恋より遠く、愛に近い-第51話-
「――ぁあ?」
先とは打って変わり、さばさばとした明夜星カイトの口調だったが、名無星カイトはそれどころではなかった。
なにか今、非常に耳馴染みのある単語が、耳馴染みのない感じで吐かれたような気がするのだが、気のせいか。
もちろん、気のせいではない。
そう、明夜星カイトは未だに知らないが、そして名無星カイトも未だにまったく認めていないが、――
名無星カイトとはKAITOころり、あるいはKAITOキラーであると、周囲に認知されていた。
しかしてどうやら今ここに、(不)名誉な称号がまたひとつ、増えるようである。
【がくぽ】キラーと。
ということは早晩、もうひとつ追加になるであろう。そう、『がくぽころり』である。いや、これは『キラー』とセット売りされる傾向にあるので、早晩もなにも、『キラー』が売り出された以上はすでに以下略。
珍しいほどはっきりと表情筋が動き、おそろしくいやな顔となった名無星カイトだが、明夜星カイトは構わなかった。なにせ、明夜星家長男である。あの、明夜星がくぽの兄なんである。あの明夜星がくぽを育てた(うちのひとり)、育て親(のひとり)たる相手である。
逸らしていた顔を戻すと、名無星カイトへにこぱっと笑う。いつものあの、きらきらしい――きらきらしさが微妙にくすみ、懸命な。
「ウソですっ。ほんとはわかってますっ……だってカイトさん、ほんとにかっくいくって、しっかりきらぴかーな、いいおにぃさんなんだもっ。おれだっておにぃちゃんだけど、カイトさんに甘やかされたら、とろとろになっちゃうし…がくぽだけじゃなくって、がくぽだって、カイトさんに甘えるの大好きで、甘やかされたくってしょーがないの、しょーがないんだってわかってるんだけどっ。ですけどっ」
――さて、これはKAITOによくある傾向であり、名無星カイトとは対極に『らしい』KAITOである明夜星カイトであれば致し方ないのであるが、あなたはそろそろ明夜星カイトの言っていることが混線を極めて不明になってきたと感じておられることだろう。
これ以前から不明は多かれ、よりいっそう不明が極まってきたと(もとより明確であったことなどあるのかという本音は呑んでこれに頷いておくのが、とりあえずオトナとして一般に推奨されるマナーである)。
ゆえに少しだけ明夜星カイトがなにを言っているかを紐解くが、今、彼が口にした【がくぽ】は、前者が自分のおとうと、明夜星がくぽであり、後者が恋人、名無星がくぽである。
名無星カイトとの今の関係から考えるに妙を極めるわがままを吐いているおとうとはもちろんだが、恋人たる名無星がくぽのほうも、相当に兄である名無星カイトのことが好きで、大好きで、兄に甘えきっていると、そう、明夜星カイトは言っている。だいたい。
明夜星がくぽに関してなら、名無星カイトにも大きく異論はない。
そもそも甘やかせと強請られ、甘やかすと容れた関係だ。名無星がくぽを焚きつけ、かつ、牽制するために言った『腕によりをかけて甘やかしている』というのは、実際、ほとんど事実である。
だから、明夜星がくぽのことはいい。
いいが、もうひとり、名無星がくぽだ。明夜星カイトの恋人であり、名無星カイトのおとうとのほうだ。
名無星家のロイドきょうだいの仲の険悪であること、付き合いがある相手で知らないならもぐりであると言われるほどである(これは慣用表現というものであり、『もぐり』というのがいったいなにに関してのどういった『もぐり』であるのかとか、深く突っこまないことが推奨される)。
らしからずらしからぬと常から言われ鋭敏さを発揮する名無星カイトだとて、手に余ると思ったことはあれ、おとうとに甘えられているなどと感じたことは、ついぞないというのに――
「でもやっぱり、……妬いちゃいますっ。だってあんまりがくぽ、カイトさんのことそんけーしてて、…すごくすごくそんけーしてて、神さまくらいにおもってて、大好きで………それで話に聞いてただけなら『そう』なんだけど、ちゃんと会ってみたら、がくぽぜんぜん、おおげさじゃなくって、ほんとに……もっともっとカイトさん、すてきなんだもっ!でもおれだってがんばるけど、すごくがんばるけど、だけど…知れば知るほど、壁が高いくて、ちょっとくじけるっ。ですっ」
支離滅裂な言いを『たははっ』と誤魔化すように笑って締めた明夜星カイトを、名無星カイトは凝然と見ていた。
なにを言っているのか、さっぱり意味不明である。
言いが支離滅裂だからではない。そんなものはKAITOの当然であって、ほかはともかく彼ら自身には『通じる』。
そうではない。そうではなく――
難しい言葉などひとつもないが、むしろ易しい言葉ばかりが並んでいるが、まったく意味がわからない。
そういう類の話だ。
名無星カイトは割りきりが良かった。実にKAITOらしいことである。
らしからずらしからぬと常から言われはしても、やはり名無星カイトもKAITOであれば実にKAITOらしく、きっぱり割りきった。ほとんど無情なほどに(それがKAITOの割りきりというものである)。
明夜星カイトが『なにを』言っているのかは不明だ。そこの解明はしない。
が、意味不明ながらにもわかったことはある。
名無星がくぽの真実がどこにあれ、明夜星カイトに『そう』思わせるような言動を取っている、あるいは取ったということだ。
挙句、気がついていない。
――いくら普段、未熟だツメが甘いと腐していても、気がついたなら気がついたなりに対処はするはずであると、名無星カイトでもおとうとに対し、その程度の信頼はある。
それが、こうして不安を抱えたまま放置しているのだから、気がついていないということだ。
だから未熟で、ツメが甘いと未だに兄はおとうとを腐すのである。
そしてこの場合、わかっていればいいのはそれだけだった。
少なくとも今の名無星カイトにとっては、それだけわかっていれば十分だった。
ぶち切れるのに。
――念のために補記すれば、いくら端然と振る舞っていたところで、名無星カイトにも相当に負荷がかかっていたのである。
ストレスと言い換えてもいいが、この企画、ことに明夜星カイトとのこの仕事に関しては、結構めに負担が重かった。それも無自覚に。
無自覚であればこそ表面的には端然と振る舞うのだが、負荷は負荷としてあり、負担は負担として伸し掛かる。
ここに明夜星がくぽがいれば、名無星カイトがそうまで追いこまれる前になんだかんだと丸めこみ、負担を逸らしたことだろう。
あれは意味不明を成型して服を着せたものであり、あまえんぼうのわがまま王子でしかないのだが、こと名無星カイトのそういう、外から非常にわかりにくい負荷だけはよく気がつき、防ぐために動くのをためらわなかった。
たとえば名無星カイト自身は気がつけていなかったおとうとへの想いを見抜いたり、指摘されたところで未だに自覚が薄いがために無茶をしそうになるのをそれとなく止めたり、あるいはあからさまに盾となったり、妨害を企てたりという(そして甲斐も理解もなく、名無星カイトに『過保護だ』とかぼやかれるわけである。それでも明夜星がくぽはめげず懲りずに名無星カイトを守ろうと動く。動き続ける。これをして、名無星がくぽは無自覚ながら実に言い得て妙な喩えを使ったものであった。『ナイト』と)。
しかしてここに明夜星がくぽはおらず、今日も今日とてここまでに、名無星カイトには相当な負荷がかかっていた。無自覚のまま。
結果、ぶっちり切れた。
いわば、堪忍袋の緒とか、そういったふうに呼ばれる的なものがである。
「そうか」
――であっても名無星カイトの言いはこのとき、まだ端然としていた。端然と、淡々と、静かだった。慣用表現ではこれを『嵐の前の静けさ』と言う。
「つまり俺のおとうとはおまえと俺とを天秤にかけていると?」
「え?いえっ、カイトさ…」
ぴしりと鞭打つように言った名無星カイトに、その意味するところに、明夜星カイトが驚いて目を見張る。
慌てて腰を浮かせた明夜星カイトだが、名無星カイトは構わず鞭のように言葉を振るった。
「おまえを恋人と呼びながら二心あるような振る舞いをしてるってことだろ。少なくともおまえがそう感じるような態度を取ったってことだ。挙句おまえの不安に気がつきもせずゆえに行いを改めもしない」
「ぇ、あの、あ、カイ…」
今度、なにを言われているのかわからずに目を白黒させるのは、明夜星カイトのほうだった。言葉の難易度が問題なのではない。速度だ。
名無星カイトはKAITOであるというのに、あまりにも言葉が早かった。早口だ。怒涛のように言葉をこぼした。
結果、処理が追いつかない。
完全に置いて行かれた顔をしている明夜星カイトを、名無星カイトはきりりと見据えた。
そしてひと言。
「不甲斐ない!」
「あうっ?!」
腰を浮かせかけた中途半端な姿勢でおろおろしていた明夜星カイトだが、この威勢にはぴょんと飛び上がった。
飛び上がり、背筋をぴんと伸ばして立つ。直立不動、二等兵の反応である。せめて敬礼をしなかったのが幸いだった(なにに対してどう幸いだったかはわからない)。
「ん?」
一難去ってまた一難の気配に、そろそろメンテナンスが終了に近づいていた明夜星甲斐が顔を上げた。
直立不動のうちの子二等兵と、その前に仁王立ちする鬼軍曹の図絵がそこにあり、まったく思考が追いつかない甲斐はきょとんぱちくりとする。慣用表現で言うなら『鳩が豆鉄砲を食ったよう』が近いだろうか。
そんな甲斐を鬼軍曹もとい、名無星カイトはきりりと睨んだ。
「今日はここまでだ、甲斐。急用ができた」
「え?急用?」
「ぁ、あのあの、カイトさ…カイトさんっ」
途中参加の甲斐がまったく話の流れが見えないのは仕方ないとしても、ことの始終に付き合っていたはずのうちの子カイトもおろおろであり、まったく理解不能という顔をしている(いや、始終に付き合ったからといって、必ず置いて行かれることはないとは言いきれないのがKAITOではあるのだが)。
しかも『急用』ができたから終わると言いだした名無星カイトは、うちの子カイトの手を掴んでいた。連れて行く気満々である。
まるで流れが読めずに戸惑っているうちの子を、どこをどうひっくり返しても不穏な気配芬々の相手が――
素早く見て取った甲斐はマスターとしての義務(『扶養するロイドに重大な危険が及ぶと予想されるときは、それを見過ごしてはならない』)を(一応)果たすべく、険しい表情の名無星カイトへ、ことさらにゆっくりと首を傾げてみせた。
「いいけど、なに?」
ことを慎重に見極めようとする甲斐の問いに、名無星カイトはなんと答えたか?
「おとうとをどつきに帰る」
――後日、明夜星甲斐が語ったことによればである。
このときの名無星カイトのきっぱりとしていながらさっぱりと気持ちのいいこと、うっかり惚れてしまうところだったという。
当然だが、こんな感想はほんとうにどうでもいい。