恋より遠く、愛に近い-第64話-
「………兄さん?大丈夫なんだよね?まさかふたりっきりになったらあいつ、急に暴君化するとかハラモン化(ハラスメント・モンストロスの略。なにと限定しきれないほど多方向かつ大量のハラスメントを振りまく手合いという意の、明夜星がくぽの造語である)するとか」
自分が選ばれたうれしさよりなにより心配が勝って眉をひそめたおとうとを、カイトは困ったように見返した。
「むしろやさし過ぎて、どうしようって感じだよ。言ったらおれなんか旧型なんだし、そういう意味では【がくぽ】より頑丈なのに…こわれものみたいにさわるんだもの」
「うんごちそうさま。もういい。もういらない」
語尾に被るほどの勢いで拒絶を突きつけてきたおとうとに、カイトは素直に口を噤んだ。
そうまでのことを言ったつもりはないし、そもそも訊いたのはそちらだろうという話なのだが、こういった話題では問われた側、カップルの側が口を噤むべきであると、カイトは相応に学習していた。
そうやって大人に口を噤んでくれた兄へ、しかしおとうとは懲りずに首を傾げた。
「それでも、あいつじゃないの?」
持て余すほどやさしくされるというのに、『やさしい』のはおとうとのほうだという。
矛盾がないかと問われ、カイトはおとうとから前方へ視線を逸らした。
「だってがくぽがやさしいの、おれだからだもの」
きっぱり、言う。
切れ長の瞳をきょとんと丸く見張っただけのおとうとの顔をちらりと確認し、カイトはもう少しは言っても良さそうだと判断した。続きに口を開く。
「カイトさんの……おにぃさんのこと、ほんとに好きで、尊敬してるんだよね、がくぽ。そのおにぃさんの顔に泥を塗るようなことしたらいけないって、けっこう、思いつめるとこあって。それでぴりぴりしてるときとか、多いから――『いつもやさしい』のは、おれにだけだも。でもがくぽはそういうの、ないでしょう。博愛主義って言っちゃったら、またちょっと、意味が変わっちゃうけど…ひとのこと、思いやれる余裕があるっていうか」
――そこまで言って、カイトは口を噤んだ。まだ途中ではあったが、きゅっと、引き結ぶ。
なぜならおとうとだ。明夜星がくぽである。
訊いておいてまた、壮絶にいやそうな目線を寄越してくれていた。
それで、兄が黙ってくれたのをいいことに、いかにも呆れたふうに口を開くわけである、このおとうとは。
「わかった、ごちそうさま。つまりあいつの、そういうとこを支えて上げたいと、兄さんは思ったっていうね、ほんっっっとごちそうさまっ!なんでそう、山盛り寄越すの?俺がそんなにたくさんは甘いもの食べないって、兄さん、知ってるでしょう」
「………」
つけつけと言うおとうとにも、カイトはきゅうっとくちびるを引き結んで耐えた。耐えたが、どうしても恨みがましい目をやってしまう。
だから、訊いたのはそちらだろうという話なんである。
が、がくぽは気にしなかった。前を見ていて、兄の目線に気がつかなかったからである。
兄の目線に気がつかず、がくぽは気にしなかった――
気にならなかった。
最終的にカイトの結論は『恋人』に軍配が上がっていて、いわば予想した通りの結末に落ちた。
それでも気にならなかった。
そういうものかと、ならば自分はどうなのだろうと、すぐ、気が切り替わった。
自分はどうなのか、自分『たち』はどうなのか――
「傷の舐めあいなんだよね、所詮」
「え?」
ぼそりとこぼした言葉は、家のなかであれば拾えたかもしれない。しかし公道では周囲の音に掻き消され、届かないほどの音量でしかなかった。
当然のように聞き落としたカイトは、なにを言ったのかとおとうとへ顔を向ける。
その兄へ、がくぽもまた、顔を向けた。真顔で問いを放つ。
「あのさ、『舐めあい』っていうとなんか、ヘンにえろくさく聞こえるのって、俺が童貞だからなの?」
「んごぶっ!!」
またも、吹いたのは斜め後ろ、甲斐だった(そして今回は概ね素直に=『吹き出した』近似と考えて良い)。
ちらりと目線をやったがくぽだが、甲斐は非常に上手にその目線を避けた。口は挟まない――笑うのは堪えられないけれど。
失礼なマスターだなと、がくぽはまるで他人事扱いで考えた。
けっこう、繊細な問題のはずだ。がくぽはわりとどうでもいいのだが、たとえば『あいつ』であれば大騒ぎだろう――
考えながら、がくぽは兄へと顔を戻す。それはそれとして(実際は『それはそれ』と仕切れず、非常に関連しているのだが)、足が完全に止まってしまった。
「な、め………?」
完全に足を止め、カイトは呆然とおとうとを見つめている。その目元が、頬が、うなじが、徐々に徐々に徐々に染まっていった。筆でゆっくり刷くように、撫でて広げていくように、――
「ぇろ………な、どぅ………………っっ?!」
とうとう、『どっかん』とでもいう効果音が聞こえそうなほど赤く染まり上がったカイトに、きちんと体ごと向き直っていたがくぽは神妙な顔で頷いた。握っていた手を持ち上げ、その甲をなだめるようにぽんぽんとあやし叩く。
「ありがとう、兄さん、わかったよ………童貞は関係ない、個人の資質の問題なんだね。ん?あれ、でも兄さんは、童貞は童貞…」
「っがくぽっ!!」
「っははっ!」
さすがに悲鳴のような声で叫んだカイトに、しかしおとうとはまるで悪びれもせず、反省の色もなく、明るく笑った。
しばらくは恨みがましいような気持ちでぷるぷるしていたカイトだが、そう長く引きずることはなく、諦めた。
久しぶりに見た気がする。天を仰ぎ、放埓に笑うおとうとを。
久しぶりに見たし、聞いたし、触れたし――
同じ機種でも、恋人とはまったく違うおとうとだ。
まったく違う笑い方で、まったく違う笑い顔で、まったく違う――
似ても似つかず、であってもだからこそなお、慈しみに愛おしい、カイトのおとうと。
「ぁのね、がくぽ……」
「はい、兄さん」
再び兄の手を引いて歩きだしたがくぽは、打って変わった従順な返事をして寄越す。カイトは前を見ていてこちらを見ていないおとうとでも構わず、微笑みかけた。
「いいよ、おにぃちゃんは――がくぽが、なんでも」
「『なんでも』?俺?なにが?」
きょとんとした顔を向けたおとうとへ、笑みはそのまま、カイトは握る手の力だけ、わずかに増した。
「おにぃちゃんとかマスターには甘えるけど、がくぽ、よそではけっこう、面倒見いいでしょ。小さい子でも、小さくない子でも、大きいひとでも。分け隔てなく、困ってないかなって、――だからおにぃちゃんはがくぽのこと、薄情だなんて思ったことないし、やさしい子だって思ってるんだけど」
「うん?それは兄さんのおとうとなので?」
しらりと言ったがくぽに、カイトはますます笑みを深めた。握る手を、軽く引く。
「うん。がくぽはおにぃちゃんの誇り。おにぃちゃんは『がくぽのおにぃちゃん』ってことが誇らしいです――でもね、がくぽ?でも、なんでもいいんだよ、べつに。がくぽが薄情で、やさしくなくて、自分のこと、イヤになってて…おにぃちゃんは、そういうがくぽでも、いいよ。できればしあわせで、自分のこと好きでいてほしいけど、でもがくぽは『なんでも』、大好きで、かわいい、おにぃちゃんのおとうとだも」
「………」
やわらかに、まさに春の陽だまりのような笑みで言いきった兄はいっそ神々しく見えて、がくぽは瞳を細めた。
最悪の宣告もあったものだと思う。
これ以上など考えられないほどの、史上最低最悪を極めた――
ほんとうに兄にとって、自分はそういう対象ではなかったのだと、なり得ないのだと、これでもかと思い知らされる。いや、そんなことは日常で生活していれば頻繁に、常に思い知らされるのだけれど。
それであってもこれが最悪の、史上最低最悪を極めるとまで称するのは、痛くないからだ。
いや、痛い――胸の奥が、つきんとわずかに痛みはした。
つきんとわずかに、それで終わった。
過去の、過ぎ去って終わった日の失敗を思い返し、ふと苦笑いするのと同じほどで。
愚かも極まる。
『あれ』は舐めあいであって同情であり、憐憫であって『そう』ではないというのに、まるで同じように気が逸って仕方がない。あのキスを思い出し、擦りつけた頬の下の感触を思い出し、羞恥を刷いた表情を思い出して、体が奥底から熱くなる。
「度し難いったらないね」
「がくぽ?」
またもぼそりとつぶやかれ、周囲の音に紛れて聞き取れなかったカイトが首を傾げる。
その兄へ、あまえんぼうのわがまま王子たるおとうとはふんと鼻を鳴らした。
「今のさ、あいつに言ってやったら?ていうか、言ってやってよ、兄さん。『おにぃちゃん』ってとこだけうまく変えて」
「ん?がくぽ?なんで?」
いろいろな意味できょとんと目を丸くしたカイトに、明夜星がくぽはもう一度、ふんと鼻を鳴らした。
「だってあいつ、あんな不遜な態度のくせに…自分に自信なさ過ぎで、逆に腹立つんだよね。うただってさ、俺よりうたえるくせに、兄と比べたら大したことないって……違うでしょって、比べる対象が間違ってるっていうの。ほんとにあのひとがすごいとしても、KAITOはKAITO、【がくぽ】は【がくぽ】でしょう。でも俺が言ってやる義理はないから、兄さんが言っておいて」
――それこそ今のおとうとの態度やものの言いのほうが、よほどに不遜であるのだが。
しばしぽかんと眺めてから、カイトは小さく吹き出した。
大好きな(方向性や含む意味合いともあれ)兄を盗ったと、おとうとは恋人のことを毛嫌いしていた。それこそ『大好きな兄』が愛する相手であれば、あからさまに悪口や陰口を叩くといったことはしなかったものの、積極的に関わろうともしなかった。
――『フツウ』にしてたら、『コイビトの家族』との付き合いの濃度って、薄いだろ。ヘタすると、接点ないだろ。いくらばかじゃないって兄甲斐に信じてやっても、それじゃあ時間がかかるからな。濃度上げた。
なんでもないことのように言っていた、名無星カイトを思い出す(第49話である)。
カイトがおとうとを思って『いやなこと』をさせないようにしようとしたのに対し、名無星カイトははっきりとした意志と目的をもって、正しく『いやなこと』をさせた。
結果がこうである。
おとうとがカイトの恋人を語る口調はやはりとげとげしく、表情もいやそうだ。けれど恋人の話を自分から振ってくれるし、なによりその、『いやそうな顔』を隠しもしないで見せてくれるようになった。
これまでの明夜星がくぽにとって、名無星がくぽとは『兄の恋人』でしかなかった。兄と愛し合うだけの、一方的な存在だ。
おとうとは、明夜星がくぽは、たとえどれほど嫌っていようと、そういった相手に対する悪感情を表にすることを良しとしない。
それがあからさまに忌々しいと表情に出すのは、もはや明夜星がくぽにとっても名無星がくぽが『知らない相手』ではなく、『とても親しい相手』になったということだ。
明夜星がくぽ自身こそがとても親しい相手であればこそ、憎まれ口も平気で叩ける――
おそらく名無星がくぽのほうも、そうだ。ここまでではなくとも、以前よりずっと、おとうとに親しみを持ってくれたし、それで――
「一段のぼると、三段上がる………?!」
「兄さん?」
ちょっと呆然と、愕然とつぶやいたカイトを、どうしたのかと不思議そうにおとうとが覗きこむ。そのおとうとを呆然としたまま、カイトは見返した。
カイトがようやく一段上がって近づけたと思っても、そのときには三段先に進んでしまっているひと。
――たぶん、おとうとが好きで、たぶん、おとうとが好きなひと。
「カイトさんって、ほんと、すごいね………どうしよう」
「はあ?」
ほとんど青褪め、戦慄きながら告げたカイトへ、その思考を追えないがくぽは当然のように不審を返す。
「なに言ってんのっていうか、ほんとどうしてそうもあのひと推しなの、兄さんって」
「だってがくぽ、カイトさんほんとすごくって」
「はいごちそうさまおなかいっぱいっ!!」
「ぇうぅっ!」
だからそちらから訊いたのだろうという話なのである――
ばっさり容赦なく切られ、カイトはちょっと本気のべそかき声を上げた。反射で握る手も緩む。
その手を逃がすことなく握りこみ、がくぽは前を見たまま、――カイトを見ることはなく、けれどきっぱりと告げた。
「たとえあのひとがどんなにすごくて立派でかっこいいとしてもね、俺の兄さんは兄さんだけだし、俺は兄さんが俺の兄さんだってこと、一回も恥ずかしいとか残念とか思ったことないんだから。あのひとと比べたことだってないでしょう。だっていうのに…なんなの兄さん?まさかあいつに感化されたの?だったら俺、次のときにあいつシメるよ?まったく、ヘンな自信喪失とかもらってこないでよ、俺の兄さんなのに」
つけつけと言うがくぽを、しっかりと手を握って歩いてくれるおとうとを、カイトは大きな瞳をさらに大きく見張り、揺らがせて見つめた。
――そんなことはもちろん、当然、わかっている。わかっていたのだけれど。
泣いたりしたらきっと、おとうとは困るだろう。とても、そんなに思いつめさせていたのかと。
それでもどうしても瞳が潤むから、カイトはまっすぐ前を見た。おとうとの手をきゅうっと、握り返す。
「んっ、気合いはいったっ、がくぽ!おにぃちゃん、おうち帰ったらココアづくり、リベンジするねっ!」