが追ってきたのだ。ねこみみ付きで。
で、たまたまそこでほんとうにこけたのだか、もとよりそうするつもりであったのだかは微妙に不明だが、名無星カイトの腰に組みついた。より正確に言うと、しがみついた。あるいは、縋りついた。
どれであっても、同じである。
ねこみみ付きで。
――これで気が削がれないなら、名無星がくぽの愛情はその恋人からすら疑われても仕様がない。
そう、これで名無星がくぽの気は完全に削がれた。正しく『目が点』である。
しかもの挙句でである。
完璧主義傾向のある名無星がくぽの兄、名無星カイトは、そうやって健気に張りついた明夜星カイトにも容赦なく、厳しい言葉を浴びせたのである。そう、厳しい――
まあ、なんというか、少なくともやさしくはない、とても厳しい感じの的な。
「明夜星カイトっ!誰がニンゲン語を話していいと言ったっ?!そのねこみみはなんのためにあるっ!おまえは片がつくまで『にゃー』以外言うなと言っただろうがっ!」
「にゃ、にゃーーーっ!」
――軍曹もかくやという威勢で叱りつけられた明夜星カイトは、それこそ二等兵かという風情でびくりと身を弾ませ、健気に敬礼して返した。
いや、さすがに敬礼まではしていない。これは勢いによる言葉の綾というか、そう錯覚するような雰囲気だったという喩えだ。
床に腰が落ち(腰が抜けたと思われる)、結果、背筋が伸びた明夜星カイトだが、相変わらず名無星カイトの腰に両腕を絡ませていて(よってゆえに敬礼はできない)、けれど返した答えは従順だった。
従順であるが、しかしだ。かかしだ。過ぎてかかしだ。なんたるかかしか!
本来であれば、恋人につらく当たる兄を諫めるもとい、つらく当たられている恋人を守るため、名無星がくぽは即座に立ち上がる。
そしてちょっと最近なかったほどの大喧嘩を、兄とくり広げたことだろう。意味不明というジャンルでは王子を超えてキングの冠を戴ける明夜星がくぽ、兄の『ナイト』がすぐそこにいるわけだが、きっと育ちのいい彼ではとても止められないほどの。
しかしだ。だからかかしもいいところなのだ。
なんなのだ、『にゃー以外言うな』とは。
『なんのためのねこみみか』とは、ほんとうになんのためなのか。
いやそう、すでにねこみみを装着したうえで、『にゃー』縛りであるという。なんだかとてもまっとうなことを指摘しているだけのような気がしてきた(大丈夫、ちょっと保証しきれないのだが、きっとまったくまっとうではない)。
そのうえ、明夜星カイトである。ねこみみ付きの。かわいい→違う。かわいい。いやだから違う。しかしねこみみにゃーにゃーかわいいが過ぎる――
愛情が過ぎたあまり、少し道を誤った保護の仕方を当然としてしまう恋人、名無星がくぽである。
今日も順調に道に迷った。
「かぃ……いや、兄……っ」
「ああもう、まったくもう、ほんとにもう…っ!ひとの兄さんになにしてくれてんのなにしてんのなにやらかしてんの、あんたってひとは、もう…っ!」
なにをどこからどう手をつければいいものだか、動揺のあまりまったく選べず狼狽えるしかない名無星がくぽと、珍しくもどうやら頭痛を覚えたようで、額を押さえて高速で呻く明夜星がくぽと。
対する名無星カイトである。
当然ながら、斟酌しなかった。
むしろ狼狽えるばかりのおとうとたちが不甲斐ないとさらに瞳をきつくし、にゃーにゃー取り縋る明夜星カイトの襟首を掴んで突き出す。
「このへたれワイマラナーが…兄甲斐にネギにカモ乗せておいてやったから、おまえ少し、話し合って来い」
「レアな犬種をたとえに出すな兄!」
それが犬種であると即答している時点でそうまでレアではないと思われるが、この疑義にしても名無星がくぽの脊髄反射な返しにしても、同じだ。ポイントが完全にずれている。
だからといってカモとネギはどちらが負うのか負われるのかというところが正しいポイントでもない。
そう、なにを言っているかはわかるが、なにを言っているんだという話なんである。
名無星カイトが大筋、なにを言っているかはわかる。しかしその大筋、本筋にちょこちょこ挟む喩えやら引用やら罵倒やらが、まったくもっていつもの彼らしくなく、非常に乱れている。
おかげで喧嘩っ早い(『ただし兄限定』)おとうとが気勢を削がれること甚だしい。
かてて加えて、首ねっこな襟首を掴まれ突き出されてしまった明夜星カイトである。ねこみみ付きの。
「にゃ、にゃー!にゃー!」
――なにもそんな健気に、言われるがままにゃーにゃー鳴かずともという。トラブル的なものによって人語を失い、『にゃー』しか言えなくなったわけではないことは、先の一件でも明らかであるのだし。
しかして健気にもにゃーにゃーとだけ鳴く明夜星カイトの表情は、結構めに悲愴であった。
両手を胸の前で組むお祈りポーズで、悲愴な表情で恋人、名無星がくぽを一途に見つめ、にゃーにゃー鳴く。にゃーにゃー、懸命に訴えかけてくる。
胸が痛いこと、このうえないというのだ。
もう突き抜けて愛らしいからこのままでもいいじゃないっていうかおうちにお持ち帰りしてもいいよねちゃんとシモまで含めて全部もれなくお世話するしとか、名無星がくぽの思考の八割がそんな方向にしか働かない。
やらかした(現在進行形が正しい)うちの兄ともども、恋人に申し訳なさが過ぎて、脈絡はないが土下座したい(それでこの『土下座したい』あたりが、名無星がくぽの思考の残り一割程度である。するとあと残りの一割はなにかという話になると思うが、ならないかもしれないが流れで説明しておくと、生命維持活動であるとか、現状分析であるとかそういう、いわば『その他』に総括される雑多なものまとめである)。
とにもかくにもだ。
「もういいからとにかくあんた…あのひとの言うとおりにして兄さん回収して、引き離して保護して。じゃないと兄さん、うちに帰ってもにゃーにゃー鳴いてそうで、すごくかわいい」
「『かわいそう』だよな?!」
さしもの明夜星がくぽとて、動揺のあまり本音と建て前を取り違えてしまったのだろうと推測し、名無星がくぽは即座にツッコミもとい、フォローを入れた。そう、なんだかんだと面倒見のいい男なのである、名無星がくぽとは。
しかして明夜星がくぽである。
たとえ同じ【がくぽ】であっても、この相手は『明夜星がくぽ』なんである。
それでその、件の明夜星がくぽは非常に胡乱そうに、なによりとても真剣に、ちょっとした形相となっている名無星がくぽをまじまじと見返した。
「なんでかわいそうなの?かわいいでしょ、にゃーにゃんこ兄さん………あんたアタマ、大丈夫?」
「~~~っ!」
「にゃあー………っっ!」
――さてこういったふうに、本日ここに極まった明夜星カイトの災難である。いったいどうしてこうなったものか?
その説明は非常に長く煩雑となるため、一度、本日のカイカイ曲会合もとい、打ち合わせが始まったところにまで時間を戻す。