恋より遠く、愛に近い-第63話-
そもそも明夜星がくぽと名無星カイトの関係である。いったいどんな関係の、深間であったか?(いやだから、深間とまではなっていないはずであることがもっとも問題なはずである)
失恋仲間だ。
家族ではない。友人とも、少し違う。けれど知り合いというには親密で、決して他人とは呼ばない――
失恋仲間だ。
互いに想いを寄せていた相手同士が成就してしまい、あぶれた同士で慰め合おうと、傷を舐めあい、いたみを分かち合おうと。
失恋仲間なのである。
それでがくぽは今、その、もともと想いを寄せていた相手から、別の相手を(非常に乱暴な手段で)薦められたというようなろくでもない状況なのだが、そう。
なにも思わなかった。
なんと言おうか、いろいろ思ったのは確かだ。けれど逆々で、なにも思わなかった――
失恋の痛みも、苦しみも、不条理極まる憤りも、なにも。
兄さんどれだけおふろ苦手なのと、なんだか滲んだのは呆れであり。
――あれ、そうだったっけ?
口元を覆い、押さえて、がくぽは高速で思考を巡らせた。
兄を、明夜星カイトを好きだったことは覚えている。名無星カイトを慰めつつ慰められて、まだ痛いのだと、このいたみはいつ終わるのだろうと、ごく最近も思った記憶がある。
――………あれ。そう……だっ…た………?
巡らせた思考に自分で引っかかり、巻き戻して、がくぽはごくりとのどを鳴らした。
呑みこんだのは、なにか。呑みこんだ、腹のうちに入れた、奥底に落とした――
『好きだった』。
過去形だ。終わっている。失恋したところで終わらず続いていた気持ちが、だからこそ痛くて苦しかったものが、途切れている。
いや違うと、がくぽは思う。今も好きだ。好きだ、兄が、現在進行形で、まだ、ずっと、好きだ。
兄として。
「は………っ」
反射的に嗤い、がくぽは口元を押さえる手に力をこめた。一瞬だ。一瞬後にはごくりと呑みこみ、口元からも手を離した。
離して、傍らに立ってじっと見つめる兄をきろりと見る。視線は止まらず、顔を覆ってしまっている甲斐に移り、そして信号を見た。青色が点滅している。
「兄さん、駆け足っ!マスターもっ!」
「えっ?え、ふわっ?!」
「え、ちょ、が…っ、ぅわゎわっ」
ぱっとカイトの手首を取ると、がくぽは言葉通り、走った。言われただけなら赤色に変わってから走り出していただろうカイトも、手を引かれてつんのめりながら走る。一拍遅れて、その後ろを甲斐が。
三人ともになんとか無事、渡りきったところで、一度、立ち止まった。涼しく立っているのはがくぽだけで、カイトは未だに状況が理解できずにあたりをおろおろ見渡しているし、甲斐はぜえはあと膝に手をついて息を荒げている。
そんな甲斐を、がくぽは切れ長の瞳を眇めて見た。
「マスター、運動不足過ぎじゃないの」
「否定はいっさいしないけど、がくぽ…ああいうときはいっそ次を待つのが安全策……」
「だってもう、二回、逃しちゃってるし、三度目の正直って言うでしょ、マスター。だいたい俺が、兄さんも渡らせるのに安全確認を怠るわけないんだから。ちゃんと右も左も二回は見ました」
確かにいざこざしている間に、一度のみならず青信号を逃している。三度目の正直と言うならそうかもしれないが、しかしこの言葉はこういったときに用いるものではない。
しれしれと言ったがくぽは息切れで反論のままならない甲斐から、傍らの兄へ視線を移した。掴んでいた手首をそっと持ち上げると、やわらかに撫でる。
「乱暴してごめんなさい、兄さん…手首、痛くない?足は?くじいたりとか、してない?」
「ぇえっと…」
マスターを相手にしているときとは180度転換し、がくぽは殊勝らしい態度で兄を窺った。膝を曲げ、ことさら下から覗きこむという周到ぶりだ。
カイトは目をぱちぱちと瞬かせ、労わり撫でられる自分の手首を見た。それから、足元――
「ん、……だいじょぶ。いたいとこ、ない。びっくりしただけ」
「うん、それならいいや」
答えた途端、がくぽの殊勝タイムは終わった。あっさり受けると、撓めていた背を戻す。
撫でていた手首を離すと、再び手を繋ぎ、歩き始めた(もう片方の手では、甲斐の手首を掴んだ。誘われ、甲斐は再びがくぽの服の裾を掴み、それを確かめるとがくぽは手を離した)。
カイトはなんとも言えない表情で繋がれた手を眺め、結局、なにも言わずにまた握り返すと、おとうとに添って歩いた。
その兄に、おとうとはぽつりとこぼす。
「あのさ、きょうさ、そういえばさ………あのひとに、キスされたよ」
「ごふっ!」
――堪えきれず吹いたのは、甲斐だ(『吹き出した』=笑ったのではない。どちらかといえば、『呻いた』に近い)。
ちらりと視線をやったものの、甲斐が口を出す気配がないと察すると、がくぽはすぐ、まっすぐ前に顔を戻した。
対して、もともと話を振られた方、カイトだ。
「へえ、そうなの?」
おとうとに手を引かれて歩きながら、とても平静に受けた。なぜならKAITOだからだ。明夜星カイトも、あのひと――名無星カイトも。
KAITOにはデフォルトで挨拶のキス(とハグ)の習慣がある。『キス』という単語で咄嗟に浮かべるものが、サムライ気質と称される【がくぽ】と根本的に異なるのだ(明夜星がくぽがサムライ気質であるかどうかは置く)。
これでKAITO以外がそうしたと聞いたなら、カイトの反応もまた、まったく違ったことだろう。
が、おとうとに『した』相手は名無星カイト、KAITOだという。
親愛のキスを頬やら額やらに贈られただとか、あるいはそれがうっかりずれて、迂闊にもくちびるを掠ってしまっただとか、思ってもその程度だ。まさか舌まで捻じこみ、たっぷりと口のなかをまさぐられて唾液まで啜られるようなキスだったなど、露ほども思わないに違いない(第22話でも似た件があった)。
そしてきっと兄はそう受け取るだろうと思ったから、がくぽも言ったのだ。それ以上の説明をすることはなく、ただ、それだけ言いたかった。
あのひととキスをしたと。
それがなにというのではないのだが、ただ、気づかれることもなく終わった初恋のひとに――
「でも、珍しいね?がくぽが避けられないの」
――今さらKAITOから親愛のキスを受けた程度のこと、逐一兄に報告しはしないだろう。
機微に疎く、鈍いと言われるKAITOだが、さすがにカイトも相手がおとうとだ。わざわざ告げたなら『ミス』、うっかりずれてくちびるだかを掠られてしまったからだろうと受け止め、返した。
「前もだったけど、がくぽ、カイトさんって避けにくいのかな」
「………」
独白めいてつぶやいたカイトにがくぽは咄嗟に口を開き、すんでのところで噤んだ。
『前』とはいつかといえば、だから第22話だ(『した』瞬間自体は第21話だが)。
実のところあのときもそうだが、今回(第55話だ)にしても、名無星カイトは完全に確信犯、故意のやらかしであった。がくぽは当然、そうであることを理解していたし、――
される前に、ああこれはされるなと、きちんと理解していた。気がついていた。寸前ではない。いや、寸前だったときもあった。
けれど止めようと思えば【がくぽ】の反射神経で十分、十二分に間に合う、止められる――
止めなかった。
近づいてくるくちびるを、ただ受けた。
されたかった。
したかった――
――がくぽ、カイトさんって避けにくいのかな。
ロイドに直感が働くかどうかは未だ議論のさなかで結論は出ていないが、KAITOは頻繁に直感様のものを見せると巷間に言われる。それで機微に疎く、鈍いくせに、ものごとの核心を一気に突いてくると。
「………………その発想は、なかったよね、ほんと」
ずいぶん間を空け、がくぽはぽつりとこぼした。前を見たままだ。兄に視線をやることはない。
一方のカイトは、おとうと八割、前方注意二割といった配分だった。正直、いつ転んでも、なにかにぶつかってもおかしくない。
けれどいいのだ。なぜならおとうとが手を繋いでいてくれて、寄り添って歩いてくれている。
カイトに予測される危険のほとんどは、『しっかりもの』のおとうとが未然に防ぐ――
「あのさ、兄さん。俺って、薄情?」
「ん?」
相変わらず前を見たまま問いを落としたがくぽを、カイトはきょとんとして見た。不思議そうに眺め、とはいえ迷いがあるわけではない。
「やさしいよ、がくぽ。がくぽが薄情だったら、薄情じゃないひとなんか、いなくなるよ」
これは慰めではない――がくぽもわかっていた。
贔屓目だ。兄は本気でそう、おとうとを思っている。あまえんぼうのわがまま王子で、そしてとびっきりにやさしいと。
わずかにくちびるを空転させ、がくぽは意識して口の端を持ち上げた。笑わせて、傍らをちょこちょこ歩く兄を見る。
「あいつとなら、どっちがやさしい?」
「ん?」
ちょうど二割の前方注意に意識を割いていたカイトは再びきょとんとし、顔をおとうとへ向けた。なにかを抱えこんで光を放つ花色と見合って、小さく首を傾げる。
迷いもない。
「がくぽ」
――こういった解説ばかりしている気がする。なぜなのか。理由を突き詰めるとろくなことにならない予感しかないので横に置くが、つまりである。
がくぽが兄へと放った問い、『あいつ』とは名無星がくぽ、兄の恋人のことである。兄の恋人たる名無星がくぽと自分と、どちらのほうが『やさしい』のかと。
これは自傷めいた問いだった。破れた初恋のひとに恋人と自分とを比べさせて、どうせきっと『恋人』と返ってくる問いを放つ。
塞がらない傷をさらに抉り、どこまでもどこまでも果てなく打ちのめさせるための。
――わかっているから、明夜星がくぽはやらないと決めていた。兄に、自分と恋人とを比べさせるような問いを放つことは、しないと。
それは兄に自分を傷つけさせる行いだ。
最愛の兄に目隠しのまま刃を持たせ、慈しみに愛おしむ『おとうと』を切り刻ませる行為。なにかの弾みに目隠しが外れた瞬間、兄を果てない絶望に突き落とす――
それで、返ってきた答えである。【がくぽ】と。
最前から述べる通り、これは呼ばれる本人たちは案外、正確に聞き分けている。今もだ。がくぽは正しく聞き取った。
【がくぽ】――明夜星がくぽと。