恋より遠く、愛に近い-第52話-
で、スタジオから名無星家へ帰宅する道中で名無星カイトはねこみみ(カチューシャ)を購入し、明夜星カイトの頭に嵌めた(購入即、装着であった。マンションに辿りついてからではない。名無星カイトは礼節を守ってきちんと店員さんにお願いし、会計後にタグを取ってもらった。そして右から左で明夜星カイトに装着した。人通りの絶えない街中を歩くとか、移動で電車に乗るだとかいった諸般事情は容赦なく無視された)。
さらには今後、『にゃー』以外言うなと明夜星カイトに厳命した。いつまでかと言えば、いつまでもである。
「おまえが納得したら、やめていい。けど、納得しない限り、ずっと『にゃー』以外、言うな」
「え、あの、カイ…」
「『にゃー』っ!」
「にゃ、にゃーっ!」
『厳命』なんである。二等兵に、(鬼)軍曹への反駁など赦されていようはずもなかった。
反駁どころか、わずかな質問すら権利がない。口にしていいのはYESかはいか、さもなければ『にゃー』のみなのである(軍隊とはそういうところだ。かつて軍隊の近代化ほどの妄言は金輪際聞いたことがない。ただし実際の軍隊で返答に『にゃー』が採用されているかは調査対象外である)。
今度こそ堪えきれず、明夜星カイトは敬礼した。完全に負け犬である。付けているのはねこみみである。衣装は普段着である。頭にはねこみみ――
「コミュニケーション不足なんだ、要するに、おまえら。少しちゃんとおとうとと話してアタマが冷えれば、おまえもヘンな、余計な心配をしなくなるだろ」
「……にゃあ?」
いや、コミュニケーション不足だから話し合えと言って、『にゃー』縛りにされるのはどういうことか。本末転倒甚だしいとは、こういうことを言うのではないか。
さすがに明夜星カイトでも、名無星カイトへ不信の眼差しを向けることを堪えきれなかった。それでも非常に素直に、『にゃー』とだけ鳴くから健気だ。怯えの度合いが知れるとも言う。
ただしこうとも考えられる――ほら、『これ』じゃあおれのいいたいこと、わかんないでしょ?と。
どうやらずいぶん『熱く』なっているらしい名無星カイトに、なんとかして気がついてほしくてわざと鳴いたとも。
しかして残念ながら、相手は名無星カイトであった。らしからずらしからぬがゆえに機微に敏く、逆々で繊細なおとうとと相容れられなかった。
名無星カイトは明夜星カイトの懸念を『にゃー』だけできちんと汲み取った挙句、ふんと鼻で笑い飛ばしたのである。
「【がくぽ】のくせにこの程度で伝わらなくなるなら…恋人が『ちょっと』ヘソ曲げたくらいでわからなくなるっていうなら、俺のおとうとはそれまでの男ってことだろ。おまえが恋人とするには不足だ。心配するな、責任は取る。おまえはかわいいし、俺はこれでもやさしいと評判だぞ?」
「にゃ、にゃぁああっ?!」
――兄の冗句はわかりにくいというのが、名無星がくぽが常々ぼやくことだった。
わかりにくいのでつい、まともに反応してしまい、ジョークのわからないおもしろ味のない男めとか腐されるのである。不条理も極まる。
これもそうだ。
きっと兄流の、不安を払拭してやりたいという思いやりからきたジョークであろうとは思考の片隅を過っても、名無星がくぽは堪えきれず、全力で叫んだことだろう。いないので叫ばないが、これが幸か不幸かと問われると答えに窮するところである。
ねこみみはカチューシャであって後付けオプションであり、明夜星カイトの『本体』とは接続されていない。
が、髪の毛とともにねこみみの毛も逆立ったように見えた。架空のしっぽも天を衝くように立ち、太く、三倍くらいに膨らんでいる。あくまで架空なのであるが。
なんてことを言うんだと、あくまでも『にゃー』で抗議した健気な(あるいは怯える)明夜星カイトから、名無星カイトはそのときだけ、ふっと顔を逸らした。
「それで、俺のおとうとにちゃんと愛されてるんだってことに気づけ。俺のおとうとはおまえだけを、おまえだから愛してるんだって、ちゃんと…」
「あ…」
――それで、ようやく明夜星カイトはなんとなく、察した。
名無星カイトの表の目的は『おとうとをどつく』ことであり、怒りはおとうと、名無星がくぽへ向いているようだが、実際は明夜星カイトに腹を立てたのだと。
かわいいおとうとのことを信じてくれていない『恋人』に腹を立て、こんな強硬手段に出た。
もちろん明夜星カイトは恋人に不信を抱いているつもりはない。恋人が自分を最愛してくれることを、疑うほうがどうかしているとも思う。
けれどきっと、名無星カイトに誤解させるような言い方をしたのだ――
くり返すがねこみみはカチューシャであって後付けのオプションであり、本体と動きが同期することはない。
が、明夜星カイトの気分を如実に表し、へちゃんと寝てしまったように見えた。架空のしっぽもしおしおと丸まって、股の間に入る。くり返すが、あくまでも架空である。しかし丸まって股の間に入った。
ためらいながらも明夜星カイトは手を伸ばし、凛として先を歩く名無星カイトの袖をちょんまりつまんだ。
今さら言っても遅いか、いっそ火に油というものかもしれないが、それでもひと言、謝っておきたかった。
おとうとの恋人は考えたらずで不甲斐ないかもしれないが、せめて誠意はあるのだと。
「ぁの、カイトさ…」
「『にゃー』っ!!」
「にゃ、にゃぁああああ………っっ!」
――案の定で、有無を言わせぬ『にゃー』縛りに阻まれたが。
そして至った名無星家、扉を蹴り開けて(比喩である。おそらく)ご帰宅のおにぃさまなんである。
ようやく第46話に戻った、もとい辿りついたわけだ。長くなると断りはしたが、ほんとうに長かった。おかえりなさい。今はあなたの記憶が確かであることだけを願っている。
ちなみにこのKAITO側の内実は、強襲された【がくぽ】へ語られることはなかった。
名無星カイトの勢いは悠長に回想に耽ることを赦すほどのものではなかったし、そもそも名無星カイトは説明の必要を感じていなかった(説明して目的が明らかとなれば、おとうとは実にうまく表面を取り繕い、恋人を有耶無耶に丸めこんでしまうからだ。悪意はない。『がくぽとはそういうもの』というだけだ。しかしそれでは芯からの納得には程遠いから、問題は再燃し、再々燃する。だから兄はおとうとを『ツメが甘い』と酷評もするわけだが)。
そして明夜星カイトといえば、『にゃー』縛り中であった。説明しようがしなかろうが、口にできるのは『にゃー』一語のみなんである(とはいえKAITOの説明能力というものがある。『にゃー』縛りでなければきちんと説明できたのかといえば、それはそれで首を傾げざるを得ない)。
それで、説明されないまま嵐に巻きこまれた【がくぽ】、明夜星がくぽと名無星がくぽである。
「ほら、早く……とっとと兄さん連れて、あんたの部屋にしけこんでくれる?良かったよね、ここがあんたの家で…俺の家だったら、俺と兄さんは同室だし、そんなこと、ぜっっったいに!イヤっていうか、させないけど」
「しけこむと言うなっ!自分の家だろうが、やらんぞ?!やらんからな?!この状況でヤって堪るかっ!」
相変わらず未経験者らしい、デリカシー的なものに欠ける明夜星がくぽの言いに、『なんでか繊細』(なにが『なんでか』なのかが不明であれば、第32話あたりを参照されるといい)な側である名無星がくぽは轟と吠え返した。
対して、明夜星がくぽはなんと返したか?
「は?なにを?」
――とても嫌そうな顔だった。若干以上に引いている。
そもそも『しけこんで』云々と自分で言いながらそんな返しがあるかという話だが、明夜星がくぽである。相手は誰あろう、明夜星がくぽであった。
名無星がくぽには、最前の明夜星がくぽの発言が鮮明に残っていた。最前も最前、第41話である。
どれとは言わない。あれに関してはだいたいすべての発言が清新であり、斬新であり、名無星がくぽのログに忘れ難く刻みこまれた。いずれ明夜星家のマスター:甲斐と、膝を突き合わせて話をすることはもはや、避け得ぬ宿命というものである。
とにもかくにもそういうわけで、明夜星がくぽが言うなら、この発言はまったくもって『あり得る』範囲だった。少なくとも名無星がくぽにとって、明夜星がくぽがそう返したとき、本気で『わかっていない』可能性はまったく否定できなかった。
否定はできないが確証もなく、しかし否定できない――
負のループが完璧に完成した結果だ。
「がっふ…っ………っ」
「にゃ、にゃぁにゃ、にゃーーーっ……っ!」
言葉を失った名無星がくぽは、意味のない声を上げるしかなかった。
いわば、おとうとの不始末だ。そんな恋人に、明夜星カイトはにゃーにゃーと取り縋った。ありとあらゆる意味で健気な姿である。
「ああ、カイト…」
満身創痍気分の名無星がくぽはうっかり癒され、腰に取り縋ってにゃーにゃー鳴く恋人の頭をやわらかに撫でた。
そこで発覚した。問題はねこみみだけではなかった。
ねこっ毛だったのだ。KAITOの髪質である。
いや、今初めて撫でたわけではない。知ってはいたが、ねこみみがある今、改めて知覚したその感触は名無星がくぽに衝撃をもたらした。
まあ、つまり、萎えていた気分が一瞬で盛り返したという意味で。
いや、それでもヤらない――きっとヤらないが、なにをとは明言しないので、なにをどこまでヤらないことをして『ヤらない』と表現するのかは、個人の裁量に委ねられる。
「あー…うむ。いや、…気にするな、カイト。そう謝り倒さずとも、別に怒ってはいない。おまえのおとうとの言うことにも、それなりに、うむ、なんだ。一理ないこともなくないしな……」
いろいろ有耶無耶とするべく言葉を連ねた名無星がくぽに、明夜星カイトはどう返したか?
――ところでこの背後で明夜星がくぽが、「はあ?『なくない』ぃ?一理しかないでしょ。言いきれよ」とかぼそりと腐し、本人的に見ても一理以上ないのは間違いないようだと、それを受けて名無星カイトが考えたりしたりしていたが、これは完全に蛇足というものである(全員が全員、用法を間違えているだとか、通じ合っているようでまったくすれ違っているだとか、この状況でそこを指摘することも同じだ。蛇足もいいところである)。
で、明夜星カイトである。なんと返したか?
「にゃ゛っ………っ?!」
――いや、返すもなにも、明夜星カイトは今、『にゃー』縛り中であった。それ以外、返さない。くり返すが、健気なことである。
しかしそれにしても、こちらこそよほどに(正しい意味でもって)衝撃を受けたという顔で明夜星カイトは固まった。愕然と、取り縋った先の恋人を見つめる。
受けた名無星がくぽといえば、誤魔化すための曖昧な笑みを浮かべたまま、わずかに首を傾げた。
「いや、まあ、仔細すべてがわかるまでではない。言っていることと言おうか、……言いたいことが皆目わからんわけではないという程度だ。おまえは表情が豊かだし、声にもよく感情が乗るからな」
『兄とは違って』というひと言をすんでのところで控えられたのは、名無星がくぽにしては快挙と言えただろう。
兄から見てどれほど未熟なおとうとであろうと、日々相応に成長しているのである。肝心の兄や本人がその成長ぶりに気がつくのは、ずいぶん時を経てからとなるだけで。
それで、明夜星カイトである。
恋人のこの説明を受け、なにかこう、錆びた音でも聞こえそうな感じの動きでゆっくりと、名無星カイトを振り返った。
未だ愕然とした色を残したその瞳を真っ向から受け止め、名無星カイトは片眉を跳ね上げてみせる。
意訳するなら、『これでこころ置きなくなっただろう』とでもなるか。あるいは、『まだ反論があるのか』と。
その名無星カイトの回答を受け、明夜星カイトは再度、やはりなにかこう、錆びた音が聞こえそうな気がする感じの動きでゆっくり、ゆっくりと恋人へ顔を戻した。
ところでそもそも【がくぽ】とKAITOであれば【がくぽ】のほうが若干、身長が高い。それに加えて今、明夜星カイトは名無星がくぽの腰に取り縋っていた。
なにが言いたいかというと、目線がとても下にあるということである。
それでじーっと、じじじーーーっと、じじじぃいいいーーーーー………
「………カイト?」
そういう機能はないわけだが、しかし冷や汗を掻くような心地の名無星がくぽが重圧に耐えきれなくなり、とうとう声を上げる。
呼ばれて、明夜星カイトはじっと見つめていた瞳をわずかに眇めた。その目元がほんのりと染まり、表情がひくつく。羞恥に。
「………にゃ?」
「ーーーーーっっ!!」
小さく、ちいさく小さくちいさくこぼされた要望に、名無星がくぽは慄然と立ち尽くした。これをして一般に、『こうかはてきめんだ』と言う。
一瞬だ。
「にゃあっ?!」
次の瞬間、名無星がくぽは明夜星カイトを腕に抱え上げていた。大股かつ足早に――
リビングから自分の部屋へ向かおうとしたところで、この場には兄と義弟がいたことをかろうじて思い出した。
思い出したが、しかしだ。かかしだ。そうだ、兄と義弟など、かかしだと思えばいい。彼らなど所詮、へのへのもへじである!
――そういうわけにもいかないのが【がくぽ】というものだが、ならばどうすればといって、方策があるわけでもない。
一瞬の間に思考が詰まり、名無星がくぽはちょっと涙目となってリビングを振り返った。
おもに兄を。
「お、っ、覚えていろ…っ」
この場合、自分により『甘い』のはどちらかという選択である。
名無星がくぽの追いつめられ加減が知れるというものだが、それでおもに見られた兄のほうだ。
確かに明夜星がくぽと比べれば、名無星がくぽへの対応は『甘い』。
ただしあくまでも『比べれば』という話であって、その対応自体が真性に甘いかといえば――
兄は怯みもせずに端然とおとうとを見返し、ひと言、吐き返した。
「自分から負け犬に堕すな、がくぽ」