それで、今度こそあらかたの問題が片付き、よってゆえに名無星カイトは思う存分、ココアをつくることに集中できた。
恋より遠く、愛に近い-第61話-
ところで初見であり、未だ味覚が掴めていないからとまずは味見をさせた甲斐である。
じゃれつくこいぬもとい、明夜星がくぽにかまけていて観察半分になった名無星カイトだが、きちんと把握はしたものらしい。
使い終わった味見皿を非常に複雑な顔で受け取ると少し考え、砂糖の量は出宵と同じほど、ただし最後、カップに移してからインスタントコーヒーをわずかに振り入れ、仕上げとした。
「ほんとはブランデーかラムだと思うけどな。ないから」
インスタントコーヒーで代用したと。
明夜星がくぽ経由で甲斐へとでき上がりを供しつつ、名無星カイトは若干の不本意さを滲ませて説明した。読み取ったものをきっちり『再現』できないというのは、名無星カイトにとって相当にストレスであるのだ
それで戻って来た明夜星がくぽをしみじみと見て、こぼすわけである。
「おまえの味覚って、かわいいよな…」
「なんかすっごい納得いかないっ?!」
――今回の場合、明夜星がくぽがそう叫んでも仕方がなかった。この『かわいい』は、=で『単純』と同義だ。通常、褒め言葉とはなり難い。
しかし実際、少なくともこれに関して明夜星がくぽ(意味不明を成型して服を着せたもの)は単純そのものだった。つまり、明夜星家員のココアに使われる調味料の各構成を比較するとということだが。
ついでに不本意と言えば、明夜星カイトだろう。
なんだかんだとはぐらかしはしたが、名無星カイトはおとうと(たち)の要望を無碍にしなかった。いろいろ天秤にかけなければいけないようなときは、能う限りおとうと側に比重を置くことにしているからだ。
そう、明夜星カイトのココアである。あの、現行法上は問題ない材料しか使っていないが、あの――
とはいえ、明夜星カイト自身はそうまで不本意ではなかった。
なぜなら名無星カイト、『憧れのカイトさん』自ら、わざわざソファまでカップを持って来てくれたうえ、明夜星カイトの前髪をさらりと掻き撫ぜまでして慰めてくれたからだ。
「おまえは『おにぃちゃん』だから…今日だけ、ガマンできるな?」
名無星カイトは持ってきてただ渡しただけではなく、床にちょこんと膝を突き、ことさら目線を下にして明夜星カイトを覗きこんだ。それで、いいこいいこと撫でながら言い聞かせたわけである。まるきりの幼子扱いである。
明夜星カイトは大いに発奮した。
――いや、幼子扱いに腹を据え兼ねたわけではない。これはさっぱり気にしていないというか、幼子扱いされたことに、明夜星カイトは微塵も気づいていなかった(隣に座る恋人はとても微妙な顔をしていた)。
そうではなく、『おにぃちゃんだから』という言いだ。
ときとして、きょうだいの上の子のこころを癒し難く挫くもの言いなわけだが、明夜星カイトは逆だ。発奮する。言い換えれば、やる気に漲る。だっておにぃちゃんだからだ。
「うんっ!できるっ!ますっっ!」
とても我慢を強いられたとは思えないきっらんぴっかんに輝く表情で(至近距離でまともに中てられてしまった名無星カイトは、目が痛そうに瞬いていた。『輝く』というのはあくまでも比喩表現であって、実際現象ではないのだが)、おとうとたちが要望した通りの『手加減』が加えられたであろうココアを受け取った。
それで――
それで、まあ、そう、なんというか、とにもかくにも、とりあえずである。
少なくとも、明夜星カイトだけはお泊まりしていったほうがいいのではという話にはならなかったし、夕飯をどうしようかとやきもきするような時間にもならず、明夜星家の三人は三人そろって帰途につくことができた(これに関して、名無星カイトはまたも不本意そうだった。不本意というか、非常な困惑を示した。『おかしいな、ちゃんと調節したのに…欲求不満か?閾値が下がってる?それとも…』とぶつぶつ検証していた。そしてその名無星カイトの様子に、おとうとたちもさすがにこれ以上の文句は控えたのである。結果的に、三人そろって帰れる程度で済んだのであるし)。
名無星家の三人にそろって玄関で見送られ(このとき、ひと目を憚ってほしい状態で別れの挨拶を交わしたのはやはり、明夜星がくぽと名無星カイトのほうだった。いろいろやってみようと決めたらしいが、この点において恋人たちのほうには未だ、大いなる研鑽と努力が求められる)、さて、明夜星家の三人、マスター:明夜星甲斐、ロイド長兄:明夜星カイト、ロイド末子:明夜星がくぽである。
明夜星がくぽは、そうでなくとも切れ長の瞳を思いきり眇め、マスターと兄を睥睨した。
「あのさ、マスターも、兄さんも……俺が末っ子だっていうの、ちゃんと覚えてるんだろうね?」
つけつけと言う末っ子に、マスターも兄も、とてもいい笑顔を返した。
「「もっち!!」」
――なにかと言うなら、まあ、最前にも明夜星カイトに関しては説明したことがあるが(第37話である)、甲斐もだいたい、同様なんであった。
来ることは来られたが(なぜなら途中で出宵と合流した)、帰れない。
よってゆえに、三人が無事に帰れるかどうかは明夜星がくぽ、明夜星家の末っ子に懸かっているという。
言っても、いつものことである。末っ子がぐちぐちとこぼしたのはそれくらいで、すぐ、先頭に立って歩き始めた。
後ろからついて行くふたりといえば、どちらからともなく手を伸ばし、がくぽの上着の裾をつまむ――
体重を掛けられたわけではないが、わずかに引かれる感覚はある。がくぽはちらりと視線をやり、原因を確認した。
が、それで終わりだ。特になにを言うこともないまま、ちょうどよく止まっていたエレベータに乗りこみ、一階のボタンを押した。
新たな乗降客もないまますんなりと一階に到着したエレベータの扉が開き、一歩踏み出すところで、がくぽは裾をつまむ兄の手を払った。
「ぁっ…」
「兄さん、まだココアが残ってるんじゃない?足元ふらついて、危なっかしいんだけど…自分でも気をつけてよ?」
払った手をしっかりと握られ、体を引き寄せられて、カイトの指は一瞬、浮いた。咄嗟に握り返してやれない。
この数か月というもの、こんなわずかな接触すら慎重に避けていたおとうとだ。それが急に、こんな。
――なにも訊かないでやってくれ。
第50話だ。名無星カイトの言葉が、嘆願が、惑うカイトの耳に蘇った。
――なにも訊かず、言わず、待ってやってくれ。それでもし、あいつからおまえへ手を伸ばしてきたなら、もう大丈夫ってことだから……ちゃんと手を、取り返してやってくれ。
カイトは答えた。応えた。
握られた手の、指が浮いたのは一瞬で、カイトはすぐにきゅうっと、おとうとの手を握り返した。足元がふらついている感覚はないが、寄り添ってくれる体に自分からも添う。
この手の理由は、わからない。
名無星カイトであれば、わかったかもしれない。けれどカイトにはわからない。
名無星カイトが言ったように『もう大丈夫』だから伸ばされたのか、それとも自覚はないがほんとうにふらついていて、あまりに危なっかしいからと、仕方なく伸ばされたものなのか。
わからなくても、応えることはできる。伸ばされた手が今日の、今限りだとしても、カイトからおとうとの手を振りほどくことはしない。もう、ぜったいに。
決意と覚悟とともに握るカイトの手を、がくぽもまた、きゅうっと握り返してくれる。
カイトは思わず、笑ってしまった。
これをくり返したら、ふたりともずいぶん指が痛いことになりそうだ。ほどほどにしてやらなければ――
思いながらも、あと一度だけと、力を入れる。入れて、裾をつまんでいる分、少し後ろを歩くマスターを振り返った。
にっこり、笑い返してくれる。
それだけだ。
気がついていないわけではなく、だからといって混ぜっ返すなどして、この危うい均衡を崩そうともしない。
さらになんだか安堵して、カイトは隣を歩くがくぽをまた見た。がくぽは、――まあ、少し残念だが、まっすぐ前を見ていて、兄を見返すことまではしてくれない。
まだきっと、緊張がある。ためらいや、戸惑いが。
あるいは今日だけの、今だけの特別であるから、兄に余計な気を持たせないように?
――なにも訊かないでやってくれ。なにも訊かず、言わず……
待ってやってくれと、名無星カイトは言った。
カイトにカイトのスピードがあるように(それはとてもとろくさく、しかも頻繁に迷子になるから余計、時間がかかる)、おとうとにもおとうとのスピードがあるから、合わせてやってくれということだ。
――おまえはおにぃちゃんだから、ガマンできるな?
カイトさんはやっぱり厳しいのだと、やさしく撫でてくれた手の記憶とともに明夜星カイトは思う。
兄は厳しいと、恋人が頻繁にぼやいていたけれど、会ってみれば、ほんとうにそうだった。おとうとだからことに厳しいわけではなく、名無星カイトは自分自身にもひどく厳しかった。
常に自分を律し、泥を被ることも厭わない。
同じKAITOであるのに――同じKAITOが。
彼は希望であり、期待であり、理想であり、夢で、ただひとりだ。
ただひとりだ。
「……ぁ、のね、あ、がくぽ、……っ」
「なに、兄さん?」
信号待ちで立ち止まったところでふと声を上げたカイトへ、がくぽはようやくちらりと視線をやった。が、合うことはない。カイトの瞳が惑って、あちこちを彷徨っていたからだ。
――なにも訊かず、言わず……
わかるんだけどと、カイトは握る手に力をこめた。
それが大事であることは、わかる。へたに訊いたり言ったりすれば、かえってことをこじらせることがあるということも。
けれど、それでもだ。
「ぁの、カイト、さん……にはっ、ぇと、その、カイトさん……」
「ぅん?」
迷いがあって、いつも以上にうまく言葉にならない兄に、おとうとは眉をひそめる。が、急かすことはしない。繋いだ手が軽く持ち上げられて、なだめるようにぽんぽんと、あやし叩かれた。
「なに、兄さん?」
穏やかに促され、なにより、繋がれた手がほどかれない。
それに縋って、カイトは惑いに戦慄くくちびるを開いた。
「今日、カイトさんに、話、聞いて…ぇと、わかったんだけど、わかんなくて。でも、カイトさん……に、は…」
「話?……ああ、アレ?」
なんの話かと委細を確かめることなく、がくぽは察した。
最前、ロイド四人が集まったときだ。
兄ひとりが、恋人の過ぎた過保護(『過ぎた過保護』だ。過保護の時点で『過ぎて』いるものを、さらに過ぎ越しているのである)発動により、まったく話から取り残されたことがあった。
それを良く思わなかった名無星カイトが、あとで話を教えてやると約束したのである(約束したのは第43話だった。取り残されたのはその直前、2、3話分ほどか)。
それで、あの律儀なロイドはきっと今日、約束したことを約束した通りに果たしたのだろう――
なんだかんだあれ、【がくぽ】だ。そういう察知能力は高い。
そのうえでがくぽがまず視線をやったのは、斜め後ろだった。未だ服の裾をつまむマスター:甲斐だ。
その甲斐は、素早く巡らされたがくぽの視線を上手に避けた。
――ならばそう問題はないだろうと、がくぽは判じた。
兄がしようとしている話が不明なら、甲斐はがくぽと目を合わせたはずだからだ。これは私も聞いていいの?ここにいていいの?と、確認を取るために。
けれど『上手に避けた』――ただ避けたのではなく、『上手に』だ。
これはがくぽ――明夜星甲斐をマスターとする明夜星がくぽであるからわかる、符牒のようなものだった。
話の中身を知っていて、そのうえで『聞かなかった』ことにしているという。
そもそも名無星カイトがなにをどこまで兄に語ったかは定かでないが、その場に甲斐も居合わせるかなにかしたのだろう。
ために、兄が把握している内容は甲斐もそこそこ把握していて、かつ、『聞かなかった』ことにしている――
判断はほとんど一瞬だ。カイトが不審を抱く間もなく、がくぽは言葉を続けた。
「まあ、あのひとには訊きにくいかもね…だからって俺に訊かれてもわかんないと思うけど。なに?」
素っ気ない言いだったが、カイトは気にしなかった。ほんとうにいやな場合、おとうとはそもそも『なに?』と問い返すことをしてくれないからだ。聞く耳はありませんと、きっぱり断られる。
それにカイトは一応、問いの形で上げるが、実のところ答えは求めていなかった。いや、まったくいらないわけではないが、そう簡単に答えの出ることでもないとも思うから、今はただ、問わせてくれるだけでいい。
聞く耳は貸して上げますよと示したおとうとへ、カイトはわずかに背を撓めた。
もとより【がくぽ】のほうがわずかに身長が高い。そうしなくともカイトのほうが目線が下なのだが、これは先に、手加減した(『せざるを得なかった』)ココアを供したときの名無星カイトと心境は同じだ。どうという明記はしないが、同じだ。
話題が話題でもある。わざわざそんな態度を取られたおとうとは、聞く耳は貸すと言ったことを早速後悔しつつ、警戒して眉をひそめた(しかし撤回はしない。兄が相手であれば、そういった意気地はあるおとうとだ)。
わずかに仰け反って逃げるようなしぐさまで見せたがくぽを、その花色を、カイトは揺らぐ瞳でじっと見つめた。
「あ、のね、がくぽ?がくぽ……なんでがくぽ、カイトさんと、――しないの?」