意想外もいいところだった。がくぽも固まったが、その斜め後ろで背景に溶けこんでいた甲斐も固まった。
おかげで信号が青に変わったというのに、誰も一歩も踏み出さない(信号が変わったと気づいても、今の状況だとカイトは自分からは動かない。固めた責任ではない。自分ひとりで動いても迷子になるだけだからだ)。
恋より遠く、愛に近い-第62話-
どうして明夜星がくぽは、名無星カイトとしないのかと。
どうして――しない。
なにを?
――と、名無星がくぽを相手になら返しただろう明夜星がくぽだが(第52話だ)、兄を相手には無理だった。
ので、咄嗟に返せる言葉がなかった。ただ、引きつった。
「ど……って、だ……、なん」
確かに明夜星がくぽの説明能力は低かったが(やる気のなさが最たる原因である)、それにしても兄以上に言葉が言葉にならない。どころか、どういう感情を、どういう表情を当てはめればいいのかから、まるでわからなくなっていた。
そんな、恐慌を来したと言ってもいいおとうとの反応に、兄は逆に冷静さを取り戻した。相変わらずの姿勢で覗きこみながらも、先よりはよほどなめらかに口を開く。
「ぇと、がくぽ、……カイトさんと、おふろ、入りたいって……カイトさんのこと、洗ってきれいきれい、したいって…その。……………カイトさんが、だれかと、――シたら」
なめらかではあったが後半にいくにつれもそぼそと、声は小さく、潜んでいく。
それも道理である。公道である。ひとの往来が多いか少ないかは問題ではない。彼らは公道にいるということがなによりも重要なことなのである。
声が小さくなるにつれてカイトの瞳も伏せられ、おとうとからわずかに逸れた。わあ兄さんまつげ長いかわいいというがくぽの思考は、逃避だ。そもそもまつげなら【がくぽ】のほうが長いのであるし(これもまた逃避だ)。
いや、きっと名無星カイトが話すのであれば『話す』だろうとは、がくぽも予想していた。
どこまでといって、どこまでもである。
一言一句をくり返して再現するようなことはしないし、あらかた端折るであろうが、きっとこういった(いちばん誤魔化してほしい)ところは誤魔化すことなくきっちり話すのだろうなと。
――予想していたところでダメージがまったく軽減しないということは、あるのである。むしろダメージの重さが増すとか、深みを増すとか、泥沼と泥船の親和性というか。
そう、泥沼と泥船の親和性である。
一瞬は瞳を落としたカイトだが、すぐ、固まるおとうとへ視線を戻した。揺らぐ湖面が懸命な色を宿し、張られた氷の奥の花色を探して覗きこむ。
「ぇと、でね、がくぽ?あの、まさかとおもうんだけど……がくぽ、まさか、カイトさんが、その、だれかとシてるとこに、いっしょにいるわけじゃ、ないよね?終わるまで、そばで待ってるとか」
「は………」
思考を逃がすことに注力していたため、がくぽの理解はわずかに遅れた。いや、理解したくなかったというのが正しいかもしれない。一所懸命な兄さんもかわいいなあと――
「はあああッ?!なにそれ気持ち悪ッッ!!」
それでも理解する時間は訪れるし、理解すればまったく抑えが利かなかった。
最愛の兄が相手であるにも関わらず、がくぽは全力で叫んだ。同時に、繋いでいた手も振りほどく(甲斐はすでに手を離していた。それで、両手で顔を覆っていた。とても急激に頭が痛い頭痛に見舞われたからだ)。
カイトはわずかに寂しげにその手を目で追ったものの、固執することはなかった。長い髪の毛が逆立ちそうなほどの嫌悪感を露わとするおとうとに、こっくり、頷く。
「うん、ちがうよね?」
「当たりまえでしょう!いくら兄さんでも、――どこからそんなこと考えつくの?!」
兄の、KAITOの思考が突飛であることなど、常態だ。普通だ。そしてどこから飛んできた発想であるのか、訊いたところで意味がないというのも。
KAITOは『ごく普通に』考え、思いついているだけなのだから。
最愛のおとうとから、これまで見たことがないほどの嫌悪感と拒絶とを突きつけられても、カイトがめげることはなかった。むしろ一歩踏みこみ、おとうとに肉薄する。
「つまりがくぽ、ぇえと、別のとこにいるよね?ぜんぜん、カイトさんと離れた、ちがうとこ…」
「だから、当たりまえでしょ。いっしょになんかいない。近くにもいない。そばになんて寄らない。カイトが……あのひとが、――なんて、ぜったい、ぜっっったいに!」
裏返りかけの声で戦慄きながら拒絶を叫ぶおとうとに、カイトは手を伸ばした。跳ね除けられることを覚悟のうえで、倒れそうな顔色で後ずさるがくぽの腕を掴む。
掴んで、すぐ、自分へと寄せた。あともう少しも後ずされば、がくぽの体は横断歩道に掛かりそうだったからだ。
ひやひやしながら体を入れ替え、おそらく周囲など見えていないだろうおとうとを歩道へ押しこむ。
「カイト」
そこまでにしておきなさいと、同じく安全確保に周囲へ目をやる甲斐が声を上げた。
はっきり命令されていないが、そこそこ強制力を持つ声だった。それでもカイトは聞き流し、眩む花色を覗きこむ。
なぜならここで止めては、おとうとを取り返しもつかず傷つけただけで終わってしまう――
「うん、がくぽ。わかってる。おにぃちゃんだって、それはわかってる。わかってるけど、だから、わかんないのはね?だったらなんで、がくぽがカイトさんとシないのって」
「カイト!」
「っっ」
再び上がった甲斐の声はさらに強く、あからさまな強制力が働いた。カイトのくちびるが、意に反して噤まれる。
ごくっとのどを鳴らして言葉を呑みこみ、カイトは振り払われずにいるがくぽの腕を掴む手に力をこめた。いたいおもいをさせてごめんねと、声にならないまま謝る。何度も、なんども――
縋って、おとうとへの想いをよすがに、何度も。
>名前を呼ばれただけだ。
>『止めろ』と明示されていない。
>KAITOは空気を読まない――読めない。
>だから、命令はされていない。
>命令は存在せず、存在しない命令には従わない。従えない。
>なぜなら『存在しないもの』は存在しないのだから!
反則技だった。
カイトは思考のみで自分にそう言い聞かせ、一度は屈した<マスター命令>を捻じ伏せた。
当然、何度も使える技ではないし、相応の負担もある。
だとしてもだ。
これだけは、ここまでは言わなければいけないのだ。そうでなければ――
がちっと、なにかが嵌まるような、外れるような感覚がした瞬間。
一時的にであれ自分を騙しきり、仮であっても軛から逃れたその瞬間を逃さず、カイトは全力を懸けて叫んだ。
「だってそうじゃないとカイトさん、立て続けに二回もおふろに入ることになるでしょう?!そりゃ、きれいにするのはいいことだけど!大事だけど!なんで一日に二回も三回も、おふろに入らないといけないのっ!」
――これに、狂い乱れたるおとうと、明夜星がくぽはどう答えたか?
「………………………………………………………………………は?」
答えられなかった。致し方ない。ちょっと意想外が過ぎた。
兄が、KAITOの言動が想定の範囲に収まっていたことのほうが珍しいのだが、それに馴れることと即応できるようになることとはまったく別の話である。
正直、【がくぽ】とKAITOのそういった意味での相性は、まったく良くない(それゆえ逆に、深みにも嵌まりやすい)。
代わって問いを放ったのは甲斐だった。もちろんこちらもしどもどとしていたが。
「え?ちょ…え?カイト?待って、なにそれ?そこですか?」
――最終的には、これが完全な解錠の合図となった。
つまり、『なにそれ?』だ。
『なにそれ』とはなにかといえば、説明を求める言葉だ。今の発言について説明してもいいという、許可である(あるいは説明せよという、新たな強制とも受け取れる)。
欺瞞ではなく許可が出たことで、カイトはわずかに肩を下ろした。縋る必要もなくなり、おとうとの腕からそっと手を離す。
それでも勢いを削ぐことはせず、珍しいほどきぱきぱと、求められた説明を行った。
「だって、そうでしょう?がくぽは別のとこにいて、別のとこで待ち合わせて、おふろに入るんでしょ?でも、移動するなら…そんなの、先にいっかい、おふろ入るでしょ。べたべたして落ち着かないし、……に、においだって、あるんだから!電車とか、乗れないもっ!」
補記しておけば、乗車拒否されるわけではない。公共マナーとエチケット、あるいは自分のこころの持ちようの話である。
ここでなぜかようやくぼわぼわぼわと肌を真っ赤に染め上げたカイトは(『状況』を具体的に想像したのだと思われる)、なんだか潤み感の増した揺らぐ湖面の瞳を懸命にきっとさせ、未だ意想外に呆然としているおとうとを見据えた。
「つまりカイトさん、っその、……が、終わったらおふろ入って…シャワーだけかもだけど、でも、とにかくそこで一回おふろ入る。で、がくぽと会って、二回目、おふろに入るわけでしょ?もしかして時間とかそのあとの予定によっては、おうちで夜、寝る前にもう一回、入らないといけないかもしれないよね?はい三回目。――って、そんなにいっぱいおふろ入って、カイトさんが錆びちゃったらどうするのっ?!」
「「いや錆びないからっ!!」」
最後のほう、本気で悲痛な響きを帯びたカイトの叫びに、奇しくも甲斐とがくぽの声がそろった。
どうやれば声が出るのかが思い出せないという、わりと深刻な精神状態に陥っていたがくぽだが、なんのことはない、出た。あっという間に回復した。もはやほとんど通常運転だ。
がくぽを落としたのも兄だが、掬い上げたのもまた、兄だった。
観音並みの手のひら遊戯だ。ほとほと感心するし、やはり兄さんには敵わないと思う(ただし観世音菩薩は自覚的かつ意識的に孫悟空を弄んだが、明夜星カイトにはそんなつもり、微塵もないことを強調しておく)。
ところで念のため補記し、強調しておくが、錆びない。なにを解説させられているのかがよく理解できないのだが、とにかく錆びない。
工業用ロイドなどであればいざ知らず、芸能特化型ロイドの耐水性能は一般に最上級とされる。
見た目が最重要であるうえ、一般家庭用ロイドなのだ。たとえ旧型、ロイド草創期につくられた初期型ロイドたるKAITOであろうともだ、そう簡単に錆びたりしない(なによりこういったバージョンアップは、販売後も能う限り反映することが法的に義務付けられている。なにしろ『いのち』に関わるし、発売当初の性能ままというのは、現状、存在し得ないことになっている)。
だがしかし、カイトは――KAITOは口をそろえて言うわけである。錆びる気がすると。
確かにロイドだ。見た目ともかく、内側となれば機械部品だらけだ。錆こそまさに天敵である。
しかしだ。かかしだ。過ぎてかかしだ。いっそ頭に詰まっているものはおがくずだと言ってほしい(もしほんとうにおがくずなら、またきっと別の問題に行きつくだけだが)。
だから、錆びないのである。
少なくとも風呂だプールだ掃除だといった日常生活程度の水濡れで、錆が起こるようなつくりはいっさいしていない。そんな脆弱なものを、一般ご家庭用として販売できるわけがないではないか!
それでもKAITOは――カイトはぼやく。なんか錆びそうな気がするんだよねと。
衛生観念はあるし、芸能特化型ロイドとしての美的観念も高いからきちんとこなすが、できれば最低限に留めたいというのが本音らしい。
そしてくり返すがこれは明夜星カイトに限ったことではなく、KAITO全般に共有される感覚であった。訊くとたいていが頷く。『それわかるー!』と。
理屈ではないのだという。ロイドがだ、物難いプログラムの傾向が強いKAITOがだ、理屈じゃないんだそうである。
しかして理屈ではないからこそなお、より根強くKAITOは『濡れる』ことを苦手と感じる。
名無星カイトに訊いたことはないが、しかし名無星カイトもKAITOだ。間違いなくロイド、そして間違いなくKAITOなのである。たとえらしからずらしからぬと言われようと、であればこそまさにKAITOだ。
訊いたら、あっさり答えそうな気がした。いつものあの、淡々と感情のうすい口調でだ。
――そうだな、錆びそうな気分っていうのはわかるし、確かに本来的にはあんまり、好かないけどな……
『けどな』である。『けどな』。好かないが、だがしかしと反転する。
――でもおまえは『そう』したいんだろ?『だから』、いい。
そう続けるところまで含めて、明夜星がくぽにはありありと想像がついた。
あくまで想像なのだが、あンの大ニブKAITOめと、がくぽは歯軋りする。
自分のいたみにはいつでも無頓着だ。いつまで経っても無関心だ。だから目が離せなくなる。手を離せず、囲いこまずにはおれなく――
そのがくぽに気づかず、おとうととマスターと、ふたりに口をそろえて否定された(それも結構めに強く)カイトは微妙に不貞腐れた顔となり、ぷいと横を向いた。
「でも、がくぽとだったら……おふろ、いっかいで済むでしょ。どうしてもがくぽ、カイトさんと入りたいんだったら、がくぽとカイトさんで……だったら、いっかいでいいのに、なんでって」
「カイト、カイト…」
結論が短絡的だ。結果、乱暴だ。KAITOだ。あるあるである。
おっとりしていることと平和主義かどうかはまた、まったく別であるという好例だ。
明夜星カイトはそもそもの言葉や態度がやわらかいので反感を呼びにくいが、実は言っていることの中身自体は名無星カイトと大差がない。
それも道理で、ふたりとも同じKAITOなのである。証明終了。
とはいえ証明が終了しようが、それが問題の解決に繋がるとは限らない。生きるとはそういうことだ。
そうやってなんだか壮大っぽく言い換えてなんとか気力を掻き集め、再び両手で顔を覆った甲斐は(急激にまた、頭痛で頭が痛くなったのである)うちの雄大な長男、カイトを力なく諌めた。
そもそもカイトは論点を間違えている。話の核心が理解できていない。
カイトのおとうと、明夜星がくぽは名無星カイトと『お風呂に入りたい』わけではないのである。
それは最終手段だ。譲りたくないけれど譲らなければいけないものを譲った、その対価として支払わせるもの。
そう、譲りたくないけれど譲らなければいけないものを――
譲らなくて、いいとしたら?
譲らない方法が、あるとしたなら――
「……………その発想は、なかった」
ふと口元を覆い、がくぽは呆然とつぶやいた。