さて、なんといっても所詮、明夜星甲斐とは名無星カイトにとって『他人』である。強いて言うなら『マスターの友人』とはなるが、どちらでも同じだ。優先順位はなきに等しく、低い。
ために、多少、腑に落ちない態度であったとしても、拘泥することはなかった。
恋より遠く、愛に近い-第50話-
話の流れ上、逸れてしまった視線を明夜星カイトに戻すと、名無星カイトはふわりと笑った。
「明夜星カイト、誇れ。おまえのおとうとはあまえんぼうだしわがままだし王子だし、意味不明も極まるけどな。――いい男だぞ。ほんとうに、………いい男だ」
「ほぇ」
いろいろ重なった。いろいろだ。結果、処理が遅延し、溺愛するおとうとを褒められたというのに、明夜星カイトの反応は芳しくなかった。
まずなんといっても、誇れと今さら言われるまでもなく、明夜星カイトにとっておとうとは誇りであるということだ。
そしてまたこれも言われるまでもなく、とても『いいこ』なんである。
とびっきりのあまえんぼうでわがまま王子であるところからすべてがすべて、かわいいの塊だ。意味不明だとかもう、なによりかわいいきゅんきゅんポイントではないか(いや、困ることは困る。困ることは困るし嗜めも叱りもするがしかしだ。同時に、より以上にかわいくてきゅんきゅんしているという――これはおそらく、自称ではなく他称でシスコンだのブラコンだの言われてしまうような兄か姉でないと、ほんとうには理解し難い感覚であると思われる)。
で、それをである。まとめて締めての総合評価として、名無星カイトは『いい男』とした。
明夜星カイトにとって、おとうとは『いいこ』だ。『男』にならない。
いい『こ』だから=かわいいというか、かわいいから=いい『こ』であるというか――
結局この、『男にならない』というところが明夜星がくぽの失恋に繋がりもしたわけであるが、ともかく。
いや、『ともかく』ではない。
そういう、明夜星カイトの感覚でもっては厳然と、厳密に区分けられる表現に、名無星カイトが浮かべた表情である。笑みである。瞳の色であり、浮かび揺らぐ熱であり、――
多くのものが重なって、ただ陶然と、あるいは呆然と見入るだけの明夜星カイトへ、名無星カイトは身を屈めた。
前髪と前髪が触れ合い、額と額がぎりぎりのところで触れ合わない。
「なにも訊かないでやってくれ」
この距離だから聞こえるほどの声で、名無星カイトはこぼした。ささやくように、けれど強く、つよく、強く――
意志がある。
意志があり、決意があり、確固たる思いがある。
覚悟が。
――垣間見えたのは一瞬で、こぼして噤まれたくちびるは、次にはやわらかく開いた。
「なにも訊かず、言わず、――待ってやってくれ。それでもし、あいつからおまえへ手を伸ばしてきたなら、もう大丈夫ってことだから……ちゃんと手を、取り返してやってくれ」
「…」
嘆願する口調に、明夜星カイトはぱちりと瞬いた。まるで今、目が覚めたとでもいうように(これはある意味、正しい。当初ほどではなくなってきたが、明夜星カイトはどうしても名無星カイトの所作に見入らずにはおれない。思考も置き去りに、ひたすら陶然と)。
ぱちりと瞬いた明夜星カイトはわずかに仰け反り、あまりに近くなり過ぎて、逆に見えにくくなった名無星カイトの顔を確かめた。名無星カイトの顔を、表情を、その瞳に浮かぶ色――
奥底まで見つめる透明な瞳から逃げることはなく、しかし名無星カイトが撓めていた背を伸ばそうとしたところで、明夜星カイトが手を伸ばした。名無星カイトの首にかけ、きゅうっと、抱きつく。
「……明夜星カイト?」
そう、『抱きつく』だ。『抱きしめる』や、あるいはハグといったものとは少し違った。どこか、縋るような雰囲気がある。
どうしたのかと、なだめるように呼びつつ後頭部を撫でてやった名無星カイトの肩に、明夜星カイトは額を擦りつかせた。
「も、ほんとカイトさん………かっこいすぎて、あんまりにもいいおにぃさんで、こんなのだめってわかってるのにおれ、どーしてもヤキモチ妬いちゃうよ」
「…なに?」
耳元だから聞こえるほどの声でぽつりとこぼされた言葉に、名無星カイトは眉をひそめた。
難しいことは言っていないが、理解に苦しむ。そういう類の話だ。
しかしそれ以上のことを名無星カイトが訊き返す前に、明夜星カイトはぱっと手を離した。
まず、姿勢に若干の無理があった。だから気になることはあれ、名無星カイトはまず、曲がっていた背を戻す。
背を伸ばして立ち、改めて見下ろした明夜星カイトは笑っていた。懸命に。
「もち、手は取るけど……がくぽが伸ばしてくれた手をおれが取らないなんて、ぜっっったい!――ないけど。ないけど………でもね、たぶん…『前と同じ』には、なんない。です。がくぽはまた、おれに手を伸ばしてくれるかもだけど………おれもその手をぜったい、取るけど。でもきっと、『前と同じ』じゃない」
「明夜星カイト?」
どこか不穏を孕む言葉に、名無星カイトは眉をひそめた。
明夜星カイトは構わず、どうしても懸命さの滲む笑みまま名無星カイトを見返す。
「ぇへへっ………そんなの、先にコイビトつくっちゃって、がくぽの手を離しちゃったおれがいえたことじゃ、ないんだけど………ぜんぜん、ないんだけど。でもがくぽ、きっともう、カイトさんじゃないとだめなこと、あると思うからっ。おにぃちゃんに甘えるんじゃちょっとちがくて、おにぃちゃんが甘やかすのも、ちょっとちがくて………カイトさんじゃないとだめで、カイトさんだからいいっていうのが」
――その『味』を覚えた以上、おとうとはこれまでのように兄を至上の唯一として甘えることはなくなるだろう。
明夜星カイトの言いたいことをだいたいそう理解した名無星カイトだが、しかしである。
つまり明夜星カイトはおとうとが、明夜星がくぽが名無星カイトへ対して『そう』であると言いたいらしいのだが、しかしである。かかしなんである。
「そうか?」
こちらもこちらで眉をひそめたまま、完全に懐疑的につぶやいた名無星カイトへ、明夜星カイトはしょうしょう、痛々しさすら滲んでいた笑みを消した。
真顔でこっくり、頷く。
「『そう』じゃないなら、だめです」
きっぱり、力強く言い切る。それで、なにが『だめ』であるかといえばだ。
「理由とかはなんかわかったようなわかんないような気がしますけど、『そう』じゃないっていうなら、やっぱりおれからがくぽに、そんなことしちゃだめっていいます。がくぽがカイトさんにそういう制限かけていい理由、ないでしょうって」
「あか…」
戻り先は、第47話であった。本日の発端である。どうやらようやく一周回って戻った。
いや、発端に戻る程度ならいいが、まったくの『フリダシニ戻ル』では困る。
『だから』、明夜星カイトには明夜星がくぽから名無星カイトへの態度諸々へ思うことがあっても、なにも言わずに見守ってくれというのが、ここまでの主旨であったはずだ。
だというのに甲斐もなく、明夜星カイトは言うという。おとうとを諫めると。
なにをどう言えば通じるだろうかと、咄嗟に眉をひそめた名無星カイトだが、これは早計だったし、短慮でもあった。
話を聞いたのちの明夜星カイトはまず、言ったはずだ。
『そう』でないなら、だめだと。『そう』でないなら、言うと。
先とは違って、なにも無闇やたらと諌めるとは言っていないのである。
咄嗟に口を開きかけたものの、すんでのところで気がついて言葉を止めた名無星カイトへ、その推量の正しさを裏付けるように、明夜星カイトはこっくり、頷いた。
「でも『そう』なら、いくらおにぃちゃんだっていっても、おれが口を出していいことじゃないもの。ていうか、いくらおにぃちゃんで、がくぽがおにぃちゃんのこと大事にしてくれてても、へたにヨコから口を出したらこじれるのが、こういうことでしょう。…ほんとはやっぱり、あんまりいくないやり方だと思うし、早くやめてあげてって、いいたいんだけど…――ガマンします」
「………」
いかにも『ガマンする』らしく、明夜星カイトは口をへの字にして締めた。
その様子をつぶさに見て、曰くを聞いていた名無星カイトである。徐々に瞳を見開き、それからやはり、釈然とせずに首を傾げた。
明夜星カイトの主張は、わかった。なにをどう説こうと、ここで彼は折れられないのであるということまで含めてだ。
しかしである。かかしなのである。
そういうわけでネックとなるのが、『そう』――つまり、明夜星がくぽが名無星カイトへ対し、恋情を募らせているという、単に甘える相手として見ているのではなく、恋愛対象としているのだという、ここである。
なにも名無星カイトだとて、明夜星がくぽからの好意をまるで感じていないとは言わない。会ったばかりのころより、よほど本心から懐かれ、慕われていると思う。言ってしまうが、信頼されているとすら感じている。
しかしてしかしなのである。かかしもかかしである。
ならば明夜星がくぽが自分に対し恋愛感情を抱いているかといえば、思いきり『?』なのである。
慕われていることに疑いはないが、懐かれていることにも不信はないが、寄せられた信頼にも嘘はないが――
恋愛感情だろうか。
あれは、もう、手痛く終わった初恋を乗り越えたのだろうか。
――こわいのだろうなと、名無星カイトは漠然と考える。
明夜星がくぽが実際どうであるかは、知らない。あれはわからない。意味不明を成型して服を着せたものだ。名無星カイトの理解が及ぶ範疇にいたためしがない。
だからいい。好きにすればいいとは思う。
思いながらつい、目を逸らすのは、未だ怯えるこころがあって、考えることがこわいからだ。誰かに恋慕される自分というものを。
誰かに恋慕する自分というものを考えようとすると、ひゅっと腹が冷え切る。ひゅっと腹が冷え切って、過去のおとうとの眼差しを思い出す。
恋人ができてから徐々にやわらぎ、ここ最近はずいぶんとまるんだものだが、その直前あたりのおとうとの眼差しといったら、なかった。
憎悪に近いほどの嫌悪と、絶望にも等しい悲哀。
なんだって自分はこうまでおとうとを追いこんでしまったのかと、どうすれば取り返せるのか、贖い方も償い方もまるで思い浮かばず、なにをやっても裏目に出た、あの――
わかってはいる。
名無星カイトと明夜星カイトとが、同じKAITOとはいってもまるで『別』であるように、おとうとと明夜星がくぽも、同じ【がくぽ】といってもまったく『別』であると。
だからおとうとは追いこんでしまった自分でも、明夜星がくぽであれば平気かもしれない。いや、実際、今、明夜星がくぽはまるで平然としている。
名無星カイトがうっかり憐れんでしまったところで、むしろしっぽを振り立て、『もっとあわれめー!』と伸しかかってくるような手合いだ。比喩でなく、ころもこ毛玉ボール期のこいぬなのである。
なぜあれは【がくぽ】の形をしているのかと、それがもっとも不思議な。
ほんとうにこうして明夜星がくぽのあれこれを思い返すだに、自分はなんで案じているのだろうと、名無星カイトも呆れしか浮かばない。
呆れしか浮かばないその奥底に、怯えがわだかまっていることもまた、感じる。
――それは今、『そう』ではないからこそではないのか。
ふたりして、互いに想いを寄せていない。
想う相手は別々で、傷を舐めあうだけの関係だ。
『だから』うまくいっているだけで、もしも想いを寄せてしまったなら、また。
――もう一度あんな目を向けられたなら、今度は耐えられない。
明夜星がくぽを思ってそう考えることがもう、少なくとも名無星カイトは『そう』ではないかという兆しであるのだが、しかしだ。しかしなのだ。
どうしても、どうしても『しかし』だ。
考えに沈んだ名無星カイトをどう思ったかはともかく、明夜星カイトはへの字にした口をすぐ、緩めた。
「そうじゃなくてもがくぽ、なんかまだ、自覚が追いついてないみたいだし」
「っ」
はっとして明夜星カイトを見た名無星カイトだが、相手のほうはちょうど、顔を逸らしていた。あさってのほうを見ながら、そう高いわけでもない椅子から足を浮かせ、ぶらぶらと揺らす。拗ねた子供の所作だ。
妙に幼いしぐさを見せながら、明夜星カイトは常にない勢いで、つまり結構な早口で吐き出した。
「機微に敏いとか繊細とかいわれるし、確かにそうなんだけど……なんでかがくぽも、あとはがくぽも、カイトさんを相手にするとおれくらい、にぶくなるよねっ!にぶにぶぽやぽやになっちゃって、思いっきり全力の甘えモードに入っちゃうんだから………しかも無自覚!【がくぽ】の全力で無自覚の甘えモードだよ!もー、ほんとカイトさん、【がくぽ】キラーでおれ、困っちゃうよっ!」