しかし結論から言えば、時間はそうまで長くかからなかった。
だいたい、出宵が腰を折ってオキャクサマに椅子をお薦めしたあたりで、いろいろあやふやなロイドふたりのくちびるはほどけていた。
恋より遠く、愛に近い-第56話-
がくぽの口の端を濡らす唾液を、カイトはちゅっと軽く吸ってから離れる。
そう、――そもそもどう考えても『ミス』ではない。
KAITOあるあるな『ミス』はあくまでも、挨拶のキスの位置が微妙にずれ、くちびるを掠ってしまった程度のことを言う。
くちびるを覆い尽くした挙句に舌まで捻じこみ、口のなかをべれべれべろべろと思うさま舐め回すのは作為的行為以外のなにものでもない(そういうキスであったから、甲斐も時間がかかると踏んだのである)。
で、どう考えても『ミス』ではなく意図的な、しかもこうまで激しいキスに晒された明夜星がくぽだ。もう少し掘り下げて言うなら、抵抗も拒絶もせず、名無星カイトが仕掛けた濃厚なキスを容れた相手だ。
「ぁん、あんた、ね………っ、ぃ、つも、…ってる、でしょ……っ?!そ、そーいうとこ、だ………って…っ」
「んー?」
かたかたぷるぷると震えながらこぼす。かたぷるかたぷると震えてはいるのだが、カイトの腰に回したままの腕が離れることはおろか、緩むことすらない。
身を起こしたものの、それで椅子から下りることもできないカイトといえば、いかにも興味がないといった鼻声をこぼしただけだった。
椅子の上で中途半端に膝立ちとなった自分の腰を抱えたままの腕を見て、さらに下のほうを眺め、――
目を細め、さらに細かく見定めようとしたところで、その腰を抱えている腕にひと際ぐっと、強い力が入れられた。
「っと…っ」
「だ、ぃたい、さっきだって、ねえっ…」
不安定な足場での膝立ちだ。あっけなくバランスを崩した体が、がくぽへ伸し掛かるように倒れこむ。
咄嗟に椅子の背に手をつき、思いきり行くことは耐えたカイトだが、それで口が塞がれなかったのを幸いとばかり、がくぽはさらにくどくどと不満を言い立てた。
「あんた僕にうたえとか言っておいてろくに聴きもしないでとっとと寝つんぷっ!」
――くどくどと不満を言い立てようとはしたが、それこそろくに言わないうちに、がくぽは再びくちびるを塞がれていた。しかもまた、カイトのくちびるに。
上から覆うように、ためらいもなくがふっとがくぽのくちびるに喰らいついたカイトだが、今度は先よりさらに短かった。舌までは入れなかったからだ。喰らいついた、そのほんの一瞬で離れた。
それでも離れるときにはてろりとくちびるを舐め、ちゅうっと軽く、吸っていく。
「………あんたね」
「はいよしよし」
なにか言いたいがなにを言えばいいのか、なんであれば喰らわれることなく言わせてもらえるのか――
判断がつかず、結局なにも言えなくなってそこで止まったがくぽに、カイトは非常に雑に返した。雑に返しつつ手を伸ばし、がくぽの頭に置くとわしゃくしゃと掻き撫ぜる。
「ぅう…っ」
これもまた雑な動きに見えるが、カイトの手はいつも通り、巧みだった。ツボを心得ている。つまりとても気持ちいい。
なんとも言えない唸り声を上げ、がくぽはうつむいた。椅子の上での膝立ちに戻ったカイトの腹に、こてんと額を当てる。すりりと擦りついて、――
「あのさ、もしかして溜まってんの、カイト?」
――訊いたのは、出宵である。
床座でもまったく構わないとおっしゃるオキャクサマ(ただし条件付き。第55話参照)をカウンタに据え付けの椅子へとご案内し、自分は取って返した出宵である。取って返し、明夜星がくぽと名無星カイトとが座る椅子の傍らに、いわゆるヤンキー座りをした出宵である。
じじぃっと覗きこむ出宵を、訊かれたカイトのみならず、がくぽもまた、非常に冷たい目で見た。
いや、確かに明夜星がくぽはもとより、出宵を苦手としている。挙句今は、名無星カイトとの時間を邪魔された(『名無星カイトとの時間』とはなにで、邪魔されるとなんなのかという話はいったん置く)。
ゆえにとてもではないがあたたかみのある眼差しは期待できないわけだが、つまりだ。
「マスター、誰のどこを見ながらそういう発言をしている?」
カイトがこぼした声もまた、眼差しと同じく凍てついていた(ただしきっと、明夜星がくぽよりはましだった。なぜなら自分のマスターであれば、名無星カイトにはどうしても馴れと諦めがある)。
さて、問われた出宵である。なんと答えたか?
「うん?それはカイトとがっくんのちん…」
「あ、待ってまってまって、えまのん。録音したいです、演技じゃないナマ猥語」
言いながら甲斐は椅子から腰を上げ、ポケットをごそごそやって携帯端末を取り出した。素早く操作しながらいそいそと寄って来ると出宵の傍らに膝を突き、携帯端末を口元に寄せる。
「はいどうぞ」
「なんでそれでがくぽでなく俺を見る、マスター…」
「カイトはなんでだと思う………?」
訊かれたところで、カイトの答えは一択だ。どうして自分を巻きこもうとするのかという。
自業自得なのだから骨も自分で拾えといつものように毒づこうとしたが、口を開くタイミングでちょうど、がくぽが腹へ頭を戻した。同時に、腰を抱く手に力が戻る。
「っ…」
小さくくちびるを噛んだカイトに気がつくことなく、未だ冷たいながらも氷は溶けた瞳で、明夜星がくぽは並んで座るマスターふたりを睨んだ。
「命拾いしたよね、いよちゃん?どっちにしろ、下品には違いないけど…いいトモダチ持ったね?マスターに感謝してよ?」
「ぅあぁうぅ…」
つけつけと言われ、出宵は非常に複雑な瞳を傍らへ流した。端末の(録音機能の)終了操作をしている甲斐、年は離れていても友人たる相手へ。
なんのかんのと関係性が不明になることを頻繁に言ってくる甲斐だが、まったく本気ではない。なにかしら面倒になるとそういった発言を頻発する傾向にあるようだ。
いわゆる思考を介さない発言、単なる癖だが、高確率で言われた側が引き、結果、面倒な話が早く終わると。
悪癖だと本人も認めているが、自覚ある悪癖であるため、『今』のような使い方を意図的にすることもある。
たとえば『今』、いくらなんでも踏みこみ過ぎだと、それとなく牽制するようなときに。
端末をポケットにしまった甲斐は顔を上げ、よそさまのおにぃさんの腹に懐いたまま冷たい目を向けてくるあまえんぼうのわがまま王子へ、にっこりと笑いかけた。
「見直してもらえたようで、マスターはうれしいですよ。これで堂々とえまのんの友達も名乗れるってわけだ」
「捨て身も過ぎるけどね、マスター?」
「でも、誰も傷つかずに済んでるでしょう。丸く収まればいいんですよ、なんでも」
「あ、うん、はい、ごめんねがっくんっ?!」
明夜星がくぽはにこにこ笑って反省絶無の甲斐から出宵へ、忌々しく視線を投げた。
受けた出宵はその場で慌てて正座し、ぴんと背筋も伸ばす。そのうえで、傍らに座る甲斐へとおそるおそる首を傾けた。
「ええとあの、『捨て身』の時点で、カイトラさんがめっちゃ満身創痍ってます…キズダラケマンダラケネコハイダラケです……そのように、お宅様のお殿は仰せにございます…」
「あれ」
噛んで含めるように説かれ、甲斐はきょとんと瞳を瞬かせた。ほんのわずかに沈黙し、首を傾げ、最終的にこくんと頷く。
「なるほど。検討の余地はあることを認めましょう」
第55話を参照されよ。これ以上に言うことはない。
いや、実際は言いたいことが山ほどあったがくぽだが、彼が口を開くより先に甲斐が口を開いた。それも少し、焦りの含まれた調子であり、その『焦り』とは、自分の失言を糊塗しようとしたものではなかった。
言い換えるなら、『心配』だ。
「それはそれとしてカイトくんも起きたことだし、改めて訊きますけど。君の兄さんなうちの子のほうのカイトは?きっとカイトくんといっしょだろうと思ってここまで来たんですけど」
そういえば兄(とその恋人)の行方を訊かれていたなと、そこでようやく明夜星がくぽは思い出した。
甲斐が今、ここにいるのもきっと、急にスタジオを飛び出して行った名無星カイトと明夜星カイトが相応のトラブルを起こしそうだと案じたからだ。
借りものであれば、まずはスタジオの片づけやら手続きやらなにやらしなければならないことが山積みだから遅れたが、それでも見当をつけて名無星家まで追いかけてきた――
その起こした『トラブル』の顛末で結末がアレだから、明夜星がくぽにはマスターの焦りや心配が今ひとつ伝わりにくいわけだが(アレである。とりあえずの結末がなんであったかお忘れなら第52話をなまぬるく参照されるといい)。
とにもかくにもようやくそう察することができた明夜星がくぽだが、やはり彼が説明することはなかった。
安定の説明無能力だからではない。名無星カイトが代わって口を開いたからでもない。
開いたのは扉だ。リビングの。
「ああほら、やっぱりぃっ!マスター来てるっ、がくぽっ!」
「ちっ……っ」
「ぅっわすっごい舌打ちっ?!ボク帰って来てごめんにゃがくぽっ?!」
扉を開けてまず顔を出したのは件の明夜星カイトであり、その後ろから顔を覗かせ、かつ盛大な舌打ちをこぼしたのは名無星がくぽであった。その盛大さといえば、そこそこ距離があるにも関わらず、リビング組四人の耳にきっちりはっきり届いたくらいのものという。
震撼した出宵が扉側へ向き直り、古代の儀式を思わせる動きで深々とひれ伏す。
甲斐といえばほっとした顔を、体ごと扉側へ向けた――
四人の注意が四人だけに交差し、向かっていることを見て取った名無星カイトは、素早く手を伸ばした。未だに自分の腹に懐いたままの明夜星がくぽの耳を掴み、きゅうっと引く。
「ぃ…っ、ちょっとっ」
なにをするのかと抗議にようやく上がった顔の、上がったとはいえ未だ狭い隙間であったが構うことなく、名無星カイトは耳から外した手を今度はそこへ、容赦なく捻じこんだ。明夜星がくぽの額に宛がうと、ぐいっと力いっぱい押しやる。
「ちょっ」
「いい加減にしろっ」
「っ」
ほんとうになにをするのかと、本気で苛立った声を上げた明夜星がくぽだが、それ以上の苛立ちを含んだ声に叱責され、咄嗟に口を噤んだ。
納得したのでも、怯えたのでもない。さらにかちんと、つまり、キレたのだ。
それが証拠に、押さえこんだ手の下からでもわかるほどの壮絶な目つきで睨み上げた明夜星がくぽだが、その瞳はすぐに険を失い、きょとんと見開かれた。
やいやいやっている四人の注意を呼ぶことがないよう、叱責であっても非常に小声でこぼした名無星カイトだが、その顔だ。
隠しようもなく、耳まで赤い。
睨み下ろす瞳も潤んで、焦りが濃い――
「いくらおまえがアレだって、この位置だぞ?!『わかる』だろ、なにがどうなってんのか!なのにすりすりすりすりすりすり……っ!挙句、ケツは掴んで離さないし…っ」
「ちょっと」
小声だがまさにマシンガンのようにまくし立てた名無星カイトへ、明夜星がくぽはすっと目を眇めた。こちらも小声かつ高速だが、凍えずにはおれないほど冷たく、ひたひたと返す。
「人聞きの悪いこと言わないでくれる?お尻は触ってないでしょう、僕!触ってるのは腰…」
「なお悪いんだよっ!!」
「ええっ……?」
小声とはいえこれまでにない勢いで返され、明夜星がくぽが張った氷はあっけなく融解した。所詮、明夜星がくぽなど、ころもこ毛玉ボール期のこいぬに過ぎないのだから当然か。
いや、そうだ。だからその、ころもこ毛玉ボール期のこいぬに過ぎないものにちょっと擦りつかれた、その程度で――
「おまえは一度、焦らしプレイと羞恥プレイと環視プレイについて調べろ。『公開処刑』を付ければなお万全だ」
「絶ッ対ッ、調べない………っ」
並べられた言葉の響きに、明夜星がくぽは深く考えることなくほとんど反射で拒絶した。
そう、深く考えてはいけない――なにしろ今、自分が名無星カイトにやったのは『そう』いうことであると、少なくとも名無星カイトは主張しているのだから。
本気で震撼したせいだろう。腰を抱きこんでいた手が咄嗟に浮き、支えを失った名無星カイトはかっくり、崩れるように明夜星がくぽの膝に落ちた。
「ぁーーーーーっ………」
内蔵機まで出てきそうな声を吐きながら、名無星カイトはぐったりと明夜星がくぽの肩に額を預ける。
懐く青い頭を複雑な表情で眺め、明夜星がくぽは浮いた手をそっと、その背中に当てた。もう片手は後頭部へ回し、刺激しないよう、能う限りやわらかに撫でおろす。
撫で下ろした手を首で止め、逃げられないよう抱きこんで、明夜星がくぽは未だ赤い耳朶にくちびるを寄せた。
「だって、僕だけって、……悔しいでしょ。僕だけ、反応したとか。――あんたも反応したから、よかったよ」
「………」
吹きこまれた言葉に名無星カイトがぴくりと震え、首を巡らせる。
明夜星がくぽが言うのはつまり、先の名無星カイトからの問いに対する答えだ。
主に下腹近辺にしつこく頬ずりして寄越したが、その頬ずりの下で『なに』が『どう』なっているのか、まさか理解できていないのかという。
理解できていた。
当然である(そうとも言いきれないのが明夜星がくぽである。ゆえに名無星カイトも、わかっていないのかとまず訊いた)。
いや、当然どころか、確信的に『そう』なるよう、仕向けていたと。
ではなぜそんな『イタズラ』を明夜星がくぽがして寄越したかといえば、自分が先に、名無星カイトにそう仕向けられたから――
肩に懐くことは止めず、顔の向きだけ変えて横目にぎろりと睨む相手から、明夜星がくぽはふいと瞳を逸らす。
目元に朱を刷いてさらに彩り煌びやかとなった美貌が、拗ねても華やかに歪み、けっと吐き出した。
「あんたキスうまいんだよ。――知らないけど。だって僕はあんた以外となんか、したことないし」