恋より遠く、愛に近い-第57話-
「よし、ココアだ!」
「ぃっ……っ!」
明夜星がくぽの美貌がどれほど過ぎ越そうとも容赦なく顔面を掴み、名無星カイトはぐいっと力任せに押し退けた。
押し退けながら自分も体を起こし、かつ、さらに強引に椅子から下りる(より正確に言うなら、下りたのは明夜星がくぽの膝からである)。
当然ながら、いろいろな意味で痛い思いをさせられた明夜星がくぽである。
「ちょっとっ!」
なにをするのかと、顔面を放されて即抗議した明夜星がくぽを、名無星カイトはぎろりと睨み下ろした。
「あ?犯されたいのか、おまえ」
――非常に当然のことであるが、先の『ココア』の宣言によって、部屋中の注目が名無星カイトに集まっていた。
あの宣言はすでに小声ではなく相応の声量で放たれていたので、誰とて聞き逃しようがなかったのだ(しかしたとえ小声でやったとしても、誰かしらが必ず拾っていたような気はしている。特に明夜星カイトが――なにしろ『ココア』である)。
そこで放たれた、この、倫理規範に完全に反する発言である。抵触ではない。完全にアウトだ。
しかもそれを放った名無星カイトの表情である。
倫理規範に反するも仕方がないと、うっかり納得してしまうような――それこそ、わずかな愛情的なものの一片すら感じられない、ただひたすらに凶悪な。
「かヵカかかぃとっ?!」
「あ、に…っ?!」
そんな長男の乱心ぶりに名無星家の面々がそれぞれ蒼白となるなか、そう脅された当の本人である。明夜星がくぽである。
「あんたほんと、そういうとこKAITOだよね……処理が雑」
心底から呆れ返ったという表情であっさり切って捨て、そして流した。
それで、後腐れを引きずることもなく流した明夜星がくぽもまた、椅子から立ち上がる。咄嗟に足を引いた名無星カイトの警戒も虚しく、その体を素早く捕まえるとくるりと回転、ターンさせた。
「はいはいココアココアー」
「ちょ、待て、押すなっ、ああもう…っ」
棒読みだがリズムはついているという、微妙に高等な技を披露しつつ、明夜星がくぽは名無星カイトの背を押してキッチンへと向かわせた。
名無星カイトも勢いに圧され、束の間落ちた闇をあっという間に振り捨てさせられた。
戸惑うのは完全に蚊帳の外で置いてきぼりにされた明夜星カイトに名無星がくぽ、それに彼らのマスターたちであるが――
「甲斐、今日は悪かったな。あのあと、問題はなかったか」
キッチンに押しこまれた名無星カイトが、明夜星がくぽから渡されたエプロンを手早く身につけながら声を投げて来る。
――先の問題発言は、『うちの子』へ向けられたものだ。
その直前、『探し人』が乱入してきたことで意識が完全にそちらへ行ってしまい、彼らがどういったやり取りの果てにああいったことに辿りついたのかがわからない。
わからないとはいえ、なにがあってもおいそれと言っていいことではない。
思うことや思わなければいけないことがあれこれあるわけだが、甲斐はそれらをすべて匣に投げ入れ、横に置いた。よっこいせと掛け声をしつつ立ち上がり、先に座っていたカウンタへ向かう。
「そこは気にしないでいいよ。スケジュールにもまだ、余裕あるし…それより、ココア?カイトくんお手製の?私もお相伴できる?」
椅子に座りつつもカウンタへ乗り出し、食い気味に訊く甲斐に、冷蔵庫からミルクを取り出してきた名無星カイトはこくりと頷いた。
「ああ。全員分つくるつもりだけど」
その傍らでは、勝手知ったる他家の台所と(正しくは勝手知ったる他人の家である)、明夜星がくぽがくるくる動き回り、そのほかの材料を出して作業台に並べていく。
馴れた様子の共同作業を見つつ、椅子に体を戻した甲斐はにこにこと表情を緩めた。
「たのしみだなー。がくぽにしろカイトにしろ、うちの子たちがさ、みんないっつも絶賛してて。一回、飲んでみたかったんだよねえ」
「病みつきだよ、マスター!」
「兄さんは病みつきっていうか、そのうち廃人にされる気がしてるんだけど…」
なんであれロイドにとっての最上級とは、『マスターに褒めてもらえる』ことだ。
憧れのひとを『マスターに褒めてもらえる』気配に、明夜星カイトはいつも以上にきらきらぴかぴかと光り輝いて叫んだ。
それに続いたおとうとのつぶやきといえば、明夜星カイトの残響にすら掻き消されそうなほど小さかったが、含まれる心情の重さたるや、まったく洒落になっていなかった。
が、だからつぶやきであってさらに小さかったため、背中に張りついた名無星カイトにようやく聞こえた程度であり、問題とはされなかった(唯一聞こえた名無星カイトも、きれいに聞き流したものだった。なにしろ心外もいいところだ。そんなつもりでつくっていたことなど、一度もないのだから)。
それに問題といえば、目に見えてはっきりとした問題がひとつ、起こっていた。
明夜星カイトである。
より正確に言えば、明夜星カイトと、彼がきゅううっと腕に絡みついている相手、名無星がくぽである。
いや、名無星カイトと明夜星がくぽとは違い、名無星がくぽと明夜星カイトにははっきり、恋仲であってお付き合いをしている同士であるという前提がある。
だとしても、たとえいるのがマスターときょうだいといった身内だけであっても節度ある距離を保てるのがこの恋人たちのいいところだったのだが(難点でもあった)、今の明夜星カイトはしっかり、名無星がくぽと恋人繋ぎをしていた。
それだけなら問題ではない。なにしろもともと仲の良い恋人同士であるところに、もっと仲良くなってこいと追いやったのだから。
せめてその程度の進展くらいはしていてほしいものである(ものの喩えである。なにがとは明記しないが、これはものの喩えである)。
問題なのは、ふたりしてしっかり腕を絡め合い、指まできつく繋がっているというのに、きっぱり顔を逸らして目を合わせようとしないということだ。
それも、仲良くし過ぎて逆に照れて顔が見られないという、迷惑系おばかっぷるにありがちなオチではない。
仲違いしているのである。
仲違いしていて、お互いからは不機嫌に顔を逸らすが、しかしいつも以上にべったり密着して離れない。
しち面倒くさいこじれ方をしたのだと、一目瞭然ではないか。
「――で?」
背中に明夜星がくぽをべったり取り憑かせた状態で、名無星カイトはカウンタ向こうに立つ明夜星カイトとおとうとと相対した。
ところでこれはくり返しとなるが、カウンタに据え付けの椅子は三脚である。
部屋側端の椅子にはすでに甲斐が座り、真ん中には出宵が座った(明記するのをここまで忘れていたが、実のところ三脚のうち真ん中に置かれた椅子は、家族で使う場合常に必ず出宵の席である。配置理由は今さら言うまでもないが)。
そういうわけで余りは一脚である。
そして一脚であれば明夜星がくぽと名無星カイトはふたりで座れることがこれまでに何度も実証されているが、無理に倣う必要もないやり方である(カウンタの椅子に絞れば第7話と第44話で実証されているが、より正確に言えば椅子の数がいくつであろうが、このふたりは一脚に収まる。主に明夜星がくぽの意向でしかないので、こうして十把一絡げに語られることは名無星カイトにとってよほどに不本意なことであろうが)。
そういうわけで明夜星カイトと名無星がくぽとは、カウンタの前に並び立っていた。べったりくっついたまま。
対する名無星カイトと明夜星がくぽもべったりくっついている(いや、名無星カイトは背後霊気取りに取り憑かれているだけである。少なくとも本人の認識上は)。
「………壮観だねなんか?これいつも?」
「カイトとがっくんはまあ、いつもかな……カイトとがっくんは」
「なんで動画送ってくれないの」
「なんでそんな命知らずだと思われてんスかボクは。きのこもるよ?」
「き、…?なに?」
「ああうん、あちら、左手をご覧ください…そうそれが左手。で、まず生命線の見方だけど…」
――寸劇にのめりこんだマスターたちをちらりと見やったものの、名無星カイトはすぐ、カウンタ向こうの恋人たちに視線を戻した。
「一応、選ばせてやるけど…おまえたちはココアかターキッシュコーヒーか、どっちを飲みたい?ああ、当然だけど、ターキッシュコーヒーは砂糖抜きだから」
「ぉに…っ」
堪えきれず、こころから震撼してつぶやいたのは明夜星がくぽである。
背後霊に鬼呼ばわりされる謂われはないというのが、名無星カイトの心情だ(しかし砂糖抜きターキッシュコーヒーは、わさび増量寿司やわさび入りシュークリームなどとは比べものにもならないほどの所業である)。
そうやってすっくと立つ(背後霊憑き)名無星カイトに、こういった兄のやりように馴れている名無星がくぽはぐっと、くちびるを引き結んで堪えた。
しかしである。
馴れていない以上に、明夜星カイトには無理だった。問題は砂糖抜きターキッシュコーヒーなど決して飲みたくないということではない。
ココアが飲めないかもしれないということだ。
そういうわけで病みつき以上にすでに廃人の傾向が見える明夜星カイトは、ご希望のものを飲みたいなら洗いざらい吐きなさいという名無星カイトの脅しに、抵抗の余地もなく屈した。
が、ともかくそれで、覚束ないながらも説明したところによればだ(ところで説明が覚束ないのはKAITOだからであり、それ以上の意味はない)。
悪いのは、マスターたちだという。
――より正確に言えば、マスターたちの帰宅(と来訪)のタイミングである。順調に『お話し合い』が済み、次の段階のコミュニケーションへ進もうとしたところと、ちょうど重なったらしい。
しかしそれはマスターの咎と成り得るものなのか?
――そう、あなたのその推測はだいたい正しい。
これは互いを責めきれない恋人たちの八つ当たりというものであって、珍しくも今回、ほんとうに、マスターたちはあまり悪くなかった。
悪かったのは、間だ。ただ、間が悪かったのだ。あとは普段の行いだ(きっと比重はこちらのほうだ)。
だから恋人たちはちょうど、別に仲違いをしていたわけではないが、ちょうど『仲直り』をしたところだったのである。『お話し合い』が無事に大団円に済み、いわば二次的言語によってさらに想いを確かめ合おうと。
いったいどういった言語かと、あなたは訊くだろうか。話し合いが快調に終わって仲直りした恋人たちがさらに想いを高めることのできる二次的言語とはどういったものであるのか、訊くのだろうか。
訊かれたところで説明することなく話を押し進めるわけだが、そこで言うなら、【がくぽ】の悪癖が出た。
念のため、くり返しておこう。出た悪癖は【がくぽ】のだ。名無星がくぽ単体に問題があるわけでは、あまりない(まったくないわけではない)。
【がくぽ】はもとより精神バランスの難しい繊細な機体であるのだが、それが恋愛によってさらにがた崩れた結果、『マスター』にすら平然と妬くようになる(ロイドとしてあるまじきことであるが、これは第48話から第49話ですでに争議の的とした)。
それで無視したのだ。名無星がくぽは、『マスター』の存在を。
『そんなものは帰って来ていないし、訪れ来たってもいない』――
なぜなら目の前に溺愛する恋人がいていい雰囲気であるのに、それ以上に優先すべきことなどあるわけがないのだから。
くり返すがこれは、『ロイドとして』あるまじき態度だ。
対して明夜星カイトである。KAITOである。そうまでバランスを崩さない。
だから明夜星カイトは『ロイドとして』当然、マスターに顔を見せに行くことのほうを優先しようとした。
これで未だ『話し合い』に決着がついていなければ別だったのだが、一応の決着は見ていた。なにより、急に飛び出してきてしまったからきっと心配させただろうという前提もあった。そうでなければ甲斐が追って、わざわざ名無星家にまで来る理由がないのだから。
――で、恋人優先の【がくぽ】と『マスター』優先のKAITOで意思疎通が図れなくなり、快調に終わったはずの『お話し合い』は最終的にこじれ、→至ル今。
と。
だいたい聞いて、名無星カイトの下した裁定である。
「はあ?なにそれ!あっっっれだけえらそうにしないしない言っておいて!」
「ほんとうにしてないって、じゃあなにやってたんだ、おまえ」
――これは解説がいるのだろうか。
もはや解説しなくともいいような気しかしなくなってきているのだがあえて解説すれば、現在の名無星カイトは背後霊憑きである。自己主張の激しい背後霊憑きである。背後霊の名を明夜星がくぽという。
それで恋人たちの顛末を聞いた、明夜星がくぽと名無星カイトの反応である。
まったく反対に分かれた。
明夜星がくぽのほうは、事前には『ヤらない』と言い張っていたものを、いざほんとうにやれなかったらへそを曲げるとはどういう料簡だという、非常にまっとうな返しだ(あまえんぼうのわがまま王子には、決してやられたくない。しかしより大事なことは、明夜星がくぽがこういう言いをした以上、第52話で『どちらか』と名無星がくぽを懊悩させた答えは『こちら』だったということであり、併せて義弟の性格の良さまで思い知らされるという――実に災難しかない話である)。
対して名無星カイトといえば、しないしないはするのフラグだろうに、ほんとうにしていないとはナメているのかという。
これは特に芸能関係者にありがちな判断傾向であろう(そうだろうか)。
とにもかくにも、このふたりの反応によってもしも幸いに転じたことがあるとしたなら、明夜星カイトの機嫌が直ったということだろうか。
つまり、名無星カイトと明夜星がくぽとは言っていることこそまったく反対であったが、責めたのはどちらにしても名無星がくぽだったということだ。
これで、そうじゃないでしょうと、はたと目が覚めたのだ、明夜星カイトは。
ココアを吊るされたので思わず洗いざらい白状してしまったが、本来的に恋人間の問題だ。『ふたりの』問題なのである。
それは、今でもあの場での自分の態度が悪かったとは思わないし、恋人には申したいこともある。
だとしてもだ――
これで恋人だけが責められるのは、違う。絶対に違う。
おとうとのことはかわいいし、憧れのひとも憧れのひとだ。しかしてこの場合、それはそれのこれはこれだ。
相手にばかり泥を被せてしまっている、それも非常に無為で無益で無闇な。
こんな状況こそ、不本意以外のなにものでもない!
明夜星カイトは相変わらず恋人の腕に絡みついていたものの、その力の入り方が変わった。咄嗟にそう感じられたのは、きっとそうされている名無星がくぽだけだったが。
もうあと、ほんの少し間があれば、絡みつく腕から恋人の状況を探った名無星がくぽの雰囲気も変わったことだろう。
それで、そうやって恋人ふたりの空気があからさまに変われば、なにを言われずとも名無星カイトと明夜星がくぽも、どうやらこのふたりにはココアを飲ませてもいいようだと判断し、ことは終わっただろう。
が、まあ、勢いである。勢いがある。
空気が変わるのに、間に合わなった。
すでに微妙な負け犬感を醸しながらも睨みつけるおとうとへ、名無星カイトはつけつけと続けたのである。
「それなりに時間はあったはずだろ。とりあえず突っこむもん突っこんでおけば四の五の言わずに済んだってのに…なにをぐずぐずしてたんだ、おまえは」