恋より遠く、愛に近い-第53話-
捨て台詞を吐くなどというみっともない振る舞いはお止めなさい(意訳)と嗜められた名無星がくぽには、反論もなかった。
それでただ、ぅわぁあああんと泣きながら自分の部屋へ駆けこんだ。
これは一部、比喩である。どこが比喩でどこが実際の行動であったか明記はしないわけだが、比喩も含まれている。一部分。
微妙に本格的な泣きが入っていたことは確かだ。そしてそういった状態であっても、抱え上げた恋人を離すことはなかったということも、また。
――といったふうに、完全に負けわんこな名無星がくぽが、やはり微妙に負けにゃんこである明夜星カイトを連れて出て行き、それだけでリビングには少しぞっとするほどの静けさが満ちた。
ただ、静かになったのではない。ぞっとするほどの、ぞっとするような、だ。
そこには確かになにか、次の一難を孕んで潜む気配があった。そのうえでの静けさ、そう、嵐の前の――
これはいやだなと、まず思ったのは明夜星がくぽのほうだった。
なぜなら彼はあまえんぼうのわがまま王子であり、自分が嵐を振りまく分にはいっこうに構わないのだが、巻きこまれるのはまったく好まなかったからである。
ゆえに単なる『あまえんぼうのわがまま』ではなく『王子』とまで冠せられるわけだが、とにかく好かない。
この沈黙、この静寂はよろしくない――
「………で?」
「っ!」
それでとにかく口火を切ったわけだが、明夜星がくぽは咄嗟に後悔した。名無星カイトの反応だ。
びくりと肩を揺らし、驚いたように顔を向けた。その瞳の、大きく見開かれて揺らぐさまだ。
もっとやさしい言い方をすれば良かったと。
もっとやわらかな、あたたかみのある声を出せなかったのかと――
そんな後悔を明夜星がくぽがすると言ったなら、あなたはおかしいと思うだろうか。なぜなら明夜星がくぽといえば意味不明を成型して服を着せたものだし、先にも言った通り、あまえんぼうのわがまま王子だ。
そんな後悔の仕方はまったく理屈に合わないと思うだろうか。それともむしろ、して当然の後悔だと思うだろうか。それが名無星カイトに対するものであれば。
その、どこか怯えたようにも取れる反応で、まさか明夜星がくぽを後悔させることに成功した名無星カイトである。
こちらもこちらで、自分の反応に驚いていた――が、理由はわかっていた。
ゆえもなく『怯えた』わけではない。
意識し過ぎたのだ。
意識し過ぎた挙句、なんでもない声かけひとつで、ひどく動揺した。
つまりこの直前、明夜星カイトにねこみみを被せなければいけなくなった原因である。いや、――まあ、直接的な原因ではないが、間接的な原因とはなるだろう。
明夜星がくぽが、(自覚しきれていないながら)名無星カイトへ想いを寄せていると。
そう、名無星カイトへ指摘したのは、明夜星カイトである。
『明夜星カイト』といえばいろいろ冠せられることはあるが、この場合に言うなら、非常にKAITOらしいKAITOであるということだ。機微に疎く、にぶい。
しかして時に、ひどく鋭い直感様のものを示す(ロイドに直感が働くかどうかは未だ議論のさなかであって結論はないが、一般に広く流布するKAITOの特性のひとつではある。機微に疎いが直感働きは鋭いという)。
今回の発言がにぶにぶさんの的外れな願望であるのか、それとも神憑っていると評判の直感様のものに因るのか、その真偽は置くとしてもだ。
少なくとも名無星カイトには、それで意識せざるを得ないものが腹の底にあった。胸の奥でもいいが、とにかくわだかまって抱えるものが相応にあった。
自分ひとりでうっすらと予感している程度ならまだ、いくらでも誤魔化しが利く。目を背けるのも容易い。
それが、他人から見てもそうではないかと――
誤魔化し、目を逸らしていたものが誤魔化せなくなり、目を逸らすこともできなくなった。
結果、意識し過ぎた。
意識し過ぎた挙句、隠しきれず動揺を晒した。
意識し過ぎて隠しきれず動揺を晒した自分に驚き、驚いたことと隠しきれないほど動揺したということにまたさらに動揺し――
負のループがつけ入る隙もなく完成したわけだが、名無星カイトだった。
そしてここでもうひとつ言うなら、明夜星がくぽである。
理由は不明ながら、どうやら名無星カイトを動揺させたのだと気づき、咄嗟に後悔した。こちらも言うなら、明夜星がくぽであった。
後悔はした。咄嗟だ。つまり、一瞬だ。
刹那ののちには、立ち直った。
なにしろ出してしまったものはもう、どうやっても取り返しがつかないのである。取り返しがつかないことに拘泥して時を無為とするくらいなら、挽回に努めてことを有耶無耶とするほうが大事である(挽回に努めるのはいいが、ことを有耶無耶にすることを目的とするのは通常、推奨されない)。
だから、ふたりが静寂を揺らして見合ったのはほんのわずかな間だった。
「ちょっと」
次の瞬間には踵を返したカイトの背に、刹那ほど出遅れたがくぽが非難するような、不安がるような、微妙な声を上げる。
カイトはかりりと頭を掻き、軽く振り返って笑った。
「邪魔したからな。お詫びにココア淹れてやるよ」
「そんなのはいいったら。じゃなくて…」
――事情を説明しろと。
たとえ求められても、できるものとできないものがあり、もっと言うなら、したいものとしたくないものがある。そして今回はどちらかといえば、『したくない』だった。
名無星がくぽ相手になら、『できない』ほうだったから対処も易かった。
が、明夜星がくぽを相手には『したくない』。
ためにカイトはむずかるような言いを、聞かなかったふりで顔を戻した。
言ったとおり、とにかくキッチンへ向かう。これは言い訳ではあるが、同時に、こころが荒れて腐るようなときには、非常に効果的な回復法でもあった。たとえばココアのだまを潰すであるとか、地味に手間のかかる作業に没頭することは。
「あんたね!」
その背に、無視された形となるがくぽが癇性に叫んだ。
然もありなん――
カイトはひどく平らな、上から分厚い板で押さえつけているにも似た平らな思考で、考える。
なにしろあまえんぼうのわがまま王子だ。無視されるなど、正面切って怒られるよりも耐え難いことだろう。
そうでなくとも名無星カイトのもとには、甘えるために通っている。今日はそのための来訪ではないが、ふたりきりになったのだ。存分に甘やかしてもらえるものと思っているだろう――
そうだ、そういえばふたりきりだった。
まさかこのタイミングで、ふたりきりだ。
いや、扉を隔てて廊下の向こう、さらに扉を隔てたところの個室にはふたりのきょうだいでもある恋人同士がいるから厳密にはふたりきりではないが、しかし今この場、この室内にはふたりきりだ。しくじった。
――という思考が、名無星カイトのうちで亜光速で回った。実にKAITOらしくないスピードだ。なにより追いこまれ加減が知れるというものだ。
そのカイトへ、あまえんぼうのわがまま王子はさらに癇性に叫んだ。
「まだ『おかえり』のハグ、してないんだけど?!」
「おかぅえ………っ、ハグっ?!」
確かに『明夜星がくぽ』とは、意味不明を成型して服を着せたものだ。その言うことの逐一に理解が及ぶことなど、滅多にない。意味不明なことを言い出すなら逆に当然のことで、もはや驚くに値しない。
だとしても、いくらどうでも意想外が過ぎた。
これをカイトが――KAITOが言うならともかく(なぜならよく知られているように、KAITOにはデフォルトで挨拶のキスとハグの習慣がある)、言ったのは【がくぽ】だ。物難いサムライ気質のために、KAITOのこの習慣とはとにかく相性が良くない。
いや、【がくぽ】は【がくぽ】でも、明夜星がくぽだ。意味不明を成型して服を着せたものだが、あまえんぼうのわがまま王子でもある。言いだしたところで不思議はないといえばないが、完全に思考の間隙を突かれたことは確かだった。
結果、聞く耳を封じたはずのカイトも足を止めざるを得ず、どころか愕然と振り返った。
振り返ったカイトのその驚愕ぶりにこそ、がくぽは戸惑ったらしい。先までの癇性は鳴りを潜め、むしろ気弱な風情で首を傾げた。
「ええと、……あれ?違った?『ただいま』のハグ?なに、どっち目線…で、言えばいいわけ?するのはあんたで、僕はしてもらう側でしょ。だとすると、あんた目線?あんた目線なら、『ただいまのハグ』が正しい?ってこと???」
なにやら非常に無邪気だ。無邪気に一所懸命、検証している。正直かわいい。胸がきゅうきゅうする。奥底まできゅうきゅうと締め上げられる。
がしかしだ。かかしだ。そうだもう、明夜星がくぽなどかかしの一種だと思ったらどうだろう。頭に詰まっているのはおがくずだ。だからこうまで意想外で、意味不明なのだ。いや待て、おがくずで思考ができるとはどういうことだ――
相変わらず思考を空転させつつも、カイトはなんだかすっかり毒気が抜けた。いや別に、毒気があったとは思わないが、しかし言うなら『毒気が抜けた』。
「どっちでもいい…」
毒気が抜けたところで急激に疲労が募り、カイトは力なくつぶやいた。ほんとうにもう、こころの底からどちらでも良かったし、なにもかもがどうでも良かった。
それよりもだ。
「まあ僕もね、ニュアンスが伝われば正しい目線とかどうでもいいと思うんだけど。だからさ、あんた…」
「はいはい…」
「ちょっとっ」
ひどく適当に返すカイトに、がくぽが再び癇性な声を上げる。が、続くことはなかった。
いかにも疲れた足取りで寄ってきたカイトが、眦を釣り上げたがくぽの頭をぎゅうっと抱えこんだからだ。ぎゅうっと抱えこみ、後頭部を軽く、ぽんぽんとあやし叩く。
「よしよし………『ただいま』」
いかにも幼子扱いされ、明夜星がくぽはなんと返したか?
「んっ、よしっ………おかえり、カイト」
素直に容れた。
いや、――そう、明夜星がくぽであった。当然と容れる以外の態度はちょっと、カイトには思いつけない。たとえ言動が意味不明の塊であったとしてもだ、これに関しては名無星カイトでも確信が持てた。
もしも彼が、こういった自分からの扱いを容れなくなったとしたら、――
「……お疲れさま、カイト」
「んっ」
深まりかけた思考はがくぽが回した腕によって遮られた。腰に回った腕は強く、少し過ぎるほど強く、きつく、カイトを抱く。
自然、足がもつれ、カイトは堪えようもなく崩れた。
椅子に座る体に伸し掛かるようになってしまったカイトを、がくぽは欠片の文句も言わず受け止め、ただ、抱きしめる。きつく、きつく、きつく、まるでようやく戻ったたからもののように。
――ふたりきりでよかったと。
がくぽへ遠慮なく体重を預けながら、カイトはそっと考えた。
今、ここにいるのがだ。がくぽとカイト、明夜星がくぽと名無星カイト、ふたりきりでよかった。
たとえおとうとといえ、たとえマスターといえ、たとえ誰といえ、こんなふうに甘やかされ、甘ったれる自分を見られたくはない。
ただ、明夜星がくぽ以外には――
「………そういえば」
ほんの数瞬前とは真逆のことを思いつつ、そこでようやくカイトは気がついた。気を回せるだけの精神的余裕がようやく戻ってきたと言おうか。
カイトは未だがくぽの頭を抱えたままながら、項垂れるようだった首をもたげた。
そうだ、『ふたりきり』だ。カイトとがくぽ、名無星カイトと明夜星がくぽのふたりきり。
なぜだ。
――『なぜだ』とはなぜかといえば、そもそも明夜星がくぽは今日、どうして名無星家を訪れているのかという話だ。
リビングからダイニング、キッチンまでひと渡り見回し、カイトは眉をひそめた。
「マスターはどうした?どこにいる?」
「んー?」
きびきびと訊いたカイトに、がくぽはその腹に顔を埋めたまま、にぶい声を返した。同時にぐりぐりと、腹に穴でも空けたいのか、顔をさらに突っこんでくる。
確かにカイト――KAITOの腹は、いわゆる『ばっきばきに割れている』というものではないが、だからといって肉が余っているわけでもない。そうやって突っこんだところで、受け止めるクッションが不足だ。
たいして気持ちのいいものでもないだろうに、しかしこのこいぬはなにかというとカイトの腹にぐりぐりぐりぐりと顔を捻じこんでくる。
「おい」
痛い。
――まず第一には痛いわけだが同時に、痛いほうがまだましという感覚がぞわりと腹を掻き混ぜ、背筋を這い上ってくる。
ある意味、名無星カイトにはよく馴染んだ感覚ではあるが、がくぽ相手には――明夜星がくぽ相手にはこれまであまり抱かなかった感覚だ。
意識し過ぎの弊害が、ここにも出た。