恋より遠く、愛に近い-第45話-
「知るか」
珍しくも頭痛を覚えたように額を押さえた明夜星がくぽにも、名無星カイトが臆することはなかった。きっぱり言い返し、未だ呆然としているおとうとへ足を伸ばす。
ほんとうは椅子の脚を狙ったのだが少しばかり距離と角度が難しく、仕方なく、無防備に晒されていたおとうとのすねを蹴り飛ばす(人間ほどではないにしても、ロイドもそこには痛覚がある)。
「っだっ?!」
放心しているところで思いきり痛覚を刺激されたおとうとは、涙目で飛び上がった。
かわいそうにとかなんとか、実は思考の片隅で考えていたりしたりした名無星カイトだが、おくびにも出さない。
咄嗟にきっとして睨んできたおとうとへ、名無星カイトは邪険に手を振った。
「童貞か、おまえ。いいからとっととしけこんで来い、この甲斐性なし」
「しけこむと言うな!!」
名無星がくぽが涙目であったのはおそらく先に蹴られたすねの影響であって、配慮的なものを求めて(たとえば第32話で明夜星がくぽとの間でも争点となった)のことではないと思うが、相手が悪かった。
兄である。つまり名無星カイトである。
涙目で往生際の悪いことを叫んだおとうとへ、容赦ない一喝を返した。
「やかましい!四の五の言うなら俺が連れこむぞ!」
効果は覿面だった――
名無星がくぽは明夜星がくぽに対する配慮だとか、兄との複雑な関係だとかいったものすべて、一瞬でお空の彼方にがっ飛ばした。
きっと不甲斐ないおとうとへの発破であって本気ではなかろうと、ほんとうはわかっていたが、それでもだ。
根源的な恐怖がある。
なぜならうちの兄、名無星カイトとは、KAITOころりなKAITOキラーだ。
本気を出す必要が、そもそもないのである。ジョークの段階でことは決している。本気ではないから安心してもいいなど、どこの甘ちゃんの論理か。
名無星がくぽはよく知っていた。
この兄のおとうととしてもっとも間近に、身近にいればこそ、よくよく身に沁みて、刷りこまれていた。
恐怖はすでに、根源的なレベルだ――
もはや名無星がくぽは一語の間すら惜しんだ。無駄にしなかった。
どうしてか理由は不明なものの、急に発情してしまった恋人を抱え、自分の部屋へとしけこんだもとい、駆けこんだ。
結果、椅子が空いたわけである。二脚。
これで椅子三脚に対し、残り人数は名無星カイトと明夜星がくぽ、二人である。もしも出宵がひと段落して作業部屋から出てきたとしても、まだ一脚の余剰がある計算となる。
言っても恋人同士もおそらくそのうち戻って来るだろうが、その頃にはきっと、名無星カイトも明夜星がくぽもおやつを食べ終わっている。カウンタ席にこだわる必要はない。
そういうわけでもう椅子が足らない問題は解決したのだし、明夜星がくぽが名無星カイトを抱えておく理由もないはずなのだが、こうだ。
いや、名無星カイトもほんとうはわかっていた――
明夜星がくぽは椅子の数が不足しているから、名無星カイトを抱えたわけではない。
椅子に座るから、名無星カイトを抱えたのである。
いったいなにを言っているか、不明だろうか。あなたはわからないだろうか。理解できない?でも大丈夫、名無星カイトも同じだ。ほとんどわかっていない。理解不能もいいところである。
彼は明夜星がくぽが、名無星カイトが座るから膝に抱えただけであるということはわかっていた。
が、ならばなぜ、名無星カイトが座るなら明夜星がくぽは膝に抱えなければいけないのかという、どうしてこれがセットでイコールであるのかという理由は、さっぱりきっぱりわからなかった。
わかっているのは椅子の数など関係がないということだけだ。
そう、数は関係ないので椅子が二脚空いたところで、明夜星がくぽが名無星カイトを解放する理由にはまったくならない――
「ほんとあんたはしらしらと、あんないたいけな兄さんに盛ったりして、なにか言いたくならないの?」
「うん、たぶんそれだ」
「は?それ?どれ?」
反省しなさいとがみがみ言われ(あまえんぼうのわがまま王子にだ!)、ほとんど当然のことながらまったく反省する素振りもなく、名無星カイトは頷いた。
頷いたが、明夜星がくぽの言うとおりである。いったいなにがなんだと言うのか?
「『いたいけ』」
端的に言って、名無星カイトは振り返っていた体を戻した。正直、狭い椅子である。明夜星がくぽと顔を合わせようとすると結構な角度で体を捻ることとなり、相応に負担だ。
楽な姿勢へ戻ると、名無星カイトはカウンタに置いていた自分のカップを取った。いろいろあったものの、ココアは未だ冷めきらず、ほこほことした湯気を立てている。
「カイト?それがなに?」
カップに口をつけ、ひと啜りしたところで急かされ、名無星カイトは濡れたくちびるをちろりと舐めた。
「ココア――っていうかカカオって、昂奮作用があるだろ。古代には催淫剤として使われてたとかいうし…シゲキブツ慣れした現代人にはもう、効かない程度らしいけどな?でも子供だと興奮し過ぎて鼻血吹くとか、未だに言うし」
「は、あ……っっ?」
しらしらというかつらつらというか、しらしら述べた名無星カイトを、膝の上の相手を、明夜星がくぽは花色の瞳を丸くして見た。いや、瞳のみならず、口まで丸く、唖然と開く。
確かにそんな話を聞いたこともあるが、ということはだ。
つまり『いたいけ』と評されてしまう明夜星カイトとは、見た目はオトナでもナカミはお子さまであり、そこにココアもとい、カカオという天然の催淫剤を入れたがために発情したと――
「だって前は、あそこまでは」
「コンデンスミルクとの相性がよほどいいか、悪いか…どっちかか、でなきゃ、どっちもかだろ」
「あんたはだから、しらしらとっ!」
非常に適当なことを適当に言ってみている名無星カイトに、明夜星がくぽは癇性に叫んだ。
「そもそもロイドなんだけどっ?!」
癇性でありながら、明夜星がくぽの返しこそまっとうというものだった(あまえんぼうのわがまま王子だというのに!意味不明を成型して服を着せたものだというのに!)。
いくら人型を模しても、ロイドはロイドだ。人間に効くものが、同じように効くことは滅多にない。
ことにクスリの効果は非常に微妙だ。まして意図をもって製薬したものではなく、天然素材となればさらに。
そんなことは名無星カイトとて知っているはずだが、彼が引くことはなかった。
「でも前、知り合いが、『チョコレートボンボンがいちばんキく』って」
「チョコぼ……チョコっ?!いや、酒っ?!」
先にも述べたが(第43話である)、KAITOにはほとんど都市伝説的な酒癖の問題がある。たかがひと口、菓子に混ぜこまれたそれですら、極限まで悪酔いするという。
ロイドである――大丈夫、これはラボも公認のKAITOの悪癖だ(ところで『公認』としているからには、ラボにこの悪癖を改善する気はないということである。『公認』とはそういうことだからだ)。
そんなわけでだいたいのKAITOが酒精の摂取を避けているわけだが、なかには好んで日常的に嗜むものもいる。
それで今回の場合の情報源はそういう、ことに好んで酒精を取るタイプのKAITOであり、ことに好むがためにいろいろ試した結果――
だからといって名無星カイトやほかのKAITOが試したわけではないので汎用性は定かでないが、少なくともそういう報告もあるという。
またもや愕然とした明夜星がくぽだが、はたと気がついたように居住まいを正した。そこには名無星カイトがいる。狭い椅子の上で、さらに明夜星がくぽの膝に。
急な動きに滑り落ちる(ふりで膝から下りようとした)名無星カイトをすぐさま抱え上げて囲いこみ、次いでその手から飲み始めたばかりのココアのカップを取り上げて、明夜星がくぽは渋面で覗きこんだ。
「ちょっと待って。もしかして、まさかだけど、あんたも…」
「はあ?」
訊かれたことがあまりにもあまりで、名無星カイトもさすがに思いきり呆れた声を上げてしまった。明夜星がくぽと付き合い始めた当初はよく出たものだが、ここ最近はあまり出していなかった類の声だ。
「おまえ、俺に『いたいけ』って冠、つけようと思うのか?」
その、半ばひっくり返ったような声のまま問い質した名無星カイトに、さて、明夜星がくぽの答えである。お聞きください。
「だってあんた、KAITOだから」
「…っ!」
――これはある意味、明夜星がくぽの口癖に近いものだったが、名無星カイトはいつもの、あの妙なむず痒さを感じるどころでなく、絶句した。
明夜星がくぽはただ口癖だから言ったというのではなく、ほとんど無邪気に信じこんでいる様子であったからだ。
名無星カイトもKAITOであれば、『いたいけ』という冠詞がつくこともあろうと。そして『いたいけ』という冠詞がつくのであれば、――
束の間、唖然呆然愕然としていた名無星カイトだが、ふとくちびるが歪んだ。いや、歪んだのはくちびるだけでなく、体もだ。ずり落ちかけた体は明夜星がくぽにしっかりと抱え直されて不自由だったが、構わず振り仰いだ。
不自由ながらも手を伸ばし、非常に疑わしそうに眇めた目を向ける明夜星がくぽの顎を撫でる。
歪むくちびるは、笑みだ。
「まあ、昂奮だけなら、いたいけでなくともできる。むしろいたいけでないほうがデキるよな。そうだろ?」
「あんたは、さ…」
蠱惑的に笑い、顔を寄せる名無星カイトに、明夜星がくぽはあからさまに肩を落とした。
「ほんと、そういうとこだよ…そういうとこだからね?」
「なにがだ」
しらりと返しながら、名無星カイトの手は明夜星がくぽの消沈した顔をやわらかに撫でる。
近づく顔をじろりと睨みつけ(ただし睨みつけるだけで、離れようとも離そうともしない)、明夜星がくぽはつけつけと言った。
「肯定したっていうか、認めたことになるけど、いいのって。あんたも『いたいけ』だからココアが効いて、それで僕にこういうことしてるんだって」
「…っ」
名無星カイトの動きが止まり、細く、笑っていた瞳が見開かれる。軽く見張ったあとにはいかにもまずいものを突っこまれたという顔となり、手が引いた。
捻っていた体を元の、正面向きに直した名無星カイトはその手をカウンタへ伸ばした。つまんだのは、明夜星がくぽに取り上げられたココアのカップではなく、自分用に切り分けたチーズケーキだ。特徴的な青い斑点の入った、ブルーチーズ入りの。
つまんだ手はそのまま名無星カイトの口に向かい、しかしてチーズケーキはその口に入らなかった。
「ちょっと待って。ちょっと………それ、ほんとに……ほんと、おいしくないから。お薦めしないから。ね?」
名無星カイトの手首を掴んで食べることを阻止した明夜星がくぽが、妙に押し殺した声で言う。
背後からだ。葛藤が強いのだろう、項垂れた明夜星がくぽの口はカイトの耳元にあった。ために、押し殺していてもよく聞こえる。よく聞こえはするが、しかしだ。
名無星カイトは軽く、眉をひそめた。
「それはおまえの話だろ。俺はおまえじゃない」
取りつく島もなく突き放してから、ふと気がついたように眉が開く。
「ああ、そうか…俺の分も食べたいってこ…?って、そこまでってなるともう、病みつきっていうか、中毒だぞ?」
「失礼だな、あんたは、ほんと!」
反射で言い返しながら、明夜星がくぽは名無星カイトの手首を解放した。同時に、素早く動いたその手が名無星カイトの指からチーズケーキを奪い取る。
「おぃ、んむっ!」
奪い取ったチーズケーキは、病みつき以上の中毒かもしれない明夜星がくぽの口に入るのではなく、名無星カイトの口にむぎゅりと押しこまれた。
抗議にしろなんにしろ、とにもかくにも口のなかをきれいにしなければ仕様がない。
食べられなかったかもしれなかったものが食べられたわけでもあるし、ああまで言われているものだ。せっかくなのできっちり味わってもみたい。
そういうわけで名無星カイトは一旦抗議を置き、むぐもごと口を動かした。むぐもごと口を動かし、むぐもごむぐもごと咀嚼し、こっくりと飲みこむ。
飲みこんで、首が傾いだ。
うつむいたのでも、項垂れたのでもない。傾いだのだ。それは不可思議であり、不可解の表明だった。
「別に…そうまで言うほどのものでも…ふつうにおいしいと思うけど、な?」
「あんた悪食なんぐむっ?!」
――おそらくたぶん、きっととても失礼なことを言おうとしたのだろう明夜星がくぽだが、言いきることはできなかった。名無星カイトが新たに明夜星がくぽの皿からチーズケーキを、ブルーチーズ入りのそれをつまむと、容赦なくその口に捻じこんだからだ。
抗議にしろなんにしろ、とにもかくにも口のなかをきれいにしなければ仕様がない――たとえあまえんぼうのわがまま王子だとしてもだ、いや、この『王子』は実際、わりと躾の行き届いた『王子』であった。
ためになおのこと、口のなかにものを入れたまま喚くことを良しとしなかった。
それでとにもかくにも口のなかをきれいにすべく、むぐもごと――
表情は不満いっぱいでもとりあえず大人しく咀嚼する明夜星がくぽを、名無星カイトはまるで他意もないような様子で振り返った。
先にチーズケーキをつまんだ指をちろりと舐めると、その舌をこれ見よがしにひけらかし、また、首を傾げてみせる。
「な?」
――なにが『な?』なのか。
そういったことをよほど突っこみたかった明夜星がくぽだが、できなかった。口のなかのものをちょうど飲みこむタイミングだったということもある。
けれど、振り返ってそう、同意を求めてきた名無星カイトの、その表情、瞳の色、眼差しが、なにより明夜星がくぽから言葉を奪った。
さほど残滓があったわけでもないのに癖のように舐められた指、舐めた舌、ひけらかされ、くちびるを湿らせながらしまわれる、その、しまわれる先――
まるでコマ送りのように逐一細かく見て、追ってしまうそれが、明夜星がくぽから言葉を失わせた。
「…まあ、とにかくだ」
否定もないが肯定もなく、凝然と固まって見つめるだけに落ちた明夜星がくぽからそうそうに顔を逸らし、名無星カイトは足を伸ばした。床につけると力をこめ、腰を浮かせる。
それでも囲いこんで離そうとしない明夜星がくぽへ上半身だけ振り返り、胸に手を当てると軽く、押し退けた。
力は軽く、それでも押し退ける、離れる、逃げるという意思だ。はっきりとした表明だ。
反射的に腕に入った力を、明夜星がくぽはすぐに抜いた。逃げたがる相手を意のままに逃がしてやり、その姿を花色の瞳だけが揺らぎ追う。
一瞬だ。
自分の足で立った名無星カイトはすぐさま全身で振り返り、未だ座ったままの明夜星がくぽへと倒れこむように抱きついてきたからだ。
「ちょっと…」
拒まないが受け止めもしない、ただ揺らいだだけの明夜星がくぽにも構わず、名無星カイトはすりりと肩口に擦りついた。ねこのように懐きながら、口を開く。
「まあ、とにかくだ…」
同じ言葉をくり返し、名無星カイトは瞳を閉じた。次に開いたときには同時に体も浮かせ、ゆらゆら揺らぎながらも懸命に見つめてくる花色の瞳と目を合わせる。
ほとんど冷然と受け止め、名無星カイトは眉をひそめた。その表情に相応しく、声も調子も厳然として吐きだす。
「椅子を変えるぞ。いつものとこか、ソファか…どっちでもいいけど、とにかくこの椅子はここまでだ。この椅子じゃあ狭くて、おまえにいたずらしにくいったらない」
――この、いろいろといろいろなものがだだ漏れであり、いろいろといろいろなものが不明確である名無星カイトの主張に、さていったい、明夜星がくぽはどう答えたか?
「あんたね………あんた、だから、『そう』いうとこだって言ってるでしょう…そういうとこだよ、あんた、ほんとに、わかってる?」
つけつけと言いながら、明夜星がくぽは名無星カイトの体に腕を回した。腕を回しつつ椅子から腰を浮かせると、立ち上がる動きのついでのように、名無星カイトの体を抱き上げる。
腕に乗せた相手と目を合わせ、明夜星がくぽは思いきり、眉をひそめてみせた。
「仕様がないから、聞いて上げるけどね!その分あんた、僕のこと、たっぷり甘やかすんだよ?」