すんでのところで舌打ちは堪えたものの、カイトは忌々しさを隠しきれず、腹に懐くがくぽの頭を押し退けた。せめても体の反応が顕著となって言い訳が利かなくなる前には、止めさせなければならない。

よりく、-54-

だというのにこのあまえんぼうのわがまま王子、知識の偏り具合が洒落にならない(偏りの度合いは第41話が詳しい。ただし度数として明記しているわけではないので、最終的には個人の判断である)ころもこ毛玉ボール期のこいぬである!

お気に入りの場所から頑として離れようとしない。

『痛い』ということはかろうじて察し、多少、力を緩めはしたものの、それだけだ。相変わらずすりすりと、腹に懐く。

カイトは総毛だつ心地を、久しぶりに味わった。

これなら痛みがあったほうが、ずっとましだった。今はただ、気持ちがいい――

「がくぽ」

焦りを含んだ声に、ようやくがくぽも動きを止めた。頑として腹から離れようとはしないものの、しかしあえかに顔を浮かせ、見下ろすカイトと目を合わせる。

あまりにも無垢な瞳だった。無邪気にして無垢であり、吐きたいほど罪悪感が刺激され、堪えるカイトはますます眉をひそめた。

【がくぽ】だ。まさか【がくぽ】であるというのに、よくも――

「遅刻じゃ、なかった……っけなんか、前の仕事が、終わらないとか、なんとかって……今日だと、いてもいなくても変わんないって気はするけど。でさ、とりあえず暇つぶしで、譜面さらってたんだけど」

伝聞調とクエスチョンマークを惜しみなくふんだんに使った、まるで主体性の欠片もない説明だった。相変わらず、安定品質な説明能力ぶりである。だから明夜星がくぽもまた、【がくぽ】であるというのに!

いろいろ疲れが重なったカイトは、なんだか頭痛が兆してきたような気がした。思わず額に手をやろうとして、ところがそんなあえかな望みすら叶わない。

なんのことはない、ようやく腹から離れたがくぽは今度は、カイトの腰を自分の膝に落としたのだ。

もちろんカイトにはひとつの断りもないし、許可取りどころか前触れさえなく、ふいに体を崩されたと思ったら、持ち直されていたという。

「んー♪」

「…っ」

――なにより腹が立つことがなにかといえば、ここまでさんざん、【がくぽ】らしからぬ振る舞いを続けておいてだ、しかし肝心のカイトへの扱いだけは【がくぽ】そのものだったという。

強引で、素早く、でありながら決して痛みを与えず、やさしい――

割りきれないものが瞬間的に腹を埋め尽くして喉元までこみ上げ、カイトはがくぽに抱えこまれながら、泣くか喚くか泣いて喚くか、さもなければ喚いて泣くかを検討した。あくまでも瞬間的な話だが。

カイトの内心など知ったことではないのが抱えこんだ相手、あまえんぼうのわがまま王子だ。なにがそうもたのしいのか、ひたすら嬉々として放り出していた譜面を取る。

ちなみに椅子の近くとはいえ、譜面は床に落ちていた。これをがくぽはやはり、カイトを下ろすことなく半ば潰すように体を折り曲げ、拾った。いや、ここまで来るともう、カイトにも言いたいことは浮かばない――あり過ぎてかえって選択できない状態というのが正しいか。

それで、もはやぐったりしてまともに頭も上げておれず、背後のがくぽに思いきり寄りかかるカイトにだ。やはりおかまいなしで、がくぽは譜面を広げて示した。やたらしわくちゃで、書きこみだらけの。

「あのさ、KAITO進行まだ、ぜんぜん、カンペキじゃないけど…ちょっとはましにうたえるようになったんだよ。まだ二回目だけど、それにしては結構、うたえるほうだと思うんだよね」

意訳する。

『ぼくったら、すっごくすっごくがんばってるでしょうとってもたくさんほめていいんだよ!』

――これはカイトの思考に再生されたものをそのまま抜き書きしたものであって、だから意訳権者はつまり、名無星カイトである。

ついでに言えば視界では、ころもこ毛玉ボール期のこいぬがちぎれそうなほど、ふわふさもっちりしたしっぽを振り立てていた。幻覚だ。疲れがピークなのである。

そういうわけであるのでもう幻覚でもいいから、ふわふさもっちりしたしっぽに頬をべしばし叩かれたい。頬というか、顔面全部、もっさり埋めこんでばさぼさと叩かれまくりたい――

本来的に顔を埋めてもっとも気持ちがいいのは腹毛だ。腹毛か、さもなければ胸毛だ。いくらふわふさに見えても、しっぽに叩かれることは案外、和まない。

それでもそう望むのだから、名無星カイトの追いこまれ加減が知れるというものではないだろうか。

さらに大切なことを言えば、だから幻覚だ。ころもこ毛玉ボール期のこいぬもいないが、しっぽもない。すべては幻覚なのである――

とにもかくにもだ。

カイトはこの相手を腕によりをかけて甘やかしていた。甘やかすと決めて、甘やかしてきたのである。この相手の兄と比べればずいぶんと受動的ではあったが、彼にとって革新的なほどのものであることに違いはない。

どれほど疲れきっていようとも、ほとんど条件反射というものだ。カイトは億劫な腕を上げ、背後をあえかに振り返った。

思っていたより相手のくちびるが近く、吸い寄せられるように見つめながら、カイトの手はきちんと仕事を果たした。がくぽの頭にぽふりと乗ると、わしゃわしゃくしゃと掻き撫でてやる。

「よしよし…」

「ふふん……っ」

疲れきって覇気もない声だろうと、撫でるカイトの手は巧みだ。どれだけこのこいぬを撫でくり回してきたと思っているのか。なんなら寝ている最中でも、望まれればできる気がしているできない。ロイドである。『睡眠』と括っても、人間とはまったく様態が違う)

満足げに瞳を細め、がくぽは肩に預けられたカイトの頭へ顔を傾けた。さらに近づいたくちびるが、近づき過ぎて視界から消える。

やわらかな耳朶を、くちびるが掠めたような気が――

「っんっ……っ」

堪えようもなくびくりと竦んだカイトの腹に回るがくぽの腕に、わずかに力が入った。押さえこむしぐさだ。逃がさないと、逃げられると思うなという(しかしいったい、カイトがなにから逃げるというのか?)

さりげなく押さえこみながら、がくぽはカイトの耳にことさら鼻を擦りつけた。

「…兄さんのにおいがするね?」

「っ!」

こぼれた言葉、指摘と、こぼした声音、口調だ。

カイトはびくりと跳ね起きた――かったが、だから押さえこまれて体の自由はほとんどない。

中途半端な姿勢で止められたことで逆に冷静さを取り戻し、カイトはきつく眉をひそめた。のみならず、押さえこまれて不自由な体を懸命に捻り、首元に埋まるがくぽとなんとか顔を合わせようともがく。

「おまえなっ………まさかと思うが、俺がおまえの兄に手を出したとでも」

「………はあ?」

もがいた甲斐はなかったが、そのカイトの言いにがくぽは自ら頭を上げた。出した声に相応しい、実に胡乱そうな顔で、厳しい目つきのカイトと見合う(これはカイトをひどく理不尽な気分にさせた)

それで言って曰く、だ。

「あんた、なに言ってんの?あんたが兄さんとそりゃ、あんたは兄さんのことすぐかわいいかわいい言うし、いやまあ、兄さんだからねかわいいのは当然なんだけど……兄さんだってあんたのこと、すっごくリスペクトしてて、こっちもこっちですぐ、のぼせちゃうけど」

ちなみに未だに明夜星家はきょうだいそろって、名無星カイトのチートスキル、KAITOころり、もしくはKAITOキラーのことを知らない第50話51話の通り、本日から【がくぽ】キラーも追加されそうになっているが)

兄のほうは単なる天然で流しているだけだが、おとうとのほうはといえば、【がくぽ】なんだから今さらあえて言わなくてもわかるだろうと、周囲が過信した結果である。

確かに【がくぽ】かもしれないが、彼は『明夜星がくぽ』であるということを忘れてはならない――その意味を今、詳述はしないが。

とにもかくにも、この言いでカイトにもわかった。言いだしの不穏さから想定したような誤解をがくぽがしたわけではないということは。

わかったが、わかったからもういいと止めたわけでもない。がくぽはそのまま、ためらうこともなく続けた。

もしあんたの言うようなことになったら、――にも関わらずあんなふうに、あいつに甘えられる兄さんなわけないでしょう。最後、『キスしてくれる?』って強請ってたじゃない。できないよ、あんたとなんか、『そう』なってたら」

「………」

カイトが守ったのは、賢い沈黙というものである。同意であって異論はないが、話を広げる気もないという(ところで『兄さん』こと明夜星カイトは現在、『にゃー』縛り中である。曰くの最後のおねだりにしても、『にゃー』のひと言であった。疑うなら第52話を振り返ってほしい。とにもかくにもこれを、恋人のみならず居合わせた全員が解読していたことを遺憾ながら報告する)

そのカイトの沈黙や意味に構うこともなく、がくぽはつけつけと吐き出しきった。

「僕が言ったのはね、どうせあんたと兄さんとKAITO同士なんだし、ハグとかキスとか、ふっつーにしまくったんだろうなっていう」

「待て、がくぽ」

念のため註釈しておく。この場合の『キス』は『ハグ』とセットであり、言葉は省略されていても意味合いは『挨拶のキス』である。KAITOのデフォルト設定だ。

もちろんそう理解したうえで、それでもカイトはひと言、入れた。

まくってはいない。常識の範囲内だ」

――ここに出宵がいたならいつものごとく、気にするのってそこかなカイト?!とでも叫んだだろうが、未だ帰り来たれぬ身なれば、叫ぶことはなかった(ついでにカイトの反論がひと言ではないのではというご意見もあるかもしれない。が、圧縮すればひと言であるとご了承願えれば幸いである)

それでなお反論しておけば、カイトとしては気にするのはまさにここだ。

家族どころか『マスター』にすら妬く【がくぽ】を恋人としている相手とだ、たとえデフォルト設定であり、なんの気もないものであろうと、ハグもキスも『しまくった』などと誤解されれば、ろくでもないことしか起こらないと相場が決まっている。

対して、【がくぽ】である。

「あんたたちの『常識』の範囲は、こっちから見れば十分に『まくって』るんだよ」

「くっ……っ」

――これだから【がくぽ】は!

すげなく返されて内心では罵ったカイトだが、口に出すことまでは堪えた。この認識の差ゆえに、なおさら【がくぽ】はやきもきせずにはおれないのだと理解していたからである。

そのカイトの、呑みこんだ言葉を察しているのかいないのか――甲斐があったかないかは不明だが、ここで明夜星がくぽはにっこりと笑った。

例のあの、いろいろ垣間見えるタイプの笑みを浮かべ(明夜星家のきょうだいの笑みの裏になにが見えるかは、第12話にだいたいまとめてある)、にこにこにっこりとカイトを抱き直す。そう、抱き直した。

すでに膝に抱えてはいたが、カイトはがくぽに背を預けるような姿勢だった。後ろ抱きだったのだ。

それをやはり、膝に落としたときと同じに断りもなく姿勢を変えさせ、自分と向き合うようにした(そしてやはり最前と同じく、強引にして素早い動きながら、カイトにはまるで痛みも無理も覚えさせなかった)

向き合うようにしたということは、抱き合うことも可能ということだ。

がくぽはそこでようやく、少し痛いと思うほどの力でカイトを抱きこんだ。

「――別に、やましいことなんかなんにもないんだって、わかってるよ。兄さんのにおいだって、兄さんだもの、僕が嫌いなわけないでしょ」

言いながら、けれど抱く腕が緩まない。ますます力が――入りそうなのを、懸命に堪えている気配がある。

このあまえんぼうのわがまま王子がと、大人しく抱きこまれたまま、カイトはこころのうちで毒づいた。

あまえんぼうのわがまま王子のくせに、肝心のところで引く。控える。堪えてしまう。

いつもそうだ。どうでもいいことならいくらでも甘えてわがまま放題するくせに、肝心のところでいつも。

抱きこまれてくちびるを噛むカイトの耳朶に、がくぽはそっとくちびるを寄せた。つぶやく。声が、どうしてか震え、嗄れて聞こえた。

でも、あんたには要らない。から…」

「…っ」

なんだか大声で笑いたいような心地となって、カイトはますますきつく、くちびるを噛んだ。それは快哉に似ている。

けれど、いったいなにに?

誰宛ての快哉であるというのか――

カイトは衝動が落ち着くまで、微動だにしなかった。

それは長かったといえば長かったし、大した時間でもなかったといえば、そうだ。そしてその間、もはやがくぽのほうも微動だにせず、ひと言とて発することはなかった。

そうやって長いような短いような時間ののち、カイトはゆっくりと体の力を抜いた。力を抜いて、抱きこむがくぽに身を預け、片腕を上げて首に回す。

軽くしがみつくような姿勢となると、首元にすりりと頭を擦りつけた。

「――おまえから、おとうとのにおいはしないなあ…」

「ちょっと当然過ぎて背筋が凍るようなこと言わないでくれる?!だいたいあんたは…」

本気でいやそうに、癇性に言い立てたくちびるは、すべてを吐き出しきる前に止まった。塞いだのは指一本だ。カイトが伸ばした、人差し指一本。

それで素直に口を噤んだ相手を、カイトは懐いたままの姿勢で怠惰に流し見た。

「『だから』――俺のにおいがつくぞ、おまえ?」

笑いながら脅す相手へ、がくぽは実にあまえんぼうのわがまま王子らしい素振りで、ふんと生意気に鼻を鳴らした。首を振ってカイトの指を払うと、不遜に笑う。

「別にそんなの望むところってものでしょ。あんたは僕のにおいになって、僕はあんたのにおいになる。なにか問題でも…」

――またしても言葉は途中で、それも指一本で止められた。止まった。

止めたカイトといえば、ほんの一時的に忘れた疲れが急にどっさり重みを増して戻ってきた感覚に、ぐったりとしてがくぽの肩に懐いた。

堪えきれず瞼を落としつつ、なんとか吐き出す。

「ほら、――うたえるようになったんだろ聴いててやるから…うたえ」